7月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
1870年7月13日は、当時のプロイセンとフランスが戦争するきっかけを作った、エムス電報事件が起こった日です。
ホーエンツォレルン家の君主が統治するプロイセン王国(1701-1918。現在のドイツ北部あたり)では、国王ヴィルヘルム1世(プロイセン王位1861-88)と、鉄血宰相との異名を持つオットー・フォン・ビスマルク宰相(1815-98)のもとで軍事大国化が進み、1866年にはオーストリアを破ってドイツ連邦からオーストリアを退け、ドイツ連邦に代わる北ドイツ連邦の盟主国となって、強勢を誇りました。
1868年9月、スペイン(スペイン・ブルボン朝)で国政不満による革命が起こり、スペイン国王は退位を迫られ、フランスへ亡命しました。このため、スペイン王国は空位となりました。当然、次期王位を巡って、王位継承問題が立ち上がります。
カトリック国スペインとしては、西南ドイツに拠点を構えるドイツ諸侯レオポルトを推薦、スペインの革命派の要請にプロイセン側も賛成しました。
プロイセンでは、北ドイツ連邦をドイツ国家として統一する目標を掲げていました。一方で第二帝政を敷いていた隣国フランスは、次期スペイン王にプロイセンに息のかかったドイツ諸侯をたてるということは、フランスは東西両側からドイツに睨まれる形となり、皇帝ナポレオン3世(帝位1852-70)が黙視する筈がありませんでした。フランスはレオポルト擁立支持の撤回をプロイセンに求めました。ヴィルヘルム1世はもとより、当のレオポルトもこの問題にはあまり関心がなく、結果プロイセンはこの問題から手を引き、レオポルトはスペイン王位を辞退しました。
しかし執念深いナポレオン3世は、不安定なスペイン情勢にいつプロイセンが乗り込んでもおかしくない状況であったことから、プロイセンのヴィルヘルム1世に対し、今後二度とドイツ側からスペイン王位に乗り出さないように外交をはかるべく、陽の当たった1870年7月13日(画像はこちら。wikipediaより)、静養のためドイツ西部の温泉地エムス(バート・エムス)にいたヴィルヘルム1世に、フランス大使としてヴァンサン・ベネデッティ外交官(1817-1900)を派遣しました。フランス大使の要求に対し、ヴィルヘルム1世は「すでにこちらから辞退して、この問題が終わっているというのに、さらに要求を加えるとは無礼だぞ。」と述べてフランスの要求を拒否しました。ヴィルヘルム1世は首都ベルリンにいるビスマルクに、エムスでのやりとりを電報で知らせました。
当のビスマルクはドイツ統一の大前提として、このエムスでの一件があろうとなかろうと、来たるフランスとの決戦に勝つことを第一に考え、軍備を整え始めておりました。フランスが北ドイツ連邦盟主プロイセンに宣戦布告を行った場合は、同盟国が国を挙げて協力するように連邦内に呼びかけていたのです。
こうした中、電報を預かったビスマルクは、普墺戦争の時と同様、ドイツの軍事力でフランスに必ず勝てると確信していたものの、さらに駄目を押す形でこの電報の内容を歪曲することを思いついたのです。
できあがった電報は、「フランス大使がプロイセン国王を脅迫し、今後スペイン王位継承者を出さないという保証を迫った。これに対して王は怒り、大使をその場から追い返した。」という過激な内容でした。ビスマルクは翌日、新聞にてこの電報内容をそのまま発表しました。
新聞を目にしたプロイセン国民は、国王を脅迫したフランス大使の行為に対して怒り、フランス国民にとってもプロイセン国王の大使への追い立て行為に怒りが頂点に達します。結局ビスマルクの挑発に乗ってしまったナポレオン3世がプロイセンに宣戦、普仏戦争(プロイセン・フランス戦争。1870.7.19-1871.5.10)が勃発しました。結局プロイセン軍がナポレオン3世をセダン(フランス東部国境の要塞)で捕らえ、ナポレオン3世は降伏、パリを占領しフランス第二帝政は崩壊しました。戦況はプロイセンが断然有利であり、終戦を迎えぬうちに、ヴェルサイユ宮殿鏡の間において、ドイツ帝国の成立を宣言しました(1871.1)、ヴィルヘルム1世は初代ドイツ皇帝(帝位1871-88)となり、ビスマルクはドイツ帝国初代首相(任1871-90)としてドイツの統一を完成させたのでした。
参考:「世界史の目・80話」より
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