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辛亥革命・後編
辛亥革命・前編~10月10日、武昌~はこちら→●
1911年10月10日の武昌蜂起(武昌起義。ぶしょう)によって、辛亥革命は勃発した。革命の国内波及は、それほど時間を要さず、11月末には24省のうち14省が清朝(しん。1616-1912)からの独立を宣言した。1912年1月1日には、中国同盟会代表の孫文(そんぶん。1866-1925)が臨時大総統に就任、南京において、中華民国建国の宣言を行った。副総統には黎元洪(れいげんこう。1864-1928)が務め、黄興(こうこう。1874-1916)は陸軍総長、宋教仁(そうきょうじん。1882-1913)は法制院総裁、蔡元培(さいげんばい。1868-1940)は教育総長にそれぞれ就任した。蔡元培の下で、魯迅(ろじん。1881-1936)も勤務したことがある。一方、章炳麟(しょうへいりん。1869-1936)は1910年に同盟会から離れて、再び光復会(こうふくかい)を立ち上げた。
一方、清朝政府は武昌蜂起後、慶親王内閣(けいしんおう。1836-1916)が瓦解、2代目内閣総理大臣に抜擢されたのは、北洋軍閥(ほくようぐんばつ)を支配していた人物、袁世凱(えんせいがい。1859-1916)である。
北洋軍とは、直隷(ちょくれい)の総督を務めていた袁世凱が統轄していた新軍である。直隷総督は現在の河北省や、河南省・山東省一帯を管轄地域として統括する重要官職で、1870年には華北の貿易関係も担って、その官職である北洋大臣も兼ねるようになり、1888年には直隷総督の下に北洋艦隊が編制された。李鴻章(りこうしょう。1823-1901)に代わって1901年に直隷総督と北洋大臣に就任した袁世凱は、義和団事件(ぎわだん。北清事変。1900)後、実権を握って西洋式の新軍形成に取りかかり、軍備を増強していった。これが北洋軍と呼ばれる新軍で、北洋だけでなく中央をはじめ各地方の軍をも吸収していった。そして袁世凱は外国資本とも手を結び、銀行設立や運輸関係に着手して経済を潤わせ、次第に軍閥化していき、やがて北洋軍閥と呼ばれるようになった。光緒新政時代における新軍の編制は実際のところ、袁世凱の北洋軍を中心に各省で増設されていき、その結果北洋軍は清朝政府を支える軍隊の柱となると同時に、袁世凱の私兵集団ともなっていったのである。袁の腹心である馮国璋(ひょうこくしょう。ふうこくしょう。1857-1919)、段祺瑞(だんきずい。1735-1815)・王士珍(おうしちん。1861-1930)は「北洋の三傑」と呼ばれ、重要な役割を担った。
内閣総理大臣に任命された袁世凱は軍事権だけでなく行政権も掌握し、まさに朝廷より全権を委任された形となった。朝廷は革命の鎮圧と清朝存命を袁に託した。
ところが朝廷にとって、これが命取りとなった。袁は、自身の軍隊で理想的国家の支配を欲しており、もはや壊滅寸前の王朝を守ることなど端から考えてもいなかった。革命軍による各省の武装蜂起の鎮圧を段祺瑞や馮国璋に任せ、袁はその革命軍と連絡を取り合うという、かつての変法自強運動弾圧と同じ背信を起こしたのである。変法運動では革命派(変法派)を裏切ったが、今回の革命では、革命派を支持して王朝を裏切る行為に出たのであった。
かくして、北京を拠点に置く袁世凱内閣と、南京を拠点に置く中華民国臨時政府との間で南北和議がおこされた。北側は袁世凱、南側は宋教仁や黄興らがそれぞれ中心となって取引が行われた。結果、宣統帝(せんとうてい。位1908-1912。溥儀。ふぎ)を退位させて清朝の機能を停止させることを条件に、中華民国臨時政府における臨時約法の制定と、袁世凱の臨時大総統就任が決められた。これにより、宣統帝は退位し、中国大陸に共和政がおこされた。秦の始皇帝(しこうてい。位B.C.221-B.C.210)から始まった中国皇帝における王朝支配体制は1912年2月12日をもって、終焉となった(清朝滅亡)。武昌起義から清朝が滅ぶまでの一連の過程を第一革命と呼ぶ。
清朝滅亡の翌日、孫文は臨時大総統の辞任を申し出、15日には満場一致で袁世凱が臨時大総統に選出された。孫文は北京にいる袁世凱を南京に迎えるため、宋教仁、蔡元培らを北京へ遣わしたが、そこで彼らは異様な行動を目にしてしまう。
北京の軍隊が反乱を起こしているのである。これは袁世凱が軍隊と共謀して仕掛けた芝居であった。もともと孫文は袁世凱に対する不信感や、彼の陰険さに対する嫌悪感がないわけではなかった。南北和議の際、前述の和議内容以外に、必ず首都と政局は南京におく、臨時大総統は決められた臨時約法の遵守を約束するなどの取り決めも行われていたが、これに対する孫文、宋教仁、蔡元培、黄興らは、袁を中華民国の"顔"にするためには北洋軍閥から彼を引き離して南京に連れてくることが絶対だと考えていたのである。北京におけるこのなれあいの軍隊反乱によって、不安定になっている北京を鎮めるためと口実をつくった袁世凱は、結局南京に向かうことを拒否し、結局北京に滞在することとなってしまい、同1912年3月10日、遂に北京にて臨時大総統の就任宣言を行い、南京には向かわないことも発表するという、すでに和議の内容が守られない事態に陥ってしまった。
翌11日、孫文が主体となってつくりあげてきた臨時約法(中華民国臨時約法)が遂に公布された。憲法的な性質を持たせたこの約法は、三権分立の原則を中心に、中華民国における基本原理を形成するための基本法であったが、参議院の立法権を強め、臨時大総統は参議院により選挙されるなどの項目も強調され、結果的には袁世凱の権力を抑えるための規約になった。しかし約法発布後も袁世凱は北京に居座り、結果、中華民国臨時政府は政局を北京に移すことになり、約法を無視した行動が露骨に行われていった。また袁世凱は、孫文と対立して離れた章炳麟を呼び戻して自身の高等顧問に任じている。一方、章炳麟とともにかつての光復会の仲間であった蔡元培は、袁世凱の行動に不信を表して教育総長を辞職、海外へ離れた。
大総統を辞任した孫文をはじめ、黄興、宋教仁ら革命派は、専政を目論む袁世凱の権限を抑えることを熟考した。宋教仁は議院内閣制を取り入れて民主的に政治を行うことを考えており、大総統中心の強力な統治を目指そうとした孫文とは多少意見の食い違いはあったが、袁世凱の独裁反対に関しては、党員すべて意見が一致していた。議院内閣制になれば、袁世凱の独裁権が抑えられる。そのためには議会で多数派とならなければならない。宋教仁の"読み"を信じて、中国同盟会の公開政党化をめざし、1912年8月、遂に同盟会を改組した国民党(現在の中国国民党とは別)が結成された。北京での成立という不本意さもあったが、革命派の公開議会政党の誕生である。ここでの中心は宋教仁で、1912年12月から行われた選挙活動は積極的に行われ、結果、国民党は圧勝して第一党となった。
これにより、袁世凱は国民党党首である当時31歳の宋教仁を激しく警戒するようになる。この時の袁世凱は、南北和議や臨時約法で取り決めたことなど、みじんも心にとどめていなかったと思われる。当初は宋教仁に対して宥和をはかる言動をとっていた袁であったが上手くいかず、遂に事は起きた。
1913年3月20日、袁世凱が放った刺客によって、上海駅にいた宋教仁は狙撃され、2日後の22日、死亡が伝えられた(宋教仁暗殺)。直後、袁の下にいた章炳麟は今回の宋暗殺事件に対して袁世凱への不信がつのり、再び政府を離れ、南方で反袁活動に加わっていった。袁世凱は自己政党(進歩党)を黎元洪らと組織して、国民党に対抗した。また、5国の帝国主義列強(イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本)から多額の借款(2500万ポンド)を得、これをもとでとして軍力強化、西欧化・先進化・近代化政策を行うかたわら、南方にいる有力な軍人・李烈鈞(りれつきん。1882-1946)らをはじめとする国民党員の免職や左遷を行うなど、反動政治を意のままに操った。このため孫文や黄興、李烈鈞らは7月、反袁クーデタを計画して袁政府転覆を謀ったが、袁の圧倒的な軍事力に歯が立たず、国民党軍は敗北した。これを第二革命という。9月、孫文、黄興、李烈鈞らは日本へ亡命し、章炳麟は軟禁・失脚処分にされた。その後孫文は東京で新たに秘密結社「中華革命党」を結党し(1914)、民国再建を誓った。
第二革命後の10月、袁世凱は議会を強引に操って大総統選挙を行わせ、遂に"正式大総統"に就任した。国民党の反対にあっても、国民党の残党を次々と圧して解散へと追い込み(11月。国民党解散)、翌1914年には国会停止を宣言した。またこの時点で臨時約法の効力はすでになく、これに代わる民国の新しい基本法である「新約法」が同1914年5月に公布されたときには、もう中華民国は袁世凱の完全独裁体制であった。新約法でもって大総統権限を拡大させ、また軍事でも大元帥制度を発足して自ら大元帥を兼任、政治・軍事の最高指揮官として全てを手中に収めたのである。また第一次世界大戦(1914-18)が7月末に勃発すると、袁世凱は大戦に参加する列国の隙をついて中立を宣言した。しかし1915年1月、袁世凱は日本の(対華)二十一ヵ条の要求を突きつけられたことで、いっきに転落の一途をたどってしまうこととなる。
この日本が突きつけた二十一ヵ条の要求には、山東省におけるドイツ権益の獲得などをはじめとする諸権益の譲渡や租借期限の延長、中国の民間大製鉄会社である漢冶萍公司(かんやひょうコンス)の支配(文面は共同経営)、中国政府の介入などといった、中国の主権を無視する高圧的なメッセージを含んでいた。袁世凱大総統は、同年5月、強烈に迫る日本からの最後通牒に遂に屈服、大半を承諾した。これにより袁に対する国民の不信感がいっきに高まり、政情不安定となった。
袁世凱は事態収拾を口実に、かねてから野心のあった中国皇帝政治の復活を持ち上げ、請願運動を展開させる連合などを結成させて皇帝即位を後押しさせ、同1915年12月、遂に皇帝即位の宣言を行い、翌年より年号を洪憲(こうけん)と定める"中華帝国"の樹立を合わせて宣言した(袁世凱帝政)。
しかし結果は最悪であった。12月には雲南の護国軍が蜂起して反帝運動に拍車をかけ、革命軍が各地において反乱を起こした。北京では学生デモが起こり、地方軍閥政権がこれに乗って武装蜂起した。さらには袁の配下にあった北洋軍閥においても、袁を非難する将軍も現れた。このため、1916年3月、袁は帝政取消を宣言、80日余りで中国皇帝の座から引きずり降ろされた形となった。"中華帝国"の樹立も瓦解した。これが第三革命である(1915年12月12日~1916年3月22日)。そして、袁世凱は同年3月、失意の中で病没した(1916。袁世凱死去)。
袁没後も、黎元洪、馮国璋(直隷派)、段祺瑞(安徽派)ら北洋軍閥のメンバーらが民国政権(北京政府。北洋軍閥政府)を指揮していったが、中国全土を統一できる力はもっておらず、各地に軍人勢力が割拠する実に不安定な情勢となった(軍閥政権)。1920年には安徽派と直隷派による政権争奪がおこり(安直戦争。安徽派は日本、直隷派は英米の支援を受けた。1917年における段祺瑞の西原借款は有名)、1922年には張作霖(ちょうさくりん。1875-1928)率いる東北・満州の奉天派(ほうてん)が直隷派と戦った(奉直戦争。1922,24)。こうして各地の軍閥政権は、帝国主義列強の支援を受けながら、中華民国統一の気運をみせることなく、泥沼化していった。一方で革命軍も1917年9月、孫文を大元帥とし、広州において広東軍政府を樹立し、"孫文の広東政府"として北京政府と対抗した(護法運動)。しかし広東軍政府は不安定で断続的であったが、この我慢はやがて孫文の中国国民党結成、さらに1924年1月に達成される国共合作を経て、のちに誕生する広東国民政府(広州国民政府。1925.7)へと発展していったのである。
しかし、広東国民政府を見ないまま、孫文は、北京で客死した(孫文死去。1925.3.12。享年59歳)。"革命尚未成功(革命未だ成らず)"が彼の遺言であった。中国の革命的統一は、一進一退を繰り返し、なおも強い勢力を誇る軍閥政権が一掃されるには、1949年10月1日の中華人民共和国の誕生を待たなければならなかった。
中国の近代革命を2篇に渡ってご紹介して参りましたが、思った以上に複雑でしたね。後半は清朝滅亡から始まり、革命政府が慌ただしく動きます。
さっそく今回の学習ポイントから見ていきましょう。清朝滅亡は1912年2月です。ここまでの革命を第一革命と呼びます。そして臨時大総統が孫文から袁世凱にわたります。孫文は宋教仁をメインとした国民党を立ち上げて袁世凱と抵抗していきます。反袁運動を展開した国民党軍が袁世凱に負けたのが第二革命です。国民党解散後、孫文は中華革命党を結成します。袁世凱はさらに帝政への野望を抱いて帝政復活宣言を行ったことで、またもや反発を招き、ついに袁政権が倒れました。これが第三革命です。その後は軍閥政権が割拠する不安定な情勢となっていきます。一連の流れをザッと言うとこんな具合です。この後の流れは「Vol.13 国共合作・国共内戦」で確認してください。
さて、袁世凱ですが、中国史においてはかなり酷評されている人物です。とくに二十一ヵ条の要求を受け入れた人物として非難されてきました。とくに最後通牒の出された5月7日と要求を受け入れた9日は国恥記念日(こくち)と呼ばれるほどの有り様でした。いっぽう孫文は、国民党政府をおく台湾では「国父」の尊称で親しまれ、中国国民革命の先駆者として、袁世凱とは対照的に高い評価を受けております。
今年はこれまでです。次回は1月上旬に更新いたします。今年も「高校歴史のお勉強」にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。来年もたくさんの国と時間を渡り歩きたいと思います。またお付き合い下さいませ \(^^)\ では、よいお年を!!