8月31日は何に陽(ひ)が当たったか?
1907年8月31日は、英露協商が成立した日です。
1796年に建設されたペルシアのカージャール朝(1796-1925。首都テヘラン)では、19世紀、ロシアの攻撃を受けてグルジアやアゼルバイジャン北部は併合されて、不平等条約であるトルコマンチャーイ条約(1828)を結ばされてアルメニアを割譲、開国させられました。またアフガニスタンをめぐってはイギリスと抗争をおこない、結局イギリスと不平等条約(1857年。パリ条約)を結ぶ羽目になりました。国内でも政情が不安定化し、経済破綻が続発しました。この社会不安を解決する救世主(マフディー)の再臨を呼ぶ声が高まり、バーブ教による英露排外運動(バーブ教徒の乱。マフディーの反乱)が起こり、激しく弾圧されました。
また4代目国王ナッセレディーン・シャー(位1848-96)の治世下、英露の経済支配が強まり、特に1890年におけるタバコの専売利権のイギリス譲渡(原料買付から流通全般に渡る全利権)の契約が成立して以降、バザール(イスラム世界の市場の意味)商人をはじめとするペルシア国民の不満が集中し、イスラム思想家アフガーニー(1838?-1897)や十二イマーム派(シーア派の一派)の最高権威らによって喫煙のボイコットを国民に訴えて抵抗しました(タバコ・ボイコット運動)。列強の支えによって専制化した国王に反旗を翻し、ペルシア国民によるナショナリズムが高揚していったのです。しかしその後も体制は変わらず、イギリスが石油利権(イラン産石油の採掘権・精製権)を獲得する(1901)など、干渉は続きました。
国民議会を求めるペルシア国民が、英露介入と国王専制に反する運動の規模が最大に達したのは、1905年です。この年、砂糖の価格が高騰したため、国王がある砂糖商人を罰した事件が起こりました。これに憤慨した国民は専制反対運動を激化させたため、5代目王モザッファロッディーン・シャー(位1896-1907)はこれに屈し、翌1906年、第1回国民議会を召集、憲法を発布しました。これがイラン立憲革命です。議会は、封建的特権を取りやめ、英露の経済介入を審議し、利権譲渡・外債を拒否しました。イギリスとロシアは、当時ドイツのトルコ進出を警戒する目的で、相互に干渉しているペルシアやアフガニスタン、チベットなどの利害関係を調整することにし、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲、チベットは両国内政不干渉の立場を取って中国の宗主権であると認め、ペルシアは、北西部をロシア、南東部をイギリスがそれぞれ勢力範囲であると取り決めました。そして、陽の当たる1907年8月31日、英露協商を結ぶに至ったのです。これにより、これまで結んだ1891年結成の露仏同盟、1904年結成の英仏協商と合わせ、英仏露の三国協商ができあがる形となりました。
引用文献:『世界史の目 第68話』より
20世紀の歴史 10 ロシアと近東 ロシアとトルコ,ペルシア,アフガニスタン/シベリア流刑/20世紀初頭のロシア文学/トルコの革命/汎スラブ主義
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