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辛亥革命・前編
-10月10日、武昌-
義和団事件(ぎわだん。北清事変。1900)によって、列強による半植民地化がいっきに加速した中国・清王朝(しん。1616-1912)。半植民地化というのは、統治を清朝政府に任せ、経済的利益のみ搾取する形であり、清朝としての国家形態は名目的で、列強からの高圧的要求を次々と呑み続ける有様であった。次第に侵食されていくわが国を憂う民衆には、"扶清滅洋"・"尊王攘夷"を掲げる力も消え失せかかっていた。
かつて、帝室に対して議会制立憲君主政を熱望して、たった3ヶ月余であったが(百日維新)、変革をおこした変法派がいた。しかし守旧派の西太后(せいたいごう。1835-1908)にやぶれ挫折した。その後義和団事件で荒廃した中国において、清朝政府は、ようやく国政改革の必要性に迫られ、遅咲きの改革を実施することになった。時の皇帝光緒帝(こうしょてい。位1875-1908)は幽閉中であったが、この時代の改革を"光緒新政"と呼ぶことがある。つまり、変法を実践して立憲君主政の国家に生まれ変わろうとする、光緒帝が変法派とともに、"戊戌(ぼじゅつ)の変法"として起こしたのと同様の大改革である。今回はさすがの西太后も保守的な態度を改めざるを得ず、かつて清朝政府によって挫折させられた変法派の諸改革を次々と施していった。日本の明治維新をモデルとした、学制改革・官制改革・新建陸軍(新軍)創設・殖産興業などを行い、清朝政府に葬られた改革を再び切り開いたのである。日本が日露戦争(1904.2-05.9)に勝利してからは、新政はますます加速し、科挙の廃止が行われ(1905)、1908年には日本の明治憲法を範とした"憲法大綱"が公布され、1913年の国会開設が公約された。こうした改革に合わせるかのように、変法派は"保皇派(ほこうは)"と呼ばれるようになった。
変法を期待した光緒帝は憲法大綱の公布から3ヶ月後の11月に崩御、その翌日には西太后も没した。生前、西太后は光緒帝の2歳の甥である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ。1906-1967)を強引に推薦していたことで、彼を宣統帝(せんとうてい。位1908-1912)として即位させた。
1911年、責任内閣制度が施行された。内閣と軍機処が廃止され、総理大臣と外務以下の10大臣が置かれた。しかし、非難が集中した。組閣後の顔ぶれは、満州人の皇族や貴族が大部分を占めていたのである(親貴内閣。しんき)。皇室の専政を延命させる措置ともとれるこの組閣に地方の有力者や貧民層は失望した。かつての変法派だった保皇派は立憲君主政の立場で、皇帝の中央集権的政治の存続をめざす、当時代ではもはや保守派であり、急進的立憲派や、清朝を倒して共和政誕生を期待した革命運動者らの不評を買ってしまうことになった。1907年に、婦人解放運動をおこして男女不平等の撤廃を叫び、捕らえられて斬殺刑に処された女性・秋瑾(しゅうきん。1875-1907。処刑前の取調べには一切口をつぐみ、ただ一句"秋風秋雨、人を愁殺す"とだけ書き遺す)のように、早くから清朝打倒に命をかけた革命家もいたが、この1911年を皮切りに示威運動が各地で頻発した。
光緒新政の時代では、民族資本家の台頭が目立ち、中国人自身が投資した紡績業・製塩業・海運業などが発達した。民族資本は、中国に進出・侵食していく外国資本に対する抵抗勢力として、外国資本が経営する鉱山や鉄道などの利権を回収(買取)しようとしていた(利権回収運動)。また民族資本家たちは反清的でもあり、清朝政府に対しても、国会の早期開設を請願した。また反清的な漢民族の間では、東南アジアに渡航し、団結と相互扶助を堅持し、経済的成功を収めた華僑(かきょう)もいた。
光緒新政の一環として改革された学制によって、数々の学校が設立されたが、反清民族資本家の子弟の多くは日本などの先進国へ留学し、近代政治思想を学んだ新しい知識人層を生みだした。これは、反清的立場である彼らが、漢民族の主権国家樹立を目指し、革命運動をおこそうとしたもので、清朝政府を打倒する革命の気運がいっそう高められた。
そして、華僑や留学を通じて、外からの知識を身に付けた革命家が、次々と革命結社を組織していくことになる。早くは孫文(そんぶん。1866-1925)がハワイで組織した興中会(こうちゅうかい。1894年設立。広東派)がみられ、黄興(こうこう。1874-1916)や宋教仁(そうきょうじん。1882-1913)らによる華興会(かこうかい。1904年設立。湖南派)、章炳麟(しょうへいりん。1869-1936)や蔡元培(さいげんばい。1868-1940)、そして前述の秋瑾らによる光復会(こうふくかい。1904年設立。浙江派)などがある。
華興会の黄興は、西太后の70歳の誕生祝賀式典が催された時、式場に集まる湖南全省の要人全員を爆殺する計画をおこし(1905。長沙蜂起)、失敗して日本に亡命、宋教仁も亡命先日本の早稲田大学で法律を学んだ。光復会の章炳麟はかつての太平天国(たいへいてんごく。1851-64)が掲げた"滅満興漢"に共鳴、上海で雑誌『蘇報』を発刊し、宣伝活動を行った人物である。
興中会の孫文は、1895年、広州で蜂起して失敗し、1897年訪日して政治運動家の宮崎滔天(みやざきとうてん。寅蔵。1871-1922)と知り合った。彼を介して後に日本で内閣を組織する犬養毅(いぬかいつよし。1855-1932)を始め、政財界の要人とも交わるようになる。1905年、宮崎の協力も手伝い孫文は興中、華興、光復の3結社の団結がはかられ、8月20日、東京にて中国同盟会(中国革命同盟会)が結成された。
孫文は、革命の理念を「民族独立」・「民権伸張」・「民生安定」からなる三民主義として掲げ、これに基づき「駆除韃虜(くじょだつりょ。北方の蛮族、すなわち満州族の駆除)」・「恢復中華(かいふくちゅうか。中華民族の回復)」・「創立民国(共和国の創立)」・「平均地権(土地所有の平等)」からなる同盟会の四大綱領を打ち出した。同年10月には機関紙『民報』が東京で発刊され、文筆に長けた章炳麟が編集長を務めた(編集参加者には、のちの日中戦争で日本側につく汪兆銘がいた。おうちょうめい。1883-1944)。総理は孫文、副総理は黄興が務め、また執行・評議・司法の3部を設け、支部を54にまで拡大させていった。
東京で同盟会が結成された1905年というのは、日露戦争の勝敗が決した年である。5月にロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎(とうごうへいはちろう。1847-1934)率いる日本艦隊が壊滅(日本海海戦。5.27-28)、日本は、北の大国ロシアに勝利した。日本の勇姿を見た孫文は、劣勢な母国と対照的に、有識的で国力のある日本を大いなる模範としていた。この日本の勝利が同盟会結成を促進させ、3ヶ月後の8月に誕生させたという見方もできる。
しかしその後日本に追われた中国同盟会は、拠点を母国に移して、9回に及ぶ蜂起、また清朝要人暗殺を試みたが、ことごとく失敗に終わった。しかし数々の失敗を受けても立ち上がる革命精神は、いつのまにか国民に支持されていった。当時の中国は、賠償金支払いによる増税などで民衆の生活は貧窮化していたため、宮廷・政府に対する怒りも頂点に達していた。
会の内部では章炳麟率いる光復会が孫文と対立して離れていくなどの分裂もあったが、革命精神の浸透において、最も意外であったのは、清朝政府の防波堤となるべきだった新軍の将校や兵士にも溶け込んでいったことであり、うれしい誤算であった。新軍の中に日本への留学生も多くいたことが浸透につながったとされる。
1911年6月、清朝政府として成立した皇族内閣、慶親王内閣(けいしんおう。1836-1916。慶親王は乾隆帝の曾孫。けんりゅうてい。位1735-95)は、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカの4国の銀行で結成した対華借款団(四国借款団)からの借金のため、大量の外債を発行せざるを得ない状況であった。このため慶親王は、かねてから計画を練っていた国内の全幹線鉄道国有化を打ち出し(鉄道国有令)、国有となった幹線鉄道を借金の担保に充てようとした。列強が中国の資産の中で必要とするのは領土、鉱山(採掘権)、そして鉄道(敷設権)であり、鉄道を他国に譲渡した行為に等しい行為であった。これには民族資本家や、利権回収運動家を大きく刺激させ、反政府運動を招くことになった。広東・湖南・四川各省の抵抗運動は激化し、特に四川では翌6月に結成された保路(ほろ)同志会を中心に国有化反対運動を展開していった。
保路同志会の運動は、8月、省都成都中心のストライキに踏みきり、9月8日、民衆大暴動に発展した(四川暴動)。大都市重慶(じゅうけい)も武装蜂起した民衆に占領されかかったため、慶親王内閣は四川暴動を武力で平定することを決め、援軍増派を四川省の東隣にあたる湖北省の新軍に求め、出動命令を下した。
現在の武漢市(ぶかん。ウーハン)は湖北省の省都である。この武漢は、武昌(ぶしょう。長江右岸)・漢口(かんこう。長江の支流、漢水右岸)・漢陽(かんよう。漢水左岸)の3都市から成り立っており、武漢三鎮(さんちん)と呼ばれた。1927年にこの三鎮が合併し、武漢市となった。
実は四川暴動のあった頃には、湖北新軍の軍人の中で革命結社が組織されており、中国同盟会の主導によって、湖南や湖北を中心とする多くの革命結社の決起が叫ばれていた。蜂起のXデーを10月9日と決めていた。
1911年10月9日、当時ロシアの租界(そかい。開港場で外国の行政権が行使された地域)だった漢口の革命結社のアジトで、密造中の爆弾が暴発する事件が起こった。革命派の党員20名が逮捕され、翌10日には武昌でも70余名の革命派が逮捕された。また湖北新軍に籍を入れる3名が斬罪に処された。さらに党員名簿が官憲につかまれたという噂が流れ、名簿に登載されている新軍の革命派たちに異常なまでの動揺を走らせた。この動揺は、逮捕・重刑を待つよりは、長く計画し機会をうかがってきた決起を実行に移すにほかならないと、彼らの行動を大きく促した。
10日夜9時、ついに湖北の新軍が反旗をかかげた。軍は武昌の総督府を襲撃、総督は上海に逃亡して、武昌城は翌11日昼にあっさりと陥落した。その後新軍指揮官・黎元洪(れいげんこう。1864-1928)を都督(省の軍・民両政における長官)につかせた革命軍は、12日漢陽・漢口を占領し、革命軍は武漢三鎮を手中に収めた。これを武昌起義(武昌蜂起。武昌起事)という。辛亥革命(1911-12。しんがいかくめい。第一革命)の勃発の瞬間である。孫文は、武昌での蜂起を滞在先のアメリカで知った。
16日に都督府を組織(総司令は黎元洪)した革命派は、その後も政府軍を次々と撃退していった。満人王朝政府の打倒と漢人の中華民国政府による共和政国家の誕生を全省に呼びかけた。結果、11月末までに24省のうち14省が清朝政府からの独立を宣言した。そして12月、革命派および独立した各省代表は、南京に結集、1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする漢人国家建国の宣言を発し、臨時政府を発足させた。
こうしてアジアで最初の共和国、中華民国が誕生した。この1912年は"民国元年"となり、太陽暦が使用されることになった。また、武昌起義の10月10日は"双十節"とし、中華民国の建国記念日となったのである。
分割して紹介する大作シリーズはVol.86からの東方問題3部作以来です。これまで中国近代史は何度かご紹介して参りましたが、ようやくメインをご紹介することができました。1911年というと、日本では大逆事件で社会主義者幸徳秋水(こうとくしゅうすい。1871-1911)が処刑され、条約改正が達成された年であります。また平塚らいてう(雷鳥。1866-1971)らが女性解放を唱えて青鞜社(せいとうしゃ)が結社されたのもこの年ですね。ヨーロッパでは、アフリカ分割を狙うドイツ砲艦がモロッコのアガディール港に上陸してフランスと対立した事件(第2次モロッコ事件)がありますね。
孫文は日本と縁の深い人物です。中国や台湾には"中山"の名の付く施設があります。これは孫文が日本への亡命時代、自身を"孫中山(そんちゅうざん)"と名乗ったことが原因です。居住先の近所に中山(なかやま)という邸宅があって、この姓を気に入ったという経緯から来たとされています。また神戸の舞子公園には"移情閣"で知られる孫中山記念館(国の重要文化財指定)があり、孫文に関する著書や遺品など、貴重な資料が保存されています。
さて、今回の学習ポイントです。中国史は時代を問わずどこも細かいので注意が必要なのですが、まず革命勃発までの背景も把握しておかなければなりません。すなわち"光緒新政"がしかれた時代ですが、科挙廃止(1905)、新軍編制、憲法大綱(1908)と国会開設公約は大事なところです。同時に、民間の方で利権回収運動や民族資本家の台頭があり、革命結社が数多く組織されます。中でも興中会・華興会・光復会の3つは重要です。孫文の興中会は重要ですが、余裕があれば華興会・光復会も知っておくと便利です。
孫文の中国同盟会(中国革命同盟会)は四大綱領(「駆除韃虜」・「恢復中華」・「創立民国」・「平均地権」)と機関紙「民報」、さらに孫文の革命理念である三民主義(「民族独立」「民権伸張」「民生安定」)も登場しました。四大綱領の4つは言えなくとも、三民主義の3つは知っておきましょう。
鉄道国有化→四川暴動→武昌蜂起によって辛亥革命が勃発しますが、勃発年の1911年は必ず覚えてください。武昌は湖北省で、長江が流れている所です。余裕があれば武昌蜂起の月日(10月10日)も覚えましょう。
そして、中華民国誕生は翌1912年1月1日です。年月日は知っておきましょう。孫文の肩書き「臨時大総統」も覚えてください。ちなみに建国した場所が南京であることにも注意が必要です。
さて、このあと、さらに国が揺らぎます。かつての大物軍人も登場します。清朝宣統帝の運命がいかに?!次回後編にご期待下さい。