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ワシントン体制と日本
~ヴェルサイユとワシントン・その3~
日清戦争(1894)、日露戦争(1904)の戦勝で、ロシア・中国以上に極東の大国として欧米列強に認識されることになった日本。日露戦争後の講和であるポーツマス条約(1905)では賠償金を得られなかったものの、朝鮮における日本の優越権が承認され(1910年に韓国併合が完成)、南樺太領有、旅順と大連の租借権、ロシア東清鉄道の長春以南(ちょうしゅん。現吉林省)における南満州支線(のちの満鉄。南満州鉄道)の権益譲渡(翌1906年、南満州鉄道株式会社を設立)が決まった。これがいわゆる日本のアジアにおける特殊権益である(この特殊権益はポーツマス条約において正当に認められ、得られた利権の意味を持つ)。
さらに日本には1902年にイギリスと結んだ日英同盟があった(1902.1.30締結)。日英同盟はイギリスがこれまで固持していた"光栄ある孤立(Splendid Isolation)"を捨ててまでも、アジア権益を脅かすロシアを牽制するために、同じく満州・朝鮮をめぐってロシアと対立する日本と対露路線で協調した同盟である。結成当初は締結国が対戦国と戦争する場合、交戦相手国が一国の場合、同盟国は中立を守り、二国以上の場合は参戦して締結国を助けるという軍事的防衛同盟の性格があった(その結果が日露戦争である)。1905年8月12日にこの同盟は更新されたが、イギリスにおけるインド権益、日本における朝鮮権益を相互承認し、そして戦う相手国が一国の場合でも、同盟国は参戦して締結国を助ける攻守同盟になった。ところが、1911年7月における3回目の更新ではアメリカの介入があり、交戦相手国からアメリカが対象外とされ、日英間の同盟の意味合いが薄れてしまう。
第3次日英同盟に基づき、日本は連合国側として第一次世界大戦に参戦(1914.7.13。ドイツに宣戦)、ドイツの極東における根拠地(膠州湾を含む山東半島。青島(チンタオ)市がある)を攻略・占領した。その後、中国に対して対華21ヶ条要求を突きつけ(1915)、山東半島の諸利権をはじめ、南満州・東蒙古における特殊権益を求めるなど、帝国主義の性格を徐々に見せ始めていった。
アメリカはかつての国務長官ジョン=ヘイ(1838-1905。任1898-1905)が宣言した中国の"門戸開放"・"機会均等"・"領土保全"の三原則(1889,90。ヘイの門戸開放宣言)でヨーロッパ列強の中国分割に介入し、乗り遅れた中国進出を果たしていた。日本は中国における特殊権益を保持しようとしたとき、最も大きな障害となる国はアメリカであったが、案の定そのアメリカは、日本の対華二十一か条要求には承認しなかった。ポーツマス条約のあと、アメリカは南満州鉄道を日本と共同経営をもちかけ、門戸開放を維持しようとしたが、まもなく破綻(桂・ハリマン協定の破棄。日本側が破棄。1905)、これによって日米間はいっきに冷え切った。
しかも、その頃日本が前述の日英同盟やポーツマス条約以外にも、日仏協約(1907)や日露協約(1907)などを通じて欧州列強を相手に次々と手を結んだことに対して、逆にアメリカは国際的に孤立するようになり、帝国主義への道を着実に歩む日本との関係悪化は避けられないものとなっていた。1906年にカリフォルニア州で起こった日本人学童の通学拒否事件に始まる日本人移民排斥はこういった状況によるものである。日本人移民排斥の結末は1924年、排日移民法(1924年移民法)という、日本人の移民は完全に停止を余儀なくされていくのであった。
アメリカの門戸開放政策と日本の特殊権益擁護は折り合いの付かず、その後も両国の関係は冷え切った状態が続いたが、1917年に大きな転機が起こった。当時アメリカのウッドロー=ウィルソン大統領(1856-1924。任1913.3.4-21.3.4。民主党)の国務長官を務めたウィリアム=ジェニングス=ブライアン(任1913-15)は、第一次世界大戦中の混乱に乗じて中国大陸進出と権益の獲得と維持をはかる日本に対して牽制し、「ブライアン・ノート」を駐米大使に手渡したが、その内容というのは、日本の対華21ヶ条要求には賛同しないが、中国における門戸開放および機会均等、そして中国領土の保全というアメリカの主張に同意するのなら、原則として日本の中国における特殊権益を承認するという妥協手段に満ちたものだった。
こうした妥協を決定するため、1917年、対米特派大使を務めた石井菊次郎(いしい きくじろう。1866-1945。元外務大臣。任1915-16)と、ブライアン辞職後に就任したロバート=ランシング国務長官(1864-1928。任1915-20)がワシントンで会談を行い、合意が成立した。これが、石井・ランシング協定である。この協定により、日米間で中国における門戸開放・機会均等・領土保全が約束され、アメリカは日本の中国特殊権益を承認した。しかしこの承認は門戸開放を主張するアメリカにとって満足するわけがなく、また満州の特殊権益についてアメリカの解釈は経済的な権益として見ていただけに過ぎないのに対し、日本の解釈は経済的権益だけでなく政治的権益も含めていたため、この協定の是非が問われた。
アメリカは日本に対して、中国問題だけを取り上げているわけではなかった。まず島国である日本は海軍力が豊富であり(大日本帝国海軍)、イギリス、アメリカと肩を並べられるほどであった。1920年に八・八艦隊案(帝国国防方針で発表された大艦隊軍備計画。戦艦8隻と巡洋艦8隻の建造を目標に1927年までに建造・完成させる案)を成立させて以降、日本は海軍増強にますます力を注いでいき、太平洋海域を日本海軍で呑み込むほどであった。さらにアメリカが懸念していることが、日本には同じ島国であるイギリスとの同盟(日英同盟)があることである。イギリスはフランスと共に国際連盟及び欧州におけるヴェルサイユ体制を主導する立場にあるため、イギリスには波風を立てず、かつ日本には軍拡を阻止する必要があった。アメリカの中国における真の門戸開放政策は、まずこれらを解決させてはじめて達成されると考えたのである。
この結果、太平洋地域と極東地域における各国の権益を確認し、軍事関係の見直しをはかって、新しい国際軍事体制を敷くための国際会議が必要となり、1921年11月12日、ウォーレン=ガマリエル=ハーディング大統領(共和党。大統領任1921-23)の提唱で、首都ワシントンでアメリカ主導における初の国際会議が開かれ(ワシントン会議。1921.11.12-1922.2.6)、歴史上初の軍縮会議となった。
この会議で7つの条約と2つの協定(約定)が締結されたが、代表されるのが、四ヵ国条約(1921。アメリカ・イギリス・日本・フランス)・ワシントン海軍軍縮条約(1922。五ヵ国条約。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア)・九ヵ国条約(1922。アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリア・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中華民国)の三大条約である。なおこの国際会議に参加する日本からは、海軍大臣加藤友三郎(かとうともさぶろう。1861-1923。のち首相任1922-23)、駐米大使幣原喜重郎(しではらきじゅうろう。外相任1924-27,29-31。のち首相任1945-46)、そして貴族院議長徳川家達(とくがわいえさと。1863-1940。議長任1903-33)らが全権をつとめた。
まず四ヵ国条約では、太平洋地域における属地・領地に関する権益の相互尊重、外交問題から発生する紛争を避けるため共同会議を開くことなどを四ヵ国内で約束し、平和的解決を目指した(1921.12調印)。アメリカはとりわけイギリスに条約締結を提唱、イギリスは"日英間"ではなく"四ヵ国間"で取り決めを行うことに同意し、アメリカ主導で条約は締結されることになった。これにより日英同盟は解消された(1922。日英同盟廃棄)。この条約締結で、特殊権益の承認相手であるイギリスが日本から離れ、太平洋問題は四ヵ国間(特に日米間)での取り決めで行わなければならなくなった。結果、日本はアメリカだけでなく、イギリスとも関係が冷却化していった。アメリカの諸対策に対する目標は、まず第一段階を突破したことになる。
続くワシントン海軍軍縮条約では、建艦競争に燃えていた日本に対し、日英同盟解消で孤立したうえでのさらなる痛い追い打ちとなった。1922年に調印されたこの五ヵ国間の条約は、戦艦や航空母艦といった主力艦の各国の保有率を、イギリスとアメリカがそれぞれ5の割合に対し、日本は3、フランスとイタリアが1.67と定めた(当初の保有比率は5:5:3:1.75:1.75であったが、米英日の保有量の若干増の決定にともない、5:5:3:1.67:1.67となる)。条約調印により五ヵ国間の建造中戦艦は中止され、10年間建造ができなくなった。この段階で戦艦は世界7隻のみとどまり(日本の"長門"・"陸奥"、アメリカの"コロラド"、イギリスの"ネルソン"など)、「ビッグセブン」と呼ばれた。保有制限が為されたこの軍縮条約で日本は八・八艦隊計画を挫折せざるを得なくなり、計画は中止となった。
建艦競争に歯止めをかけられた日本は、外交的にも軍事的にも英米に劣勢を強いられた。ただ一つの拠り所は、日本の中国における特殊権益保持の主張である。第一次世界大戦中に山東半島を二十一ヶ条要求で中国に承認させた日本は、中国政策が唯一の強みであった。アメリカとも石井・ランシング協定を結んでいる以上、アメリカは門戸開放・機会均等・領土保全が守られ、対する日本も中国における特殊権益が守られるはずであった。
そして、アメリカ諸政策の最終局面として、九ヵ国条約が調印される(1922.2.6)。ワシントン会議も大詰めに迎え、アメリカは国際主導的権威を大きく見せたのである。アメリカ本来の主張する門戸開放・機会均等・領土保全の原則を参加国に呼びかけ、中国は主権を持った独立国家であり、中国における全ての権益不可侵を主張したのである。これにより、日米間で結んでいた石井・ランシング協定は失効となり(石井・ランシング協定廃棄)、日本は、第一次世界大戦でドイツから奪った山東省の権益を返還する羽目となった(山東懸案解決条約。山東還付条約。1922.2.4)。日本だけでなく、イギリスも中国分割期に租借した東洋艦隊の基地として威海衛(いかいえい。山東半島北東岸の海港)を中国に返還した。
四ヵ国条約による日英同盟破棄、ワシントン海軍軍縮条約による海軍軍縮、九ヵ国条約で真の門戸開放が達成され、アメリカ主導による極東・太平洋地域の国際協調政策は果たされたことで、ワシントン会議は大成功を収めた。英仏によるヴェルサイユ体制と、アメリカによるこのワシントン体制の両体制によって、新たな国際社会体制が完成したのである(ヴェルサイユ=ワシントン体制)。
新たな国際体制が整って以後、列強は中国権益の保全にまわることになるが、一方で中国特殊権益が認められずに終わった日本との対立は深まっていくばかりであった。幣原喜重郎外相が"協調外交(幣原外交)"として推進した外交政策は、アメリカとの関係修復、中国不干渉、そして軍縮問題の解決が主な趣旨であったが、国際的な視点からすれば日本孤立化を狙ったアメリカの術中に陥る結末となり、日本の軍部や右翼が幣原外交およびこれを推進した日本政府を批判するようになった。
実は当時の日本では、海軍だけでなく、陸軍の軍縮も国内で盛んに叫ばれ、1922年に陸相山梨半造(やまなし はんぞう。任1921-23)による約6万人の削減(山梨軍縮)、1925年には陸相宇垣一成(うがき かずしげ。任1923-27,29-31)による4個師団削減(宇垣軍縮)が決まった(この際、師団削減の引換に軍用機や戦車などの兵器近代化計画が図られた。また戦力低下阻止に向けて中学校以上の課程に軍事教練が盛り込まれ、学校に配属将校が置かれることになる)。こうした国内の軍縮が進む中で、軍人の社会的地位低下は避けられぬものとなり、日本政府の軍縮・協調外交に反対する急進的軍人を生み出す結果となり、たとえば幣原外交を"弱腰外交"・"軟弱外交"と批判するなど、国内においても政府と軍部における対立も顕在化した。
しかしワシントン体制下ではその後も軍縮を推し進められ、日本は協調外交を続けなければならなかった。1927年7月、アメリカの提唱で巡洋艦や潜水艦といった補助艦の制限について、ジュネーヴ海軍軍縮会議が開催された。当初はアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ヵ国で開かれる予定だったが、フランスとイタリアは参加を見送り、米英日3ヵ国で協議された。日本からは石井菊次郎と斎藤実元海相(さいとう まこと。海相任1906-14。のち文相・外相・首相・朝鮮総督を歴任。首相任1932-34)が全権として出席したが、各国の強い主張のぶつかり合いによって統一がなく、物別れに終わった。ヨーロッパではヴェルサイユ体制の締めくくりとして1925年にロカルノ条約、1928年に不戦条約が締結され、国際協調を合言葉に、国際平和秩序の安定化がより一層すすめられた。
そして1930年、ジュネーヴ海軍軍縮会議のやり直しとして、イギリス首相ラムゼイ=マクドナルド(1866-1937。任1924,29-31,31-35)の提唱により、補助艦制限を決める海軍軍縮会議がロンドンで行われることになった(第一次ロンドン海軍軍縮会議。1930.1.21-4.22)。開催当初の参加国はアメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ヵ国で、ジュネーヴでの失敗は繰り返さない志でスタートしたものの、またしてもフランスとイタリアが途中離脱となり、前回同様3ヵ国間で決められた。日本の首席全権は若槻礼次郎(わかつき れいじろう。1866-1949。首相任1926-27,31。かつて内相・蔵相などを歴任)が任され、海相財部彪(たからべ たけし。任1923-24,24-27,29-30)らも参加した。結果、補助艦保有比率をイギリスとアメリカがそれぞれ10の割合に対し、日本は7弱となった(ロンドン海軍軍縮条約。10:10:7)。日本政府はこの会議は成功と判断し条約を批准(帝国憲法により、条約批准権は天皇にある)したが、軍部・右翼の反発が強く、特に海軍では条約賛成派(条約派)と条約反対派(艦隊派)にわかれて対立した。艦隊派の中心であった加藤寛治(かとう ひろはる。1870-1939)は財部海相や首相浜口雄幸(はまぐち おさち。1870-1931。首相任1929.7.2-31.4.14。立憲民政党中心)に対し、元来天皇大権の一つである統帥権を度外視して軍縮を決定したとして批判し、右翼や野党、枢密院もこれに賛同した(統帥権干犯問題)。加藤は条約批准権のもつ昭和天皇(しょうわてんのう。位1926.2.5-1989.1.7)に帷幄上奏権(いあくじょうそう。軍部が天皇に上奏する権限。軍部が行政介入できる手段の一つ)でもってうったえたが、結果的には条約が認められた。浜口首相は同1930年に右翼青年に東京駅で襲撃され、その後は幣原喜重郎が臨時代理を務めるも翌31年4月に総辞職、首相も8月末に死亡した。
その後の日本は軍国主義へ向けて軍部や右翼の勢力が増大化し、すでにワシントン体制によって確立していた中国の門戸開放・機会均等・領土保全を軽視して満蒙政策を着々と推進、欧米列強を敵に回しながら、1931年の満州事変、1932年の五・一五事件(海軍中心による政府転覆クーデタ)という、もはや国際体制の方向を見失った行動が次々と起こされ、1933年、遂に国際連盟を脱退する結果となった(1933.2。日本の国際連盟脱退)。また欧州においてもドイツ・イタリアがヴェルサイユ体制から離脱して、逆に同体制の破壊に努めて軍備拡張に転じ、国際協調の時代は終焉を迎えた。そしてヴェルサイユ=ワシントン体制下に協調をすすめる米英中心の連合国側陣営と、全体主義・軍国主義を推し進めた日独伊3国中心の枢軸国側陣営に真っ二つに分かれる新たな国際関係が築かれ、後に来る史上最大の世界大戦(第二次世界大戦。1939.9.1-45.8.15)という、惨劇の時代が訪れ、ヴェルサイユ=ワシントン体制は完全に崩壊した。新たな国際平和秩序の確立は、1945年にあらたな平和機構・国際連合が誕生するまで待たねばならなかった。
さて、休校期間に突入する前の「世界史の目」の更新でございます。非常に内容の濃い3部作でしたが、日本史においても世界史においても避けられない単元で、毎年必ず何らかの形で大学入試で出題されます。今回は前半はワシントン体制が形成されるまでの経緯を、後半は当時"大日本帝国"と呼ばれた日本国がアメリカ・イギリスに冷遇され、内憂外患状態に陥り国際的に孤立する経緯を中心にご紹介いたしました。
軍事的均衡をはかるというのは国際協調において重要なのですが、アメリカは日本の進出を阻止することが一番大事だと考えていました。アメリカにしてみれば、満州やモンゴルなど、日本がノドから手が出るほど欲しがっていた中国権益がやすやすと日本に手渡ってしまうことは断じて許されないことです。そこでアメリカは全世界に中国の門戸開放・機会均等・領土保全をうったえて、全世界の軍備を均等にして国際秩序安定を目指すことを口実に、ワシントン体制を敷いて日本を封じ込めようとしたのです。日本はその時イギリスと日英同盟を、アメリカとも石井=ランシング協定をそれぞれ結んでいましたが、これらを無効にして日本の軍備を縮減させるため、アメリカはさまざまな条約を打ち出すことにしたのです。しかし日本もだまってはおりません。そう、「中国特殊権益」を大きな武器として中国政策をすすめる方向でした。本編ではよく"特殊権益"という言葉を使用しましたが、日本が"特殊"という言葉で強調したことから、どうしても中国の権益は列強から守らねばという強い精神があったのでしょう。
また、国際協調時代の崩壊の一原因として、本編に上げられなかったものに、世界恐慌(1929)があります。恐慌による社会不安を処理できなかった政府に対し、軍部が台頭するというのは歴史的に見て一種のパターンです。
結局、アメリカのワシントン体制は中国擁護につとめて日本を封じ込めようとしたことにより、日本国内に軍部台頭の変革を呼び、結果としてその変貌した日本の強攻的報復によってかえって状況を悪化させてしまい(満州事変、国際連盟脱退)、ワシントン体制は崩壊を余儀なくされるのでした。
さて、今回の学習ポイントです。今回は日本史関連用語も多く登場しておりますので、重要用語の目白押しです。ではまずワシントン会議関連から。ワシントン会議はアメリカのハーディング大統領が提唱した国際会議です。軍縮問題とアジア・太平洋問題が討議されます。
同会議で締結された条約で必ず覚えなければならないのは四ヵ国条約・ワシントン海軍軍縮条約・九ヵ国条約の計3つです。日本史では山東懸案解決条約も用語集に載っていますので、余裕があれば知っておくのも良いでしょう。さてその3条約ですが、四ヵ国条約では日英同盟の破棄、ワシントン海軍軍縮条約では米英日仏伊の"主力艦"の保有比率を決定(5:5:3:1.67:1.67の比率もチェック。日本史ではこの条約で八・八艦隊計画が挫折することも知っておくと無難)、そしてワシントン体制を確立させた九ヵ国条約では、アメリカの悲願だった中国の門戸開放・機会均等・領土保全を決めます(日本史ではこの条約で石井=ランシング協定を破棄したこともチェック)。
つづいて、日本関連ですが、ここでは幣原喜重郎の活躍が目を引きます。幣原外交は国際的に見れば"協調外交"、日本の軍部・右翼から見れば"軟弱外交"と呼ばれました。また日本政府とは互いに相容れなかった軍部関連では、日本史では重要ポイントでしょう。軍縮問題では山梨軍縮・宇垣軍縮といった陸軍軍縮問題も本編に登場しましたが、用語集では頻度数が少ないながらも内容分厚く紹介しておりますので、また調べてみて下さい。
最後にその後の軍縮ですが、ワシントン海軍軍縮条約では主力艦の保有比率の決定でしたが、1927年に行われたジュネーヴ海軍軍縮会議、1930年に行われたロンドン海軍軍縮会議はいずれも補助艦の保有比率の決定です。それぞれ何の保有比率かを整理しておきましょう。補助艦保有比率はジュネーヴでは失敗し、仕切り直したロンドンで決まりました。日本史ではこのロンドン海軍軍縮条約をめぐり、統帥権干犯問題にまで発展し、浜口首相も狙撃され翌年亡くなり、その後の軍部台頭で、軍国主義への大きなターニング・ポイントとなっていく重要な項目です。ちなみに本編で登場した五・一五事件で海軍青年将校に暗殺された総理大臣は犬養毅(いぬかい つよし。首相任1931.12-32.5)です。犬養暗殺で倒閣となり、日本の政党政治はいったん幕を下ろすことになります。撃たれる直前に"話せばわかる"と首相が叫んだことでも有名です。この五・一五事件は、日本史分野のみならず大変有名な事件ですので、言うまでもなく知っておきましょうね。
次回は6月に更新の予定です。