8月10日は何に陽(ひ)が当たったか?
1792年8月10日は、革命期のフランスにおいて、テュイルリー宮殿を襲撃して国王一家を捕らえた事件が勃発した日です。世に言う”8月10日事件“です。
1789年10月5日に起こったヴェルサイユ行進をきっかけに国民議会がヴェルサイユからパリへ移り、政局はパリが中心となりました。国王ルイ16世(位1774-92)、妃マリ・アントワネット(1755-93)ら一家もヴェルサイユ宮殿からパリ市内のテュイルリー宮殿に移りました。
1791年6月20日に国王一家の信任が一気に崩れたヴァレンヌ逃亡事件を契機に、革命勃発をもたらした国民議会(1789.6.17-1791.9.30。いわゆる”憲法制定議会“と呼ばれたのは1789年7月9日から)では、共和政を支持する急進左派の台頭を恐れて、憲法制定による秩序維持を急いで1791年9月3日、ついに憲法が制定され(1791年憲法)、翌日はルイ16世も承認し、フランスは立憲君主国となりました。
憲法制定の目的を果たした国民議会は解散、1791年10月1日に立憲君主制を基軸に立法議会が樹立されました(1791.10.1-1792.9.20)。右翼保守派は立憲君主をしくフイヤン派(立憲君主派。富裕市民・自由主義貴族)で、一方左翼には王政廃止の共和政をしくジャコバン派でした。フイヤン派もジャコバン派もジャコバン・クラブ出身の派閥で、パリのジャコバン修道院に本拠をかまえていました(その後ジャコバン協会と改称)。フイヤン派が脱けたジャコバン・クラブ内では純粋な共和主義者が残りましたが、ジャコバン派は穏和派と最左派に大きく分けられました。穏和派はジロンド派と呼ばれ、商工業を営む中産市民が支持し、王政廃止と共和政宣言、そして革命終結を主目標としました。最左派は貧困市民や農民に指示される山岳派(モンターニュ派)と呼ばれ、急進主義・権力主義を貫いて国王一家の粛清、さらなる革命の推進を主張しました。
1791年12月、フイヤン派は立憲君主内閣を樹立しましたが不安定で、1792年3月にはジロンド派に内閣を預けますが、対外戦争の連敗で6月に内閣は瓦解、フイヤン派内閣が再び樹立されるも立憲君主制は受け入れてもらえず、7月10日退陣を余儀なくされました。実質的に憲法を定めて立憲君主制をかかげても、国王自らが拒否権を連発してしまい、国王中心のフランス王国を治めることができなかったことで、共和政への期待が再び高まっていきました。フイヤン派内閣退陣の翌日(7月11日)、立法議会では”La Patrie en danger(祖国の危機)”の宣言を発して義勇兵をかき集め、やがてパリにたくさんの無産市民、いわゆるサン・キュロット市民が集結しました。
立憲君主制が守れなかった政府、対外戦争の敗戦、これらはすべて国王ルイ16世の杜撰な国家管理が原因であると国民は改めてとらえるようになりました。パリに集結したサンキュロットは義勇兵として武装し、王政廃止を叫びました。こうした中で、マリ・アントワネットは、母国オーストリアやプロイセンなど、対戦国の同盟軍に彼らを威圧するよう求め、7月25日に同盟国司令官ブランズウィック(1735-1806。ブラウンシュヴァイク公爵)は王室保護宣言を発表しました。これは、フランス国内の共和派による王室への攻撃は許さないといった内容で、フランス王室の庇護を宣言したものです。かつてマリ・アントワネットの兄で神聖ローマ皇帝レオポルド2世(帝位1790-92)が、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(王位1786-97)とともに王室保護を掲げた”ピルニッツ宣言(1791.8.27)”に続く、敵からの国王保護でした。
当然のことながらこの宣言はフランスにも届き、義勇兵を怒らせました。陽の当たった1792年8月10日朝、市民と軍はテュイルリー宮殿を襲撃しました(この様子を描いた描画がこちら。wikipediaより)。ルイ16世は徹底抗戦の構えで宮廷軍を出陣させるも、多数のスイス人衛兵が虐殺されました。群衆は宮廷内に押し入り、国王一家を連行しました。両軍合わせて1000人以上の死傷者が出たこの8月10日事件により、国王一家はタンプル塔に幽閉され、新たな革命を達成させたサンキュロット民兵たちは、マルセイユ義勇兵の軍歌”ラ・マルセイエーズ“を誇り高く歌い上げました。この軍歌こそ、現在のフランス国歌です。
これにより、王権停止が宣言され、ジロンド派内閣が再組織されて、議会では立法議会に代わる国民公会(1792.9.20-95.11.2)が誕生、フランス第一共和政が誕生し(1792-1804)、新たな局面を迎えていきます。
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