6月19日は何に陽(ひ)が当たったか?

1867年6月19日は、ハプスブルク・ロートリンゲン家出身で、メキシコ皇帝として君臨したマクシミリアン帝(1832-67)が処刑された日です。
マクシミリアンはオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(在位1867-1916)の弟で、1854年にオーストリア海軍の司令長官、57年にはオーストリア領であったロンバルド=ヴェネツィア王国の総督を歴任しました。私生活では、ベルギー国王レオポルド1世(在位1831-65)の娘で、当時ヨーロッパで最も美しい女性と国王が誇るマリー・シャルロット(1840-1927。引用はwikipediaより)と同年ブリュッセルで結婚しました。
1864年、マクシミリアンはメキシコの君主に推戴されることとなります。当時のメキシコは、1821年にスペインから独立し、24年に共和政へ移行した後も、アメリカ合衆国にテキサス、カリフォルニア、ニューメキシコといった、国土の半分以上をアメリカへ譲る不安定な情勢で、深刻な財政難でした。19世紀前半は、保守派の独裁政権の勢力が強く、ベニート・ファレス(1806-72)らを中心とする自由主義派勢力と内戦が続発しました。結果、ファレス派が勝利をおさめ、ファレスはメキシコ大統領となり(任1861-63,67-72)、メキシコの民主化に取りかかりました。
ファレスが大統領になった当時、アメリカは南北戦争(1861-65)が始まったため、対外政策どころではありませんでした。アメリカが国内の内戦で忙殺、メキシコ政策にスキを見せている間に、目を付けたのがフランスのナポレオン3世(在位1852-70)でした。ナポレオン3世は財政難で苦しむファレス政権が、外債利子不払いを宣言したことで、1861年10月にフランス軍を送り込み、イギリスやスペインもこれに続きました。世に言う、メキシコ出兵です。イギリスやスペインは撤退しましたが、ナポレオン3世率いるフランスは、ファレス政権を倒す目的があったため、フランス・ナポレオン3世の傀儡カトリック政権をたてようとしました。1863年、フランス軍はメキシコ保守派と結んでファレス政権を倒し、ファレスをメキシコシティから追い出しました。
フランスはこれまでハプスブルク(・ロートリンゲン)家と数々の対立をしてきましたが、ナポレオン3世は、なぜかハプスブルク家のマクシミリアンをメキシコ皇帝に推薦しました。推薦の理由はいまだにわかっておりません。兄フランツ=ヨーゼフ1世と仲が悪く、兄は弟を体よく追い出す意図があったのか、また1860年代は勢いのあったフランスとは裏腹にオーストリアは低調気味で、ナポレオン3世の伯父に当たる、フランス皇帝ナポレオン(帝位1804-14,15)はハプスブルク家が君臨した神聖ローマ帝国(当時のドイツ)を1806年に滅ぼした人物であり、こうした国際関係からオーストリアはフランスに屈したのか、またイタリア統一に燃えるサルディニア王国とプロンビエールの密約(1858)を交わしてサルディニアを助けるはずであったフランスが裏切り、オーストリアとヴィラフランカの講和(1589)を結んだ時に何らかのアクションがあったのか、マクシミリアンの自由主義思想が、当時のメキシコの風潮に合っていたのか、いまだに真相はつかめておりません。
マクシミリアンは、メキシコ国民の同意を得ることを条件に、ナポレオン3世からの要請を受け入れることになりました。ナポレオン3世の本当の狙いを知らないマクシミリアンは、メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世となり、シャルロッテはメキシコ皇后カルロータ王妃となりました。ナポレオン3世は、メキシコ保守派を使って、強引な方法(ナポレオン3世やメキシコ保守派に通じたエリア内で、マクシミリアンをメキシコ皇帝擁立の是非を国民投票させたとされる。当然賛成多数となります)でメキシコ国民にマクシミリアン即位の同意を得させました。これで、フランス・ナポレオン3世の傀儡政権がメキシコで誕生しました。
皇帝に立ったマクシミリアンは、彼本来の持っている自習主義思想を国策として実施しようとします。外債利子の不払い、保守派独裁の温床であった教会財産の没収や保守派の特権剥奪案の他、信仰の自由化や農地改革などを実施しようとしました。こうした政策はファレス政権とほぼ同等であったため、マクシミリアンはファレスと協調し、ファレスを首相に任命しようとしました。これにはフランス・ナポレオン3世やメキシコ保守派は動揺します。
ファレス側についても、フランスに倒されたファレスが、フランスに担がれたオーストリア人の下で働けるわけがないとして拒絶し、マクシミリアン帝とは協力しないことを表明しました。このため、マクシミリアンはファレスと断絶したことで、ファレスを中心とする共和派や愛国派までも敵に回してしまいます。しかも1865年にアメリカ南北戦争が終わり、ヨーロッパのアメリカ大陸における内政不干渉をアメリカが唱えていたことでマクシミリアン退位と、フランス軍撤退を強硬に要求してきました。これにより、ナポレオン3世は1867年2月にフランス全軍撤退を命じ、フランスのメキシコ政策は幕引きとなりました。しかし、メキシコ帝政はマクシミリアンのもとで続きました。
1865年にはカルロータ王妃の父レオポルド1世が崩御し、しかも翌年オーストリアではプロイセン相手に普墺戦争(1866)も勃発し、ヨーロッパからの支援も得られない状況でありました。カルロータ王妃は渡欧してナポレオン3世やローマ教皇に謁見するも失敗、次第に彼女の精神は破綻していき、イタリアのミラマール城に幽閉、メキシコに帰ることはなく、マクシミリアンには「王妃は既に死んだ」と伝えられました。のち彼女はベルギーに帰国しても幽閉生活で隠匿、1927年に没しました。こうしてマクシミリアン帝は完全に孤立無援となっていきました。
その後もマクシミリアン帝は、わずかながらの忠臣たちと共に、反対派に対し徹底抗戦を貫いていましたが、1867年5月朝、マクシミリアンは捕らえられました。そして1867年6月19日、忠実な部下と共にケレタロ市の”鐘の丘(Cerro de las Campanas)”で銃殺刑に処されました(34歳没)。この光景は19世紀のフランス画家エドゥアール・マネ(1832-83)の描いた『皇帝マキシミリアンの処刑(外部リンク引用。wikipedia)より』で有名です。
結局メキシコの帝政はマクシミリアンの処刑でもって終わり、翌月にファレスが大統領に再任されました。

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