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世界史の目

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第120話


煌々たる上帝
秦王朝の興亡・その2

仲父・呂不韋~秦王朝の興亡・その1はこちら→

 ついに(しん。?-B.C.206。首都咸陽)の国政大改革が始まった。始皇帝(位B.C.221-B.C.210)は、李斯(りし。?-B.C.208)を丞相(じょうしょう。行政の最高官職)に任命し、法家思想に基づいた中央集権化・皇帝権確立を行うべく、様々な施策を行った。

 まず中央官制においては、丞相(行政)・太尉(たいい。軍事)・御史大夫(ぎょしたいふ。監察)による三権分立体制をしいた。地方では、統一以前から行われていた郡県制をさらに展開、全国を36郡(のち48郡)に分け、その下に県を置いた。郡には守(しゅ。行政)・尉(い。軍事)・監(かん。監察)が、県には令(れい。行政))・尉(軍事)がそれぞれ置かれ統治された。これら官吏は、すべて中央から派遣された。
 また全国に亭(てい。交番のこと)が置かれて治安維持につとめ、反乱防止に伴い全国の主要都市の城壁を取り除き、民間から兵器を没収、また12万戸の富豪を咸陽に強制移住させた。これは、戦国の世が終わり、中国が統一されて一つになったことを証として示す施策であり、集められた兵器は溶かされて巨像製作に使われた。

 始皇帝の統一改革はさらに進んだ。戦国時代(B.C.403-B.C.221)から各国で統一されなかった長さ(度)・容積(量)・重さ(衡)の統一事業である。製造されたこれらの標準器が各地に分配され、瞬く間に統一された(度量衡統一)。また貨幣統一(半両銭)、車軸の長さ(車軌)や車幅の統一、漢字統一(小篆。しょうてん)といった統一事業も次々と行われた。

 李斯は、これらの統一政策を法家の視野から施した。そのため敵対関係にあった儒家は、昔の王朝(しゅう。B.C.11C-B.C.256)のような封建制国家の復活を目指そうとした。つまり"法"ではなく、王室が一族に領土を分け与えて世襲的に統治させ、宗教・道徳を元にした"礼"による体制を築こうとする、儒家思想に基づいた国家であり、秦の中央集権国家体制とは対照的な姿勢である。
 B.C.213年、李斯は思想統一を始皇帝に進言し、医療書や農業書といった実学書を除いた、儒家の書物を焼き払わせた(焚書。ふんしょ)。この頃すでに晩年期にさしかかった始皇帝は、帝国の不滅を願い、またそれは皇帝自身も意味するとして、とある魔術師(方士。ほうし)の言葉を信じ、海の仙人から不老不死の秘薬を求めて大船団を派遣したが、失敗に終わった。方士の一群に紛れていた儒者は、失敗したのは、法家的行政に徹した皇帝の専制主義に原因があると非難したことで始皇帝は激怒、翌B.C.212年、儒者460人を生き埋めにした(坑儒。こうじゅ)。思想統一策とも思想弾圧ともとれるこの焚書坑儒事件は、歴史上における重要な事件として現在でも取り上げられている。

 ところで、戦国時代より北方からたびたび侵入するようになった遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど。トルコ系?モンゴル系?)からの防衛策として、秦をはじめ、戦国七雄にあたる燕(えん。?-B.C.222)や趙(ちょう。B.C.403-B.C.222)は城壁を構築していた。秦の統一後、始皇帝は統一国家としての異民族討伐をはかり、将軍蒙恬(もうてん。?-B.C.210)を派遣、30万の兵を率いた蒙恬は北の国境にあたるオルドス地方(黄河湾曲部内側の地域。黄土高原北部)において匈奴をゴビ砂漠北部に敗退させた(これにより蒙恬の国民による人気が高まった)。匈奴の報復に備えた始皇帝は、B.C.214年、蒙恬に命じ、かつて燕・趙らが部分的に構築した城壁を連結させ、万里の長城として修築した(現在に残る長城は明代の時に完成された)。また南方にも遠征、南海郡が置かれた(B.C.214)。

 匈奴征伐や長城修築でみられるように、始皇帝は膨大な数の人民を強制的に徴用した。また国内における大土木事業も積極的であり、巡遊用の広い道路を建設するときも多くの人材を用いた。他国にはない、充実に整備された統一国家となりうるためには、国民を圧迫せしめても貫き通す考えであった。

 しかし始皇帝の大土木事業は、度を超えてしまった。首都咸陽の大拡張工事と称してできあがったのは、阿房宮(あぼうきゅう)という人民の無償労働によって築かれた収容人数1万人余の大宮殿であった(阿房宮は、一説では"阿呆"の語源とも言われている)。また大地下宮殿を含む始皇帝陵(驪山陵。りざんりょう)は中国最大の皇帝陵であり、40年近い歳月と農民や囚人など、数十万人の動員で築き上げたものである。また1974年に発掘された兵馬俑坑(へいばようこう)では、8000に及ぶ兵馬俑(兵士と馬をかたどった人形)がいまだ埋まっているとされている。これにより秦帝国は財政的に苦しくなったが、その補填はすべて人民への負担へと向けられた。

 始皇帝は自身の身体の衰退を感じ、有能聡明な長子の扶蘇(ふそ。?-B.C.210)に将来を託すつもりでいた。扶蘇は当時蒙恬の下で北方駐屯地にいて、匈奴を警戒していた。当然のことながら、帝位継承者には扶蘇が第一候補とされており、これを始皇帝の遺書にも記された。しかし、丞相李斯をはじめとして、末弟の胡亥(こがい。B.C.229?-B.C.207)、もと趙の王族出身で、宦官(かんがん)となり始皇帝に仕えた寵臣趙高(ちょうこう。?-B.C.207)らは、これを快く思わなかった。李斯にしてみれば、反法家主義で国民にも人気のある扶蘇が皇帝になるということは、李斯がこれまで行ってきた厳しい諸政策に対する反発が予想されるであろう。また宦官・趙高も始皇帝の右腕として奢侈に耽った宮中での生活や地位も危うくなる。趙高によって御守された胡亥にいたっては、扶蘇に対する嫉妬の念もあったと思われる(真相は不明。御守役の趙高に担がれたとの説もあり)。

 こうした中でB.C.210年、始皇帝は5度目の巡遊の途上で病没した(始皇帝崩御)。そして丞相の李斯、宦官の趙高の謀略が始まった。彼らは、始皇帝の遺書を廃棄し、偽の遺詔を取り出した。その内容とは、扶蘇の死罪と、胡亥の帝位継承であった。

 扶蘇を始皇帝の命で預けられた蒙恬は、帝の遺詔を疑ったされる。扶蘇は父帝の焚書坑儒に反対して父の怒りを買い(この経緯から李斯や趙高に嫌われていたのが理解できる)、軍事教育によって鍛え直すよう命じられて、蒙恬の下に就いたのである。しかしこの遺詔には、蒙恬の死罪も含まれていた。扶蘇は遺詔に従い自決、蒙恬も毒を仰いだ。

 これにより、末子の胡亥は二世皇帝として即位した(位B.C.210-B.C.207)。しかし、その後の秦王朝は、必ずしも安泰とはいえなかった。


 「秦王朝の興亡」シリーズ第二編は、受験世界史の中でも重要な場面がいくつも登場します。秦王政が始皇帝となってから生涯を終えるまでの11年間をご紹介しましたが、時代的に言えば秦の統一寿命はたった11年でありながらも、これを礎にして皇帝による君主政が清朝が滅ぶ1912年まで続いたことを考えると、秦帝国の存在は大きかったと言えます。

 秦という威名はその当時は国外にも広まって、瞬く間に西方にも伝わりました。いわゆる"シナ"という言葉や、英語の"China"は、秦の発音がなまったものとも言われています。それだけに"秦"の中国統一は、当時としては世界のビッグニュースだったのでしょう。

 さて、今回の学習ポイントです。統一年のB.C.221年の年号はもちろん覚えてほしいのですが、それに並んで大事なのは、始皇帝の改革内容を覚えることです。といっても、行政者は丞相であり法家の李斯や、宦官の趙高らによるものですが、受験では李斯は大事ですが、趙高はまず登場しませんので、覚えなくても大丈夫です。
 改革内容は、まず内政では、職制です。中央では行政担当を丞相、軍事を太尉、監察を御史大夫が担当、地方は郡県制を適用しています。統一事業として、文字統一は小篆、貨幣統一は半両銭です。また、度量衡の統一(現在でも"秦量"といわれる"ます"が残っています)や、焚書坑儒と言われる思想統一があります。
 外政では、蒙恬の匈奴討伐がありますが、匈奴を追っ払い長城を修築した蒙恬はヒーロー的活躍なのですが、受験用語には登場しませんので、匈奴の侵入防止のために長城を修築したとだけ覚えましょう。現在の万里の長城は、明代に修築されたもので、秦代のそれよりもかなり南にあります。またベトナム地方にも遠征に行っており、南海郡など3郡を建設してますが、南海郡はのちの前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。B.C.159-B.C.87)が、B.C.111年に再設置しています。

 さて、次回も秦王朝のご紹介です。始皇帝亡き後、帝国はどういう末路をたどっていくのでしょうか?お楽しみに!