8月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
1521年8月13日は、アステカ文明がスペイン人コンキスタドール(征服者)のエルナン・コルテス(1485-1547)によって滅ぼされた日です。
14世紀頃、メキシコ中央高原にて活動が始まったアステカ族は、彼らの守護神であるウィチロポチトリ神の予言に導かれて、メキシコ盆地にあるテスココ湖畔に定住しました。アステカ族はウィチロポチトリ神の予言の信託を受けて、蛇をくわえた鷲がサボテンに止まっている場所に町を建設しました。1325年(1345説もあり)、アステカ族はテスココ湖中に浮かぶ小島に目を向けると、実をたっぷりとつけ、石から生えていたサボテンに蛇をくわえた鷲が止まっているのを目撃しました(“蛇をくわえた”には諸説あり)。テスココ湖は南北にのびる大湖でしたが、彼らの目撃した小島は同湖の南北の中心地点にありました。アステカ族は神の予言に導かれるように、湖上に浮かぶ島をテノチティトラン(ナワトル語で”石のように固いサボテン”の意)と名付け、アステカ族の首都として建設しました。これがアステカ文明の始まりであり(1325?-1521)、このサボテンにとまった、蛇をくわえた鷲の光景はのちのメキシコ合衆国の国旗および国章となるのです。
1375年にアステカは”トラトアニ”という王の称号を用い、4代目イツコアトル王(位1427?/28?-40)の頃に”アステカ帝国(アステカ王国)”を名乗りました。第6代皇帝アシャヤカトル王(位1469-81)の時、アステカのシンボルとなる「暦石(太陽の石。カレンダー・ストーン)」と言われる石を作りました。これは太陽がモチーフになっており、石の中央とその周囲に合計5つの太陽が描かれています(画像はこちら。wikipediaより)。中央の太陽は現在の太陽で、周囲に描かれた4つの太陽は過去の太陽を表し、過去のそれぞれの太陽の活動期があり、それら太陽のもとで世界を形成していたとされる神話をうみました。この”五つの太陽”の伝説では、アステカの太陽神および平和神であるケツアルコアトル神(“羽根のある蛇”の意)や戦争の神テスカトリポカ神(“煙を吐く鏡”の意)が登場します。神話によると、アステカのケツアルコアトル神は白い顔をした男神で、テスカトリポカ神との対決で負け、東に向けてアステカを去ることになり、去り際にケツアルコアトル神は、アステカ暦において”一の葦の年(西暦1519年に相当する)”と言われた年に必ずアステカに戻ると約束したのです。
宗教儀式においては、アステカは暦学が発達していたため、太陽が消滅するとされる時期が迫ると、それを避けるために人身御供を行い、太陽の平穏化を祈りました。生贄となる人たちは名誉と思い、すすんで自身の心臓をえぐり出すことを望んだといわれます。人身御供においては、平和の神ケツアルコアトル神は人類創造の神でもあるだけに人間の生贄を反対したが、彼を追放させた戦争の神テスカトリポカ神や、アステカ族の軍神であるウィチロポチトリ神は生贄には積極的でした。よって、当時は人身御供に反対していたケツアルコアトル神が東方に去り、アステカには不在でしたので、人身御供は日常的に行われました。
第8代皇帝アウィツォトル王(位1486-1502)の時にテスココ湖の大洪水がありましたが、これを機に首都テノチティトランは大規模に再建されました。アウィツォトル王の時がアステカ帝国の全盛期とされていますが、その盛時は王の死と共に終わりを告げ、次の第9代皇帝モクステスマ2世(位1502-20)が即位しました。このモクステスマ2世の治世において、アステカ帝国の運命の瞬間が訪れるのでした。つまり”一の葦の年”である1519年、太陽の神であり平和の神であるケツアルコアトル神が復活する年を迎えるのです。
1519年、ケツアルコアトル神が去った方向である東方において、白い顔をした一行があらわれ、アステカの領域に足を踏み入れました。アステカ族はケツアルコアトル神の化身であると確信し、彼らを迎え入れました。同年の11月8日、一行はテノチティトランに招待され、モクステスマ2世と会見しました。
モクステスマ2世はさっそく一行をテスカトリポカ神やウィチロポチトリ神の神殿に案内させました。一行は血まみれの祭壇に生贄として捧げられた心臓をまざまざと見せつけられました。人身御供に反対するケツアルコアトル神が去って以降は、テスカトリポカ神が支配するアステカの現状を見てもらう必要があったのです。
アステカの帝政は神権政治が中心でしたので、皇帝即位においても神から譲り受けた帝位を戴き、また神が再びあらわれた際には帝位を返上するという考え方でした。ケツアルコアトル神の復活によって、モクステスマ2世は一行に対して帝位返上を行い、血縁のあるクィトラワク(1476?-1520)を次期皇帝として推薦しました。こうして、約1週間におよぶ一行への歓待が終わりました。
しかしその白い顔の一行は、アステカの神々は悪魔であると侮辱して、一行が信仰するキリスト教を主張したのです。実はこの白い顔の一行こそが、ケツアルコアトル神の化身ではなく、アメリカ大陸の征服を目的にやってきたスペイン人コンキスタドール(征服者)、エルナン=コルテス(1485-1547)の一行だったのです。コルテスは上陸前にアステカの隣接する反アステカ勢力を味方に付けていて、兵力・武器・軍船すべて準備は整っていました。
さらにはこの一行がアステカ上陸を果たした時、この状況を冷静に見たアステカ国民がコンキスタドールの侵略に違いないとモクステスマ2世に説得したにもかかわらず、モクステスマ2世はこの説得を受け入れられなかったために、国民は皇帝への反感が高まっていました。また人身御供になることが名誉だと思っていた人たちからは、彼らが来たことででこの儀式そのものの存亡危機に陥るために、コルテス一行を歓待する皇帝への反感がより高まったのです。同時にモクステスマ2世の退位の呼び声も高まり、甥のクィトラワクへ譲位する動きも出てきました。
ようやく彼らを征服者だと知ったモクステスマ2世は帝位返上を撤回して、翌1520年コルテス軍に対して攻撃を開始しましたが、すでに国民に嫌われていたモクステスマ2世は、コルテスを迎え撃つ前に、国民をなだめることができなかったのが原因で、アステカ国民の投げた飛礫(つぶて)で頭を撃たれ、1520年6月に没しました。結局クィトラワクが第10代皇帝として即位しましたが(位1520)、この時コルテスの一行によって持ち込まれた天然痘が蔓延し、クィトラワクも伝染、在位3ヶ月足らずで没するという悲運に遭いました。このためモクステスマ2世の従兄弟にあたるクアウテモック(1549?-1525)が第11代皇帝として即位しました(位1520-21)。
好機と判断したコルテスは1521年4月、反アステカ勢力と連合を組み、数万に及ぶ軍兵を引き連れて攻撃を開始し、同月に首都テノチティトランを包囲しました。激しい攻防の末、陽の当たった8月13日にクアウテモックは捕らえられて廃位させられ、アステカ帝国はついに滅亡しました。
コルテスはアステカの財宝を探るべく、潔く死を望むクアウテモックをあえて殺さず、彼に対して下半身を火であぶるなどの激しい拷問を行いましたが、彼はそれでも最後まで口を割らず、アステカ皇帝として国家と民を守ろうとしました。しかし1525年2月、クアウテモックはコルテスによって処刑され、アステカ国民の誇りであった湖上の城塞都市テノチティトランは無惨にも破壊されてしまいました。
スペインの植民地となったアステカ地方は、この後、厳しい搾取・収奪が行われていきました。アステカを征服したスペイン人はこの地を含む北米・太平洋域・カリブ海域一帯、さらにはフィリピンなどアジアの一部をスペイン王国の副王領・ヌエバ=エスパーニャとして統治することになり(1535-1821。当時の日本でも”ノビスパン”の名称で知られました)、テスココ湖は埋め立てられて、破壊されたテノチティトランの跡地では、副王領の首都シウダー=デ=メヒコが建設されました。この都市はその後発展を遂げ、現在のメキシコ合衆国の首都・メキシコシティとなるのでした。
引用文献:『世界史の目 第197話・運命の来臨』
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