8月19日は何に陽(ひ)が当たったか?

1743年8月19日は、フランス、ブルボン朝(1589-1792,1814-30)の王、ルイ15世(王位1715-74)のメトレス・アン・ティートル(Maîtresse-en-titre。メトレス・ロワイヤル、ロイヤル・ミストレス、公式寵姫、公妾。国王の公式の愛人)として世に知られました、デュ・バリー夫人の生誕の日です(本名マリ・ジャンヌ・ベキュ。1743-93。肖像画はこちらwikipediaより)。先代のメトレス・アン・ティートル、ポンパドゥール公爵夫人(1721-64)の逝去後、ルイ15世の恋人となった女性でした。
ジャンヌ・ベキュは、裕福な家庭に育ったポンパドゥール公爵夫人とは異なり、シャンパーニュの貧しい家に生まれました。幼少時、母は男性遍歴が多く、すぐさま母に捨てられて叔母に引き取られますが、母の再婚先に再度引き取られて、修道院で教養を身に付けました。修道院での教育を終え、侍女として仕えるも、生まれつきの美貌に周囲の男性が誘い寄せられ、これが素行面に影響して侍女の仕事をやめさせられることになります。その後は仕立屋で針子として働くも、ここでも男性が惹き寄せられ、皮肉にも母と同様、男性遍歴を重ねていく人生を送ります。愛した男性の中には、死刑執行人として世に知られたシャルル・アンリ・サンソン(1739-1806)もおりました。
ジャンヌ・ベキュが20歳の頃、子爵のジャン・デュ・バリー(1723-94)と出会います。この子爵は特に上流階級などを対象に売春斡旋(いわゆるポン引き)を行っており、ジャンヌ・ベキュを娼婦として子爵の屋敷に住まわせました。ジャンヌ・ベキュは贅沢な貴族の生活を経験すると同時に、高級な娼婦としての人生を歩み始めることになり、上流階級の貴族と接することにより、社交界の知識教養を身に付けていきます。
1768年、ジャンヌ・ベキュが25歳のとき、紹介によりルイ15世と出会うことになり、同年秋デュ・バリー子爵の弟ギヨーム・デュ・バリー(1732-1811)と形式上の結婚をしてデュ・バリー夫人と呼ばれるようになりました。
60歳を目前にしたルイ15世は、20代半ばのデュ・バリー夫人の美貌に惹かれていき、翌1769年、正式にルイ15世のメトレス・アン・ティートルとなり、彼女はルイ15世における唯一の心の拠り所となって、王太子妃のマリー・アントワネット(1755-93)以上の権力を掌握しました。マリー・アデライード王女(1732-1800。ルイ15世と正妃との間の四女)、マリー・ヴィクトワール王女(1733-99。五女)、ソフィー王女(1734-82。六女)たちは、デュ・バリー夫人の出自や経歴に対して快く思わず、さらには妹を次のメトレス・アン・ティートルに推薦しようとしていた有力政治家のショワズール公爵(1719-85)からその存在を批判され、ハプスブルク家出身のマリー・アントワネットにいたっては完全に身分が違ったデュ・バリー夫人を王宮入りさせることを許さず、しばらくは彼女を無視し続けました。さらにマリー・アントワネットはアデライードら3王女の接近により、デュ・バリー夫人への憎悪をいっそう深めていったと言われています。しかし当のデュ・バリー夫人はその気さくで親しみやすい性格から、多くの貴族からは大いに好かれていました。
ルイ15世はデュ・バリー夫人とアントワネット妃間の対立に悩み、これはアントワネットの母国オーストリアにも伝わりました。母マリア・テレジア(1717-80)の説諭でマリー・アントワネットはデュ・バリー夫人に声をかける機会を得たものの、王女たちに阻止されて退場させられたという逸話があります。しかし1772年の1月1日の新年の挨拶において、マリー・アントワネットはデュ・バリー夫人に”Il y a bien du monde aujourd’hui à Versailles.(=There are many people at Versailles today.今日のヴェルサイユはたくさんの人ですこと)”と話しかけたことで緊張関係は解けていきました。ショワズール公爵との対立は結局ルイ15世に罷免を告げられて収束しました。こうしてデュ・バリー夫人は権力を弱らせずに維持し続けるのです。
1774年4月、ルイ15世は天然痘に罹患し、病床に伏すことになりました。デュ・バリー夫人は懸命に看病を施しました。しかし翌5月、国王は自身が助からないことを悟ったとき、夫人に王宮を去るように告げたのです。愛に溺れて国政を疎かにした罪を神に懺悔(告解。ゆるしの秘跡)するため、そしてデュ・バリー夫人の身を守るためでありました。次期国王となるルイ・オーギュスト、つまりルイ16世(王位1774-92)の治世になったとき、デュ・バリー夫人が、国王即位と同時に国王妃となるマリー・アントワネットの権勢から退けられるのは明白でした。
最後まで国王に尽くしたデュ・バリー夫人は、最後まで国王に愛されたメトレス・アン・ティートルでした。10日、ついにルイ15世は崩御し(1774.5.10)、ヴェルサイユを追われたデュ・バリー夫人はルイ15世を看取ることもできずにパリ郊外のクィイ・ポン・オー・ダムの修道院に送られました。これにて、絶対王政期のブルボン王家におけるメトレス・アン・ティートルの制度は消滅することになりました。デュ・バリー夫人はメトレス・アン・ティートル時代の人脈を使って、同じくパリ郊外のルーヴシエンヌに移り(1776)、多くの貴族を相手に以前のように男性遍歴を積み上げ、自由に人生を過ごしていきました。その中にはパリの軍事総督ブリサック公(1734-92)もおりました。
1789年7月14日、フランス革命が勃発しました。勃発前に没したソフィー王女を除くルイ15世の王女だったアデライード王女、ヴィクトワール王女の2人はローマに亡命し、その後ナポリ、トリエステと渡りました。フランスの旧制度は破壊され、ブリサック公もパリ軍事総督の地位をおろされたため、当時ブリサック公の愛人だったデュ・バリー夫人も追及を避けてロンドンに亡命しました(1791.1)。そして翌1792年のいわゆる8月10日事件で王権が停止され、ルイ16世を筆頭とする王族たちは幽閉処分を受け、ブルボン王政は崩壊しました。反革命分子は徹底的に捕らえられ、ブリサック公も巻き込まれて殺害されました(九月虐殺)。9月より始まる国民公会によって第一共和政(1792.9-1804.5)がしかれたフランスでは、翌1793年1月にルイ16世の死刑が決まり、同月21日、死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンによってギロチンによる斬首刑が執行されました(ルイ16世処刑。1793.1.21)。
こうした乱世であるにもかかわらず、デュ・バリー夫人は同年3月、危険を承知の上で帰国を決断、ルーヴシエンヌに戻ります。帰国の理由は諸説ありますが、最もよく知られているのは、革命によって差し押さえられた王族の資産、たとえば、王宮、城、家具、宝飾が気がかりで帰国したかったという話です。1768年から1774年までの愛すべきルイ15世と送った優雅な生活の中で、国王より賜った、デュ・バリー夫人の古き良き思い出であります、居城、宝石そして家具などの資産を返還してもらうための帰国であったとされています。国家財政が逼迫し、国家の存亡も危うい中で築き上げた財産でした。しかしこの決断が彼女にとって命取りとなってしまったのです。
1793年9月末、デュ・バリー夫人は革命派に逮捕されてしまいました(かつて彼女の下で働かされていた使用人の密告とされています)。彼女はマリー・アントワネットが幽閉されていたコンシェルジュリー牢獄に投獄されました。革命裁判所の裁判によって、まず王宮内での敵であったマリー・アントワネットが死刑を宣告され、10月16日にギロチン台に送られました。このとき彼女は下肥を運ぶ荷車に乗せられるも、毅然たる態度で死に臨み、シャルル・アンリ・サンソンの執行によってギロチンの露と消えました(マリー・アントワネット処刑。1793.10.16)。刑が執行されたのを聞いたデュ・バリー夫人は号泣したといわれます。そのデュ・バリー夫人もついに死刑が宣告され、12月7日にギロチン台に送られることになります。デュ・バリー夫人は、先に処刑されたアントワネットとは対照的に、死におびえて涙が枯れるまで泣き叫び、ギロチン台をまともに見ることができず(革命裁判によって死刑が執行された女性の中でただ一人見ることができなかったとされています)、かつての愛人だったシャルル・アンリ・サンソン死刑執行人に何度も命乞いをします。恐怖政治期(1793年5月31日から1794年7月27日のテルミドール9日のクーデタまで)だけで、およそ2,700人以上の要人の死刑を執行してきたシャルル・アンリ・サンソンもさすがに彼女を直視できず、息子に執行を任せることになりました。そして泣きじゃくるも数人に取り押さえられたデュ・バリー夫人は(画像はこちらwikipediaより)、同年同月、ギロチンにて、ついに斬首されました(デュ・バリー夫人処刑。1793.12.7)。ルイ15世を愛した最後のメトレス・アン・ティートルの、悲哀に満ちた最期となったのです。デュ・バリー夫人こと、マリ・ジャンヌ・ベキュの生涯は、革命の乱世の中、50年で幕を閉じることになりました。
引用文献『世界史の目 第246話より』

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