4月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

1904年4月8日は、英仏協商発足の日です。
19世紀末期、イギリスとフランスは友にアフリカ政策を実施していました。イギリスのカイロとケープタウンの縦一直線の支配が計画されたアフリカ縦断政策、フランスのジプチとサハラ砂漠の横一直線の支配が計画されたアフリカ横断政策です。
ジブチを出たフランス軍は、ジャン・マルシャン大尉(1863-1934)のもとで、スーダンを横断の形で東進、200名の探検隊をフランス領コンゴからナイル川上流に出発させて、1898年7月、スーダン南東部のファショダに到着し、同地でフランス国旗を掲げました。そこへイギリス縦断政策を実行していたホレイショ・キッチナー将軍(1850-1916)率いる2万5000の軍隊がファショダに辿り着きますと、すでに同地に身を置いているマルシャン大尉率いるフランス軍と出くわし、多大な緊張が走りました。これが有名なファショダ事件です。
英仏植民地戦争の再来とされたこの事件は、すでに西南アフリカ(ナミビア)・カメルーン(ギニア湾岸)・トーゴ(トーゴランド。ギニア湾岸)・東アフリカ(現在のタンザニア・ルワンダ方面。タンザニアは当時タンガニーカと呼ばれ、その後イギリス領)をドイツの領土として抑えていました、皇帝ヴィルヘルム2世(帝位1888-1918)率いるドイツ帝国(1871-1918)の動向に着目し、英仏両国が同志として外交的な歩み寄りがなされて、結果フランスは折れてスーダンから撤退しました。これまで敵対していた英仏の急速な接近は、フランス領モロッコイギリス領エジプトの相互承認が約束されて、陽の当たった1904年4月8日の英仏協商へと導かれ、新たな国際情勢が形成されていったのです。
英仏協商により、長きにわたった英仏間における植民地の利害関係は緩和され、特に”光栄ある孤立“を誇っていたイギリスは、南ア戦争(ボーア戦争。1899-1902)の難航化や対露・対独政策について徐々に他国との協力姿勢を見せ始め、極東では日本と日英同盟(1902-23)を結ぶなどしてイギリス一強主義を終わらせ、そしてヨーロッパでも英仏協商によってフランスとともに相互協力体制を敷いていくのでした。

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