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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第89話


ヨーロッパの火薬庫~大戦前夜の騒擾~

 オスマン帝国(オスマン=トルコ。1299-1922)の主権下にあるブルガリアや、ベルリン条約1878)でオーストリアが行政管理権を執ることになったスラヴ系のボスニア・ヘルツェゴヴィナ両州は、ロシアの指導するパン=スラヴ主義を掲げて独立・解放を求めていた。
 すでにベルリン条約で、セルビアモンテネグロといった南スラヴ系国家が独立したが(同じく同条約で独立した国としてルーマニア王国がある)、独立を達成してもその版図は小さく、特にセルビアは近隣のスラヴ系が住む地域を併せて、大きなスラヴ国家を建設しようとする"大セルビア主義"を目標として掲げた。そのため、スラヴ系のボスニア・ヘルツェゴヴィナがゲルマン系のオーストリアに管理されているとはいえ、この両州をどうしても併合したい思惑があった。

 セルビアやブルガリアなど、トルコからの完全独立を願うバルカン半島の諸国は、スラヴ系のみならず、ゲルマン系、ハンガリー系、ギリシア系、ラテン系、ユダヤ系、アジア系といった民族がいた。彼らは領土の拡大をめざし、相互対立を深めたが、この対立はヨーロッパ列強の利害が大きく絡んだ。それがロシアを中心とするパン=スラヴ主義とドイツ・オーストリアを中心とするパン=ゲルマン主義の対立である。ロシアは不凍港を求めてバルカン半島へ進出するという、いわゆる南下政策を行ってきたが、幾度もヨーロッパ列強に阻まれてきた(Vol.86,87,88)。またドイツやオーストリアは、英仏と比べて植民地の数が少ないため、ドイツをもとに、国外すべてのドイツ系諸民族を結合して大規模な植民地帝国を打ち立てようとしていたのである。こうしたパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立は"死の十字(デス=クロス)"とよばれ、バルカン進出を目指した両者の熾烈な対立を生んだ。このため、バルカン半島はいつ火が上がってもおかしくない状態で、"ヨーロッパの火薬庫"と言われた。

 ヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟陣営と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商陣営に分かれていた。各同盟は、アジア・アフリカ諸国を中心として、彼らを支配下に入れたり、協調関係を結ぶなどし、全世界を真っ二つに割った国際関係を形成していた(当然アメリカやスイスなど、どちらの陣営にも属さない中立的な立場をとる国もあった)。

 こうした最中、1908年7月、オスマン帝国で青年トルコ革命がおこり、この混乱に乗じて、10月5日、スラヴ系のブルガリア(もとトルコ系ブルガール人)が独立宣言を発し、またその翌6日、パン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアが、スラヴ系住民の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したのである。
 ゲルマン系のオーストリアが、スラヴ系のボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したということは、彼らのかかげるパン=ゲルマン主義政策を押し進めた形となった。しかし、大セルビア主義を唱えるセルビアにとって、のどから手が出るほど収めたかったボスニア・ヘルツェゴヴィナをゲルマンにとられたのは、耐え難い打撃であり、また、セルビアを支持するパン=スラヴ主義の長であるロシアにとっても大変な痛手であった。こうして、オーストリアとセルビア、ロシア間に大きな緊張が走り、対立を深めていった。

 ドイツは、イギリスやフランスに立ち遅れたものの、1884年以降からアフリカ分割を開始した。1904年に英仏協商が結ばれたとき、イギリスは、モロッコにおいてフランスが優越権をとることを承認し、フランスは、エジプトにおいてイギリスが優越権をとることを承認することをそれぞれ約したが、これに対してドイツのヴィルヘルム2世(位1888-1918)は不快感を示した。それ以来モロッコにはフランスが積極的に進出を図ったが、翌1905年3月、ヴィルヘルム2世自らがモロッコのタンジール港に上陸して、モロッコの領土保全と門戸開放の声明をおこない、フランス進出反対とモロッコ問題における国際会議開催を表明した。これが第1次モロッコ事件タンジール事件)である。翌1906年1月、スペインのアルヘシラスで、国際会議が開かれたが(アルヘシラス会議)、結局ドイツのモロッコ進出は拒否され、フランス管理として意見はまとまった。
 1911年7月、モロッコで先住民の列強進出抵抗運動がおこり、フランス軍が出兵すると、好機と判断したドイツは軍艦をモロッコのアガディール港に派遣した。このため、ドイツとフランスがアガディールで衝突する危機に見舞われた(第二次モロッコ事件アガディール事件)。結局イギリスの仲介で、ドイツはフランス領コンゴの一部を得たことで譲歩し、モロッコ進出を断念した。翌1912年、フランスはモロッコ保護国化を達成した。

 英・仏・独といった列強がモロッコに関心を寄せている間、イタリアは東方問題(Vol.86,87,88)に介入した。オスマン帝国が支配する北アフリカ領であるリビア地方(西のトリポリ・東のキレナイカ)を領有する計画である。1911年9月、イタリアはオスマン帝国に宣戦布告、開戦となった(イタリア=トルコ戦争伊土戦争。リビア戦争。1911-12)。結果イタリアはトリポリ・キレナイカを占領、両地方を"リビア"と改めた。そして翌1912年の講和によってイタリアはリビア支配権を得た。またイタリアは、統一後も未回復のトリエステアドリア海北岸港市)や南チロルがオーストリア領として留まっており(未回収のイタリア)、国内ではイレデンティズモと呼ばれる回収運動や反墺運動がおこっていた。そのため、三国同盟の加盟国であるイタリアは、この時点では同盟離脱はせずとも徐々に中立化し、むしろフランス側に接近していくようになる。

 オスマン帝国のアフリカ領縮減で、バルカン半島も激しく揺れ動いた。1912年、まさにオスマン帝国はイタリア=トルコ戦争で戦闘中だったが、ロシアがオスマン帝国の現状から判断して、バルカン諸国に同盟の結成をすすめた。こうして3月、セルビア・モンテネグロ・ブルガリアら、パン=スラヴ主義を掲げるスラヴ国家が、ギリシアも加えて、オーストリアに対抗したバルカン同盟が誕生した。そして、10月、ついにバルカン同盟はトルコに宣戦した(第一次バルカン戦争。1912.10-1913.2)。70万に及ぶバルカン軍に対し、イタリア=トルコ戦争に苦しむオスマン帝国は、集めた兵力は32万ほどであった。翌1913年に敗色濃厚となったオスマン帝国は、列強の介入で、5月ロンドンにおいて講和(ロンドン条約)となり、イスタンブルを除くオスマン帝国のバルカン領及びクレタ島を割譲することとなった。なお、1912年11月、混沌とするバルカン情勢において、アルバニアが独立宣言を表明、翌13年5月、正式に承認されている。

 第一次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利したバルカン同盟は、同盟解消後、今度は割譲した領土をめぐって問題が発生した。講和の結果、ギリシアの北方のマケドニアを、ブルガリアが過剰に領有したが、これについて異議を唱えたセルビアやギリシアらバルカン諸国が、1913年、ブルガリアに対し宣戦を行ったのである(第二次バルカン戦争。1913.6-13.8)。セルビア・ギリシア側にはルーマニア・モンテネグロ、さらにはオスマン帝国も加わり、ブルガリアはゲルマン主義オーストリアの支援を受けるものの、バルカン内では単体で戦う羽目となった。ブルガリアは結局敗北し、同年8月、ブカレスト講和条約が開かれた。ブルガリアは南ドブルジャ(ブカレスト東部)をルーマニアに、マケドニアをギリシアとセルビアに割譲することとなり、領土がいっきに縮小した。オスマン帝国はセルビア側につくも、領土の回復は為らなかった。

 二次にわたるバルカン戦争の結果、背後にロシアがいる中で、バルカンのスラヴ国セルビアによるパン=スラヴ主義勢力の増大が示された。セルビアを優位に導いたのは、バルカン戦争における作戦立案者であり、セルビア軍人であるドラグーティン=ディミトリエビッチ大佐(1876-1917)であった。彼は1903年に、専政独裁をしくセルビア国王と王妃を暗殺した経歴を持つ民族主義者であったが、専政からの解放において、セルビア国民からは激励され、やがて軍を任されることになった人物である。
 スラヴ国ブルガリアは同じスラヴのセルビアと別れ、セルビアを怖れたオスマン帝国とともにドイツ・オーストリアらゲルマン国家に接近していくことになる。かくして、三国同盟側にはドイツ・オーストリア・イタリア・オスマン帝国・ブルガリア、三国協商側にはイギリス・フランス・ロシア・セルビア・ギリシア・モンテネグロ・ルーマニアという陣営が形成されていった。

 1908年にオーストリアによって併合されたボスニアでは、オーストリア王家のハプスブルク家に対する抵抗があり、またボスニアの近代化、パン=スラヴ主義によるスラヴ統一を求めて、青年による政治結社・青年ボスニア(1890年代中頃結成。イタリア統一運動の際、結成された"青年イタリア"に因む)は、これらの諸運動を活発化させていた。バルカン戦争でセルビアが勝利をもたらすと、青年ボスニアの運動は、オーストリアによる軍事占領からの解放を強く求めるようになっていった。
 この青年ボスニアには、セルビアも関心を寄せていた。セルビアには、反オーストリア主義と南スラヴ統一を掲げる、黒手組(ブラック・ハンド。正式名称:"統一か死か")と呼ばれる、アピスというセルビア人が中心となっているテロ組織的な秘密結社があり、青年ボスニアからも学生をはじめ多くがこれにパイプをつなげるようになっていった。やがて、黒手組は青年ボスニアに軍事的支援を約すこととなる。実は、このアピス大佐こそ、ドラグーティン=ディミトリエビッチであった。

 1914年6月28日、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世(位1848-1916)の有力帝位継承者であった、皇太子である甥のフランツ=フェルディナント(1863-1914)と妻ゾフィー(1868-1914)が、陸軍演習を督励するためボスニアの州都サライェヴォに訪れた。フランツ=フェルディナントは1900年にゾフィーと結婚したが、ゾフィーは皇族出身ではなかったため、ゾフィーは皇室からは冷遇、フェルディナントも皇帝と不和になり、子孫の帝位継承権は放棄したとされ、自身は陸軍総監となっていた(1913)。フェルディナントは、ボスニア訪問の際、ゾフィーを皇室生活から開放させる目的もあって同伴させたとされている。
 オーストリア皇太子夫妻がサライェヴォに向かうことを知った黒手組は、暗殺計画を企図し、青年ボスニアに所属する19歳のプリンチプ(1894-1918)ら7人にピストルや爆弾などを供与した(黒手組による事件へ関与は諸説ある)。皇太子夫妻を乗せたオープン・カーが群衆の前を通過していたその時、その群衆にまぎれて待ちかまえていた7人の暗殺グループが突如オープン・カーに駆け寄り、プリンチプはピストルを取り出し、夫妻めがけて狙撃した。凶弾に倒れ込んだ夫妻は、その後死亡が確認された(サライェヴォ事件)。暗殺団は現場で逮捕された。

 オーストリア(この時代はオーストリア=ハンガリー二重帝国。1867-1918)だけでなく、同盟・協商両陣営に衝撃が走った。7月23日、オーストリア政府はセルビア政府に対して非難し、暗殺組織を即座に解散させる、暗殺団の裁判にオーストリア判事を参加させる、セルビア国内の反墺(墺=オーストリア)運動を即座に全面禁止(反墺を煽るようなプロパガンダを全て没収)、そして公職者の即時解雇といった内容を含む、およそセルビアには返事に時間のかかりすぎるような10ヵ条要求の通告を、7月25日の現在の時刻、つまり48時間以内にすべて受け入れて回答せよという最後通牒(オーストリア最後通牒)をつきつけた。
 実は、こうした通告の中の幾つかの項目は、1ヶ月前から少しずつオーストリア政府からセルビア政府へ渡っていたものであったが、オーストリアはセルビア侵攻を端から考えていたため、宣戦の口実が欲しかった。事件の勃発は、言い換えればオーストリアのセルビア宣戦の好機会であり、正真正銘の最後通牒として、到底即座に受け入れられるはずもない要求を急遽求めたとされている。
 セルビアは全要求の受諾を進めていく方向であった。しかし唯一、サライェヴォ事件裁判における、法廷にオーストリア判事を参加させることは、セルビアでは違憲行為にあたり、主権の侵害ということで意見がまとまらず、結局セルビア政府は、この項目以外をすべて受け入れるとオーストリア政府に回答した。

 全条件を受け入れなかったことで、オーストリア政府は遂にセルビア侵攻を決断、1914年7月28日セルビアに宣戦を布告した

 サライェヴォ事件によって、暗殺団の1人は死刑が確定したが、プリンチプを含む他の6人は未成年であったがために懲役刑となり、直接手を下したプリンチプは懲役20年の実刑判決を下された。プリンチプは1918年、獄中で病没した。宣戦布告後、青年ボスニア並びに黒手組は解散・消滅、黒幕ディミトリエビッチも射殺された(1917)。

 オーストリアの背後にはドイツが、またセルビアの背後にはロシアが控え、それを取り巻くのは三国同盟と三国協商の多国籍陣営である。三国同盟加盟国は同盟国軍を、三国協商加盟国は連合国軍(連合軍)を、それぞれ結成する準備を整えた。ロシアは7月30日、セルビア支援における総動員令を発令した。8月になると、戦況はオーストリア・セルビア間だけには留まらなくなり、列強の宣戦が矢継ぎ早に布告された。

  1. ドイツ】8月1日ロシア、3日フランスに宣戦布告。
  2. イギリス】8月4日、ドイツが西隣の永世中立国ベルギーに侵入した(中立侵犯)ことで、国際法違反を口実として、ドイツに宣戦布告。イギリスの植民地であるインドも戦後独立の見返りに兵力を提供。
  3. 日本】8月24日、日英同盟を理由としてドイツに宣戦布告。中国分割によるドイツ租借地・膠州湾(こうしゅうわん)と青島(チンタオ)を攻撃。
  4. イタリア】英・仏・露の3協商国との秘密外交で、その3国から、オーストリア領である"未回収のイタリア"割譲の約束を受け(1915.4。ロンドン秘密条約)、1915年5月、三国同盟離脱、連合国側へ参戦、オーストリアに宣戦布告。
  5. アメリカ1917年、連合国軍側に参加して、4月6日ドイツに宣戦布告。

 こうして、オーストリアとセルビア間の戦争は、ヨーロッパを中心に、たちまち世界各国を巻き込む空前の世界戦争となっていった。底なしの兵力を必要とするため、軍隊に属さない国民たちも軍需に関わり、兵器製造の労働に携わるという、国民総動員態勢の総力戦状態となり、全体戦争の規模と化した。毒ガス戦車潜水艦飛行機飛行船といった近代兵器が登場し、1000万近い戦没者が生まれていく。結果、31ヵ国(うち連合国27ヵ国)に及ぶ諸国が参加した、歴史上初めての世界大戦、すなわち、第一次世界大戦1914-1918)の呼称がその後の歴史で使われていくのである。


 今回のお話は、Vol.86から三部作としてご紹介しました「東方問題」の、その後の情勢がメインです。三部作のエピローグ的内容をお送りする予定でしたが、世紀を震撼させるような事件ばかりのご紹介でしたね。でも、ギリシア独立戦争(Vol.26参照)から始まった東方問題が、末期的に第一次世界大戦を生みだしたといっても過言ではないような気がします。

 本編では第一次世界大戦の勃発後はあまり触れてはいませんが、あとでご紹介させていただくとして、今回の学習ポイントは、戦前のバルカン問題を中心にお話ししましょう。

 東方問題における5大戦争(ギリシア独立戦争第一次エジプト=トルコ戦争第二次エジプト=トルコ戦争クリミア戦争露土戦争)もそうですが、列国同士争う場合、出題のポイントは、どの国々とどの国々が戦うか?それぞれどういった国々が支援するか?どちらが勝つか?勃発の原因は何か?どんな講和になるか?といったところですかね。バルカン問題では、どの国々がパン=スラヴ主義がで、どの国々がパン=ゲルマン主義かは理解しておかなければなりません。また、三国同盟と三国協商には三国だけでなく他にどういった国々が味方かも知っておく必要があります。

 "パン=~主義"の"パン(=pan)"は、漢字に直すと汎(はん)となり、広く全体に行き渡るという接頭語です。つまりパン=スラヴ主義は全スラヴ民の統一を目指しています。ロシアとセルビアが代表で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナもスラヴ人住民が多い地方です。パン=ゲルマン主義はドイツと、ハプスブルク家のオーストリアが代表になります。パン=ゲルマン主義のオーストリアが、パン=スラヴ主義のセルビアが欲しかったパン=スラヴ主義のボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したために、その後サライェヴォ事件が引き起こされていくのです。

 バルカン戦争は、第一次と第二次の違いを明確にしておきましょう。イタリア=トルコ戦争でトルコが弱体化しているタイミングを利用して、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシア(当然ギリシアはスラヴ人ではなく、ギリシア人です)が、ロシアに支援されて、トルコを攻撃して勝利を収めます。これが第一次バルカン戦争です。しかし勝ってトルコ領を配分したところ、ブルガリアがたくさん領有したため、セルビア・モンテネグロ・ギリシア側にルーマニアとトルコが加わって、ブルガリアと戦います。これが第二次バルカン戦争です。ブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、セルビア側についたはずのトルコも、何の報酬もなかったためセルビア側から離れて、ドイツ・オーストリアに接近します。

 サライェヴォ事件関係については1914年6月28日を知っておきましょう。余裕があればフランツ=フェルディナント皇太子の名前も。黒手組と、その指導者ディミトリエビッチやプリンチプはかなりマイナーなので知らなくてもいいと思います。

 あと、モロッコ事件関係ですが、フランス管理下のモロッコにドイツが進出した事件です。第一次はタンジール、第二次はアガディールの都市名を知っておきましょう。また、アルヘシラス会議も大事です。1912年のフランスのモロッコ保護国化もよく出題されます。

 さて、第一次世界大戦の内容ですが、スペースの都合上、簡単に記させていただきます(太字は要チェック)。重要な項目も多いのでご注意を。

 同盟国軍はドイツオーストリア(オーストリア=ハンガリー二重帝国)・オスマン帝国(トルコ)・ブルガリアの4国です。これ以外は三国協商側、つまり、連合国軍と思ってもらってよろしいです。日本・インド・アメリカも連合国軍です。イタリアは三国同盟の一員でしたが、1915年に連合国側から誘いを受けて(秘密外交で"未回収のイタリア"を割譲するともちかけます。ロンドン密約)、同盟国軍を裏切って連合国軍に参加します。

西部戦線(ドイツVSフランス・イギリス):膠着状態。ドイツはベルギーへ中立侵犯(シュリーフェン作戦)→マルヌの戦い(ドイツ敗北)→ヴェルダンの戦い(ドイツはフランスのヴェルダン要塞攻略失敗)。→ソンムの戦い(決着つかず)
東部戦線(ドイツ・オーストリアVSロシア):膠着状態。タンネンベルクの戦い(ロシアの負け)

 その後、ドイツは無制限潜水艦作戦という無謀な策に出て(1917)、これを阻止するという名目でアメリカが参戦します(1917)。一方、連合国軍のロシアはロシア革命が勃発して(1917)、ドイツとブレスト=リトフスク条約(1918)でドイツと講和して連合国軍から離脱し、ブルガリア、トルコ、オーストリアが降伏します。ドイツも、キール軍港の水兵反乱(1918)を機に、ヴィルヘルム2世が亡命してドイツ共和国が成立します。このドイツ革命(1918-19)で、休戦条約が結ばれ、大戦は終了します。その後はパリ講和会議1919)が開催、ヴェルサイユ体制がしかれていきます。さて、次回はいよいよ第90作、Vol.100までカウント・ダウンに入りましたよ!