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輝く戦歴・その2
~帝国軍躍進~
その1 「誕生と成長」はこちら
オスマン帝国(1299-1922)の常備歩兵軍団であるイェニチェリを不動の軍団に育て上げたバヤズィト1世(バヤジット1世。帝位1389-1402)没後、帝国は後継者争いが激化し、帝国領土は分裂、未曾有の空位時代(1402-13)がおこったが、1413年にバヤズィト1世の子メフメト1世(帝位1413-21)がオスマンに反抗したベイリクを次々と破り、これまで何度も包囲戦に失敗していた相手、ビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453。首都コンスタンティノープル)と手を組んで、これまでオスマン帝国に対して常に敵意むき出しであったアナトリア中南部のベイリク、カラマン君侯国(1250-1487。首都コンヤ)を攻め、バヤジット1世が没した場所とされたアクシェヒル(中央アナトリアの都市)を奪回した。
再統一を達成したものの、次のムラト2世(帝位1421-44,46-51)まではアナトリアやバルカンなど失地回復に活動を費やした。ムラト2世は1444年にブルガリア北東部のヴァルナ近郊でハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)を中心とするキリスト教連合軍と戦いこれに勝利した。その後ムラト2世は一度退位して子のメフメト2世(位1444-46,1451-81)に譲位したが、ムラト復位を望むイェニチェリの反乱がアドリアノープルにあったとされ、まだ若かったメフメト2世は一度退き、ムラト2世は復位している。復位後のムラト2世率いるイェニチェリはセルビア、ハンガリーらのキリスト教連合軍をコソヴォで対戦し勝利を収め、バルカンのキリスト教国はオスマンの支配下に入った。こうして、失地を次々と回復していき、バヤズィト1世時代の版図に近づいていった。そしてムラト2世没後は再びメフメト2世が復位して(1451)、これまでのスルタンが"包囲"までで終わっていたバルカンとアナトリアをつなぐ要所コンスタンティノープルを"陥落"させるための準備に取りかかった。
コンスタンティノープルの陥落を達成させるためには、コンスタンティノープルにおける防御の要、三重の大城壁("テオドシウスの城壁"【外部リンクから引用】)を打ち破らなければならなかった。メフメト2世はイェニチェリによるコンスタンティノープル包囲戦をこれまで何度も失敗した経験から、軍備の大増強をはかり、要塞構築(ルメリ=ヒサル)や新型大砲("ウルバン"【外部リンクから引用】)などを導入、主力部隊をコンスタンティノープル攻略に集中させ、正規軍だけで8万、不正規軍2~4万の兵力(数は諸説あり)、中でも主力常備軍団の1つであるイェニチェリは1万~1万2千にまで拡大しており、数万に及ぶシパーヒーなどの騎兵団も加わっていた。これに対し、ビザンツ軍は7千ほどの兵力であった。
大砲を携えたメフメト2世軍はイェニチェリを中心とする常備軍団を大城壁の中央門に陣取り、左翼にはバルカン(ルメリ)の、右翼にはアナトリアの騎兵団をそれぞれ配置させた。1453年4月12日に大城壁に向けて攻撃が始まった。海軍に関しては、ボスフォラス海峡側からガラタ(現イスタンブルを東西に流れる金角湾の北岸。ガラタ塔で有名。現カラキョイ)後方の丘を越えるため、艦船を陸上に上げて、梃子(てこ)と転(ころ)を用いて運び込み、金角湾に送り込む、"オスマン艦船の山越え"の奇策を図り、ビザンツ軍を圧倒した(詳細「Vol.202 王都陥落 1453!」)。
そして5月29日、イェニチェリの強固な攻撃でついに大城壁の突破に成功、コンスタンティノープルは陥落した(ビザンツ帝国滅亡。1453)。メフメト2世は首都をエディルネからイスタンブルに遷した(イスタンブル遷都。1453)。
メフメト2世はその後も軍を率いて征服活動を続けた。主目標はバルカン方面であったが、同方面を征服目的にしていた西方のハンガリーの進出を閉ざすため、重要拠点のベオグラードを包囲したものの、親征したメフメト2世が負傷したため退却、包囲は失敗に終わった(1456)。しかしバルカンでは連勝を重ね、1462年にはペロポネソス半島を含むバルカンのほぼ全土が、オスマン帝国に支配下に入った。攻撃の手を緩めないメフメト2世はその後も黒海東南岸沿いのトレビゾンド帝国(1204-1461。ビザンツ帝国の残存政権)と、同帝国を含む黒海沿岸の征服に向かった。当時メフメト2世いはトレビゾンド帝国と関係を持つ白羊朝(はくよう。1378-1508。トルコ語で"白い羊に属する者"を意味する部族名"アク=コユンル"が由来のトルコ系イスラム王朝。イラン西部からアナトリア東部)の君主ウズン=ハサン(位1453-78)に迫って援軍阻止の協約を結んだ。支援を断ち切られたトレビゾンド帝国は1461年に滅亡、降伏したダヴィド帝(トレビゾンド帝位1458-61)は家族とともに処刑された。
1470年代もメフメト2世の征服活動は止まらなかった。中部アナトリアでは、オスマン帝国の長年の宿敵であるカラマン君侯国が依然として残り、交易の要所であるコンヤを拠点に、白羊朝のウズン=ハサンの支援を受けていた。アナトリア全土征服を計画するメフメト2世は軍を率いて白羊朝のウズン=ハサンの軍と東アナトリア地方のオトゥルクベリ(現トルコのエルズィンジャン県)と一戦を交えた(オトゥルクベリの戦い。1473.11)。白羊朝軍は刀剣や弓矢を武器とする騎馬兵団が中心であったが、オスマン軍は当然のことながら騎兵のみならず、火器(鉄砲、大砲)を使用する歩兵や砲兵の活躍が光り、ウズン=ハサンの軍を敗退させ、東部アナトリアがオスマン帝国の支配下に組み込まれた。メフメト2世はこの勢いを持続し、艦隊を使って黒海北岸のクリミア半島を拠点に誕生してまだ新しいクリム=ハン国(15C半-1783)に軍事介入、支配下に入れた(1475)。これにより、黒海はオスマン帝国が制覇、帝国の内海領域となった。
その後メフメト2世はイタリア方面にも帝国軍を差し向け、1480年に南イタリアのオトランドを制圧したが、メフメト2世が親征中(遠征先は不明)の1481年に急逝、49歳であった(メフメト2世没。1481)。結局、軍はオトランドから撤退した。次のバヤズィト2世(帝位1481-1512)の治世ではマムルーク朝(1250-1517)との関係が悪化、アナトリア南部で戦うも敗れ、息子たちの後継者争いにイェニチェリが関わり、クーデタが勃発してバヤズィト2世は廃位となった。
イェニチェリに支持されて後継者争いに勝ち、帝位に就いたバヤズィト2世の子セリム1世(帝位1512-1520)は、アナトリアに進出するサファヴィー朝(1501-1736。シーア派のペルシア国家)の初代シャー、イスマーイール1世(シャー位1501-24)が率いるクズルハシュ(キジルバシュ。トルコ系遊牧民からなるサファヴィー教団信徒が発端)の騎馬部隊と一戦を交えることとなる。これまでのイスマーイール1世の治世では、クズルハシュで構成された騎馬部隊は無敵を誇っていた。
オスマン帝国とサファヴィー朝両軍の戦闘は東アナトリア地方のチャルディラーン(現ヴァン県。ヴァン湖北東)で行われた(チャルディラーンの戦い。1514.8)。無敵を誇るサファヴィー朝軍に立ち向かうため、兵力の数においては圧倒的にオスマン軍が多かった(諸説あるがサファヴィー朝は1.2~4万、オスマン帝国は6~21万の間とされる)。オスマン軍の布陣は鉄砲を装備したイェニチェリ歩兵隊を筆頭に、砲兵と常備騎兵が構え、騎兵軍の前に鎖でつながれた大砲が並べられ、その大砲を別の騎兵が隠すように陣取った。敵の突撃と同時に大砲を隠していた騎兵が左右に移動して大砲を出し、砲撃するというしくみである。右翼にはアナトリア騎兵が、左翼にはバルカン騎兵がそれぞれ配置された。軍の前方に駱駝と車で柵が作られた。一方のサファヴィー朝軍は、ほとんどが騎馬部隊の戦力となっており、イスマーイール1世は左翼を指揮した。オスマン帝国軍より先に布陣を終えたサファヴィー朝イスマーイール1世は、夜襲攻撃をせずオスマン軍の布陣を待って、正面から攻撃することに決めた。
戦闘が始まった。イスマーイール1世が指揮する左翼騎馬兵を中心に、凄まじい猛攻を繰り広げ、オスマン帝国右翼のアナトリア騎兵隊はたちまち倒れはじめて、オスマン軍は劣勢と化した。しかしオスマン軍の火砲はサファヴィー朝軍の中央と右翼で大きく発揮されており、なおもイェニチェリの手は休むことなく鉄砲射撃を続け、そしてイスマーイール1世の攻撃に防戦一方だったオスマン側右翼にも駆けつけて一斉に射撃、サファヴィー朝軍左翼の将軍ムハンマド=ハーン=ウスタジャル(?-1514)を戦死、さらにイスマーイール1世をも負傷させ、形成が逆転してオスマン軍優勢となった。結果、イスマーイール1世と潰滅したサファヴィー朝軍は逃げ去り、オスマン帝国軍の勝利となった。この戦争で、サファヴィー朝が入り込んだ東アナトリア地方はオスマン帝国に帰順した。最強の騎馬兵で構成されたサファヴィー朝クズルハシュ軍の不敗神話が脆くも崩れ去り、一方で、鉄砲や大砲といった新型兵器でこれらを倒したオスマン帝国イェニチェリの活躍は、弓矢や刀剣の時代から火器の時代への移り変わりを世に知らしめ、軍事の歴史において重要な意味を持った。
サファヴィー朝との抗争を終えたセリム1世はエジプト~シリアのスンナ派国家、マムルーク朝に標的を絞った。すでに全盛期が終わり弱体が進むマムルーク朝であったが、アッバース家のカリフ(預言者の代理とする、ムスリム全体の最高指導者)を保護しており、いまだ威光を放つ存在であったが、シーア派国家のサファヴィー朝を戦争で破った、マムルーク朝と同じスンナ派国家のオスマン帝国の存在は、マムルーク朝にとって脅威にほかならなかった。
1516年8月、オスマン帝国軍を自ら率いたセリム1世は、シリアの都市アレッポ北方のマルジュ=ダービクで、マムルーク朝軍との戦闘を開始した(マルジュ=ダービクの戦い。1516.8)。オスマン帝国軍の布陣はこれまでと同様、中央にイェニチェリと常備騎兵軍、左右両翼に騎兵軍という布陣であり、陣の前後に多数の大砲が鎖でつながれて置かれた。兵力は6万を越え、大砲は500~800門に達した。一方のマムルーク軍は騎兵軍8万と、オスマン帝国軍を上回った。マムルーク騎兵は勇猛果敢に突撃し、オスマン帝国軍の左右両翼が崩れはじめ、オスマン帝国軍は劣勢に立たされた。しかし、前回のチャルディラーン戦同様、イェニチェリ軍による左右両翼への救援で盛り返し、銃撃および砲撃を巧みに仕掛けて反撃、相手の指揮官を戦死させて形成を逆転させた。旧来の弓矢と刀剣で戦おうとしたマムルーク軍は潰滅、あれだけあった戦力は1万人も残っておらず、退却した。翌1517年にオスマン軍は首都カイロを攻め落とし、マムルーク朝を滅ぼした(マムルーク朝滅亡。1517)。これによりオスマン帝国はエジプト、シリア、パレスティナを領有することになり、さらに、聖地であるメッカとメディナの守護者とする称号がオスマン帝国スルタンに与えられた。マムルーク朝に保護されていたカリフに至っては、セリム1世自身がカリフの位を禅譲したという史料記述はなく、世俗的権威を持つスルタンが、宗教的権威を持つカリフとして立ったという政教一致の体制(いわゆる"スルタン=カリフ制")は、後世の創作である可能性が高い(19世紀に広まったこの伝説は、キリスト教列国との東方問題で揺れ動いた時代、オスマン帝国に最大最強の権威を示すために主張されたものと思われる)。
サファヴィー朝、マムルーク朝と立て続けに戦勝したセリム1世はアナトリア沿岸部のロドス島(ロードス島)遠征を計画した。14世紀に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)によって占領されたこの島は城壁は難攻不落で、かつてメフメト2世も出陣したが攻撃ははね返され失敗し、今度はセリム1世が挑むところであった。しかし1520年9月にセリム1世は病死した(セリム1世没。1520.9)。
メフメト2世、セリム1世という、大国を相手に戦い抜いて軍功をあげた名君のもとで、イェニチェリをはじめとするオスマン帝国軍は、着実に成長を遂げていくのであった。
主要参考文献:
前回の続編となりました。ビザンツ帝国を滅ぼしたメフメト2世、マムルーク朝を滅ぼしたセリム1世の2大君主の治世における様々な戦闘をご紹介しました。大学受験においてもこの2人は重要人物であり、「世界史の目」でも過去に何度も取り上げております。特に本編のビザンツ帝国滅亡に関しては「Vol.202 王都陥落 1453!」に関連した内容です。
また、セリム1世対イスマーイール1世の"チャルディラーンの戦い"は、鉄砲隊であるオスマン帝国のイェニチェリと、騎馬隊であるサファヴィー朝クズルハシュ軍との一戦ですが、軍事史における戦術の転換を示す重要な戦争の1つとして挙げられていることで有名です。鉄砲隊と騎馬隊が激突する戦争は、日本では1575年の「長篠の戦い」が有名ですね。
では、大学受験世界史における学習ポイントです。メフメト2世関連では、言うまでもなく1453年("一夜でごみだらけ"の覚え方)のビザンツ帝国滅亡、コンスタンティノープルをイスタンブルへ改称およびアドリアノープル(エディルネ)からの遷都、マイナーなところではクリム=ハン国の征服(1475)ぐらいでよろしいかと思います。セリム1世関連では、マムルーク朝の滅亡、エジプトとシリアを領有、そしてメッカとメディナの支配権を獲得したことが重要です。余裕があれば、"スルタン=カリフ制"の伝説が生まれたことも用語集に記載されているので、知っておくと便利です。イェニチェリ関連では、前述のセリム1世がサファヴィー朝のイスマーイール1世と対戦したチャルディラーンの戦いなどで本領を発揮するのですが、チャルディラーンの戦いは用語集では最新版でしか記載を見かけません。ただ、イェニチェリがこれまでの騎馬兵のように弓矢と刀で馬に乗って戦うのではなく、鉄砲などの火器を使って相手を倒す戦法を世に知らしめたことは、余裕があれば知っておきましょう。
さて、次回第3編、オスマン帝国の"大帝"が登場します。さらに西ヨーロッパの大物皇帝も登場します、次回もこうご期待!
【外部リンク】wikipediaより
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(注)紀元前は年数・世紀数の直前に"B.C."と表しています。それ以外は紀元後です。