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世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

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ギャラリー

第245話


天才は、努力の凡才

 5歳のある男児が、父親から与えられた方位磁石に感動した。どう動かしても磁針は北を向く。目には見えない、何かしらの力が働くと信じたその男児は、この方位磁石から自然科学に夢中になり、目に見えない未知なるなにかを徹底的に調査研究することを惜しまなかった。そして自然科学界を大きく揺るがす展開が、物理学から生まれていったのであった。その男児とは、"天才とは努力する凡才だ"の言葉を残したアルバート=アインシュタイン(1879-1955。アルベルト=アインシュタイン)であった。

 1879年のドイツ南部のウルム市(現バーデンヴュルテンベルク州)において、アルバート=アインシュタインは電気関係の事業を営むユダヤ系の家に長男として誕生した。翌年ミュンヘンバイエルン州都)に家族とともに移住したアルバート=アインシュタインは、入学したミュンヘンの小学校やギムナジウム(日本の中高一貫校に相当)の厳格な体制や空気に慣れなかった。父の事業が失敗し、家族は学校の修得が必要なアルベルトだけを残してイタリアのミラノに移住したが、学校に馴染めないアルベルトは自身もその後ミラノに移った。少年時代のアルベルトは物理と数学だけは自ら進んで予習し、難しい数式の定理を自力で証明するなど没頭したが、それ以外の科目は自主的に手をつけることがあまりなく、数学・物理以外の成績は最悪であったといわれる。また読字障害や、5歳まで会話に不安を抱えるという苦しみがあったともされている。

 1895年、スイスのチューリッヒ工科大学(スイス連邦工科大学チューリッヒ校)の受験に挑んだアルバート=アインシュタインはスイスのアーラウ(現アールガウ州都)にあるギムナジウムに1年通ったことで同大学の入学を許可された(1896)。アルベルトは、同年秋に転校してきたセルビアのティテル出身のミレヴァ=マリッチ(1875-1948)なる女子学生と出会い、学友となった。大学の講義に対する参加意欲はあまりなかったが、電気部門での成績は優秀であった。1900年に同大学を卒業し、臨時教員や家庭教師で生計を立てながら翌年スイス国籍を獲得し、1902年には学友だったブダペスト出身のマルセル=グロスマン(1878-1936)の家族の紹介もあってベルンにあるスイス特許庁の3級技師として採用され、仕事の余暇を使って物理研究に没頭した。1903年、アインシュタインはミレヴァとベルンで結婚、翌1904年に長男ハンス=アルバート=アインシュタイン(1904-73)が、1910年には次男エドゥアルト=アインシュタイン(1910-65)が誕生した。結婚前の1902年には長女リーゼル=アインシュタイン(1902-?)が誕生したが、次年に早世したか、他家の養子になったかで、誕生後の生涯は明らかになっていない。

 ベルンでの生活で、アインシュタインはある不思議な点に気がついた。これまでも何度とバスに乗車中に見た光景だったが、乗車中に通過するベルンの時計台(ツィートグロッケ=トゥルム。【外部リンク】から引用)を見たとき、時計台の針が動いていないように見えた。かつてガリレオ=ガリレイ(1564-1642)やアイザック=ニュートン(1642-1727)らによって打ち立てられた相対性原理が、普遍の原理か否かという疑問が提起された。それは、乗車しているバスが、宇宙一の最大速度を誇る光速(秒速約30万㎞。地球7周半分。ただし真空中での場合)で通過すると、時計の針はどのように見えるのかというものであった。
 速度というものは一般に観測者が地上に立って、ある物体の運動を計ったものである。ところが観測者がある運動中の物体の中にあり、別の物体の運動を観測すると、地上に立って観測した速度とは違って見える。ある運動中の物体から見たもう一方の運動する物体の速度が相対速度である。たとえば、

  1. 自分が乗車するバスと同速度で、同方向で、もう一方のバスが走行すると、もう一方のバスは止まって見え、
  2. 同方向だが、自分の乗車するバスが時速50km、もう一方のバスが時速70kmで走行すると、相手のバスは前方へ時速20kmで移動しているように見え、
  3. 自分の乗車するバスが時速50㎞で走行し、対向車線でもう一方のバスが時速50kmですれ違うとき、もう一方のバスは時速100kmでこちらに近づいてくるように見える、

というもので、1.から3.までの状況は相手が自分の乗車するバスを見ても同様の速度として見える。これが相対性原理で、どの観測者に対しても同じ形で物理法則が表されるものであった。ところが、たとえば3.の場合、ある一方の物体が「光」であるとすれば、光速以上のスピードが計算で得られることになり、普遍性が疑われるのである。

 こうした疑問がわき起こる中、アルバート=アインシュタインの生涯にとって、"奇跡の年"といわれた1905年が訪れた。彼が26歳の時であった。この年、アルバート=アインシュタインは、重要論文を5題発表した。その中の1つ、「Zur Elektrodynamik bewegter Körper(運動している物体の電気力学について)」は、これまでのガリレオの物理学やニュートン力学を大いに発展させたものであった。この理論には2つの原理があり、1つは、「特殊相対性原理」といい、あらゆる物理法則は、どの速度であっても、あるいは静止中であっても同一に成り立つというものである。慣性の法則(静止する物体や一定速度で動く物体はそれぞれそのまま維持しようとする法則)が成り立つ座標系(原点・座標軸・座標の種類など、座標をどう定めるかの基準を与えるもの。慣性の法則がなりたつ座標系を慣性系という)においては、同一の物理法則とされたのである。

 アルバート=アインシュタインが打ち立てたもう1つの原理は「光速度不変の原理」といい、観測者がどんな状況で、どのような速度でいても、真空中の光の速度は変わらずに見えるというものである。これまでの相対速度で考えるならば、観測者の状況によって光の速度は変わって見えるはずであったのを、アルバート=アインシュタインの発表によって観測者がいかなる状況によっても光の速度は変わらないことに帰結したのであった。
 当初の反応は静かなものであったが、ドイツの物理学者マックス=プランク(1858-1947)が命名した"相対性理論(相対論)"の名で広められた。この論文発表によって、アルバート=アインシュタインは一躍時の人となった。1907年には「E=mc²」の式("エネルギー(E)=質量(m)×光速度(c)の2乗"」)を発表、質量をエネルギーに変換でき、またエネルギーから質量を産み出すことを表した。

 1909年に特許局技師を退職したアルバート=アインシュタインはその後チューリッヒ工科大学助教授、プラハ大学教授を、ベルリンのカイザー=ヴィルヘルム研究所(のちのマックス=プランク研究所)物理学部長、チューリッヒ工科大学教授をへて、1913年にプロイセン科学アカデミーの会員となる。この頃からアルバート=アインシュタインは従姉妹のエルザ=レーベンタール(1876-1936)との交際を始めると同時に、ミレヴァとの関係が冷え込んだ。1913年以降、アルバート=アインシュタインは家族と別居してベルリンに生活拠点を置いた(1919年2月にミレヴァと離婚、同年夏にエルザと再婚)。

 1916年、アルバート=アインシュタインは「一般相対性理論」を発表した。これまでの相対性理論は「特殊相対性理論」と呼ぶ。これまでを"特殊"と呼ぶのは、加速した場合や重力を考えた場合を除いていたためで、一般相対論では、これらを含めた内容を展開している。一般相対性理論も2つの基本原理があり、まず1つは「一般相対性原理」という。この原理は前述の通り、観測者はすべて等速・加速いかんにかかわらず物理法則は同一であるという原理である。特殊相対性原理は一定速度と無重力において成立する物理法則であるのに対し、一般相対性原理は重力や加速が入った場合にも成立する物理法則であるとされる。さらにこれに加えて、すべての座標系において同一の物理法則が成り立つという「一般共変性原理」が打ち立てられた。
 もう1つの基本原理は「等価原理」といい、物体の慣性で働く"みかけ"の重さと、同じ物体の重力とは常に等しいという原理である。この原理は「E=mc²」発表の頃にはすでに発想しており、アルバート=アインシュタイン自身、生涯最高の発想であると述べていた。

 一般相対性理論では前述の基本原理から、"重力場で時空がゆがむ"、"動いている人の時間は、静止あるいは前者より動きが遅い人のそれと比べて、進みが遅くなる(時間の遅れ)"、"光が重力で曲がる"といった発展を生み、のちの重力レンズ効果やブラックホールの理論、宇宙の膨張説、ウラシマ効果などに応用された。1919年には、天文学者のアーサー=エディントン(1882-1944)が、太陽の重力場で曲げられてしまう他の恒星からの光線を検証するため(昼間の恒星は当然ながら日照によって不可視)、アフリカ西海岸沖のプリンシペ島で同年5月29日に起こった皆既日食を観測し、重力でゆがんだ時空に光が通過すると、光もこれに沿って曲がることを確認した。エディントンはイギリス国内においてもアルバート=アインシュタインの一般相対性理論を推奨しており、世界規模で知られるようになった。

 1921年、アルバート=アインシュタインはノーベル物理学賞を受賞した(ただし「相対性理論」ではなく、「光量子の理論」での受賞)。1925年にはシオニズム運動の一環として、1918年にイェルサレムに創立したヘブライ大学への援助活動を行った。この1920年代ではフランス、日本、スペイン、ベルギーなど世界各国を歴訪している。1932年にアメリカを歴訪したが、1933年のドイツで反ユダヤ主義のアドルフ=ヒトラー(1889-1945)が政権を樹立し、ユダヤの排斥を国是に掲げたことで、アルバート=アインシュタインはプロイセン科学アカデミーを辞任してドイツには戻らず、アメリカのプリンストン高等研究所(ニュージャージー州)の教授となり、プリンストン市に居住してアメリカ永住を決めた。しかし1936年、妻エルザを病気により亡くした。

 1939年9月1日に第二次世界大戦(1939-45)が勃発した。勃発する約1ヶ月前のこと、ナチス=ドイツが、核分裂させたエネルギーで巨大な破壊力を実現できる爆弾の開発を計画していることに不安をおぼえたハンガリー出身でアメリカ在住のユダヤ系物理学者、レオ=シラード(1898-1964)を中心とするアメリカの物理学者たちが立ち上がり、アメリカ大統領フランクリン=ルーズヴェルト(ローズヴェルト。第32代。民主党。任1933-45)に対して、ナチスによる核開発計画の警戒とそれに必要なアメリカ政府の迅速な行動、そしてアメリカの物理学界への研究支援などを書状でもって訴えた。厳密には、研究によってウランが今後重要なエネルギー源となる可能性が出てきたこと、アメリカ国内にはその良質のウランが少ないこと、同1939年3月にナチス=ドイツが解体したチェコスロヴァキアで産出される、良質なウランの販売を停止させたことなども書状に言及されていた(1939.8.2)。この書状にはアルバート=アインシュタインも物理学者の一メンバーとして署名していたが、のちのロバート=オッペンハイマー(1904-67)やエンリコ=フェルミ(1901-54。イタリア出身でアメリカ在住の物理学者)ら物理学者が参加したアメリカの核開発、いわゆるマンハッタン計画への展開のきっかけとなった。平和主義者のアルバート=アインシュタインは、この展開を嘆いたとされ、書状に署名したことを"人生における最大の間違い"として非常に悔やんだ。アインシュタインはマンハッタン計画には無関係であり、彼の相対性理論が核開発・核兵器製造のためだけに応用されたというのは誤解である。"E=mc²"にしてもエネルギーと質量の等価を表したにすぎず、質量から大量に生まれたエネルギーは原子力関連だけに通じるものではない。

 マンハッタン計画による核兵器開発は1945年7月16日、ニューメキシコ州のアラモゴード市で史上初の核実験が行われ(トリニティ実験)、8月における日本の広島(6日)・長崎(9日)への原子爆弾投下はアルバート=アインシュタインに強い衝撃を与えた。日本を破ったアメリカは戦勝国となり、1945年9月に終戦を迎えた際、アルバート=アインシュタインは"戦争には勝ったが、平和まで勝ち取ったわけではない"と述べた。またアルバート=アインシュタインは、核の抑止と戦争のない世界を実現するための世界連邦世界政府)構想を提唱(1946)、世界連邦運動(WFM。World Federalist Movement)を展開したが、これにはイギリスの数学者(哲学者)のバートランド=ラッセル(1872-1970)、フランス人の神学者(哲学者)のアルベルト=シュヴァイツァー(1875-1965)、日本の物理学者の湯川秀樹(ゆかわひでき。1907-81)ら科学者や文化人、政治家たちが賛同した。1949年に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した際、アルバート=アインシュタインは湯川秀樹夫妻と初めて対面、そこで自身が打ち立てた理論が、少なからずともその後の核兵器開発につながったことを涙ながらに謝罪したといわれている。

 こうした平和運動が発展する間も、1949年にはソ連、1952年にはイギリスがそれぞれ最初の原爆実験を実施し、また同1952年から53年にかけて、本国アメリカでも核実験を実施した。1954年になると米ソそれぞれにおいて水素爆弾の核実験を初めて行い、特にアメリカの3月1日に実施した、太平洋上のマーシャル諸島のビキニ環礁での水爆実験では、実験中に放射性物質のフォールアウト(死の灰)に遭遇した第五福竜丸および船員23名が被爆(同船無線長が死亡する)するという甚大な被害を受け、また広範囲におよぶ放射能汚染の被害を受けた。これをきっかけにして、原水爆禁止運動が活発化した。
 核実験競争が過熱状態となる国際情勢の背景から、1955年7月9日、人類絶滅危機をまねく核兵器の廃絶をうったえ、科学を平和に利用すべきであるという宣言が出された。これが、バートランド=ラッセルとアルバート=アインシュタインによる「ラッセル=アインシュタイン宣言」である。ロンドンで発表されたこの宣言はラッセル、アインシュタイン以外にも、湯川秀樹、イギリス物理学者マックス=ボルン(1882-1970)、フランス物理学者フレデリック=ジョリオ=キュリー(1900-58)ら11名の科学者たちが宣言に署名した。ラッセル=アインシュタイン宣言によって、核兵器の恐怖と人類絶滅の危機がさらに全世界に叫ばれるようになり、これは、のちに多くの科学者たちがカナダ・ノバスコシア州のパグウォッシュに結集して、科学と世界諸問題をテーマとした科学者の国際会議(パグウォッシュ会議。第1回は1957年7月)が開催されるきっかけとなった。

 アルバート=アインシュタインは、ラッセル=アインシュタイン宣言が発表される3ヶ月前の4月11日に署名した。しかし一週間後の18日、戦後に発覚していた腹部動脈瘤が悪化し、ラッセル=アインシュタイン宣言の発表を待たずして儚くなった(アルバート=アインシュタイン没1955.4.18)。アルバート=アインシュタインの人生における最後の偉業であった。
 アルベルト=アインシュタインの亡骸は、遺言により密葬とされ、遺灰はプリンストン市を流れるデラウェア川に散骨された(ただし脳は火葬せず、プリンストン大学が保管)。自身を凡才として思い上がることなく、常に努力を怠らなかったひとりの物理学者は、こうして後世に天才として尊ばれる大きな存在となったのである。

 参考サイト:アインシュタインの相対性理論(リンク切れ「http://freett.com/kiguro/z-kagaku-sotaisei/z-kagaku-sotaisei.html」2018.3.31追記)


 今回は現代史における大物中の大物の紹介をいたしました。アインシュタインは数多くの名言・格言・逸話を残していますが、個人的には「人間性について絶望するな。なぜなら、我々は人間であるからだ」の名文句がジーンときたりします。また1951年の誕生日(3月14日)に通信記者から写真を撮られる際、笑ってと注文をつけたところ、舌を出した有名な写真ができあがったと言います。アルバート=アインシュタイン自身も非常に気に入った写真だそうです。また親日家としても有名です。初めての訪日を決めた1922年、アインシュタインを乗せた日本郵船「北野丸」がマルセイユ出港から40日かけて神戸港の和田岬に到着し(途中、船上でノーベル物理学賞受賞の一報を受けています)、改造社(『改造』の出版社)の山本実彦社長(やまもとさねひこ。1885-1952)や物理学者の長岡半太郎(ながおかはんたろう。1865-1950)東大教授らが出迎えるフィーバーぶりで、その後は全国講演を行う傍ら、名所を見物しています。また日本が被爆したと報告を受けたときに"O Weh!(ああ、悲しい)"と叫んだと伝えられています。

 さて、物理学は完全な素人だったもので 相対性理論の内容理解については参考サイト「アインシュタインの相対性理論(リンク切れ「http://freett.com/kiguro/z-kagaku-sotaisei/z-kagaku-sotaisei.html」2018.3.31追記)」を参照させていただきました。詳しい解説は同サイトをご参照ください。非常にわかりやすいです。それでは大学受験世界史に見る今回の学習ポイントです。アインシュタインは3カ所の分野で登場します。まず1つ目は、ナチス=ドイツの項で、ナチスのユダヤ迫害によるアメリカへの亡命者として登場します。ナチスから逃れてアメリカへ亡命した人は他に小説『魔の山』を著したドイツ人作家トーマス=マン(1875-1955)が知られています。

2つ目は、現代文化の項で、物理学部門の代表として"相対性理論"の重要ワードとともに登場します。

 そして3つ目は原水爆禁止運動の項で、ラッセル=アインシュタイン宣言の発表と、これを契機にカナダで開催された科学者の国際会議であるパグウォッシュ会議が重要どころでしょう。核兵器関連は、本編の内容だけでは済まされない膨大な重要項目がありますので、また別の機会でとりあげますが、本編内容だけで学習ポイントをとらえるならば、原爆製造の計画であるマンハッタン計画は、科学者たちがF=ローズヴェルトに宛てた書状がきっかけとなっています。これは「アインシュタインの手紙」と言われることが多いですが、正しくはシラードの核兵器開発を勧めた書状にアインシュタインが署名したものです(アインシュタインはこの署名を大いに悔やみます)。マンハッタン計画は難関大の問題文などで登場することがあります。また第五福竜丸のビキニ環礁実験による被爆事件は絶対に覚えておいてください。1954年に起こった事件で、今年は事件が起こって60年です。忘れてはいけない事件です。この事件の翌1955年8月、広島で原水爆禁止日本協議会(原水協)による第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。これも重要ワードです。核兵器関連は今回はこの内容でとどめておきます。

 余談ですが、ちなみにラッセル=アインシュタイン宣言に署名した人々にも注目してみると、フレデリック=ジョリオ=キュリーの妻はイレーヌ=ジョリオ=キュリー(1897-1956)で夫と同じく原子物理学者です。イレーヌの父母は、言わずと知れたラジウム発見の物理学者、キュリー夫妻(父ピエール。1899-1906。母マリ。1867-1934)です。フレデリックがマリ=キュリー夫人の助手となり、その後夫人の長女であるイレーヌと結婚しました。また余談の余談ですが、マックス=ボルンの孫は個人的にも気に入っている歌手のオリヴィア=ニュートン=ジョン(1948生)です。

【外部リンク】・・・wikipediaより

(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。
(注)ブラウザにより、正しく表示されない漢字があります(("?"・"〓"の表記が出たり、不自然なスペースで表示される)。