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世界史の目

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ギャラリー

第78話


オーストリアとプロイセン・その1
~三十年戦争とスペイン継承戦争~

参考:神聖ローマ帝国(前編後編

 神聖ローマ帝国962-1806)がオーストリア公国(ハプスブルク家領オーストリア。1278-1918)の大公家であるハプスブルク家へ完全に手渡った1438年、ハプスブルク朝1273-1291,1298-1308,1314-30,1438-1742,1745-1806)がアルブレヒト2世(位1438-39)によって再興された。以降、神聖ローマ皇帝はハプスブルク家によって世襲化されることになり、アルブレヒト2世の後、フリードリヒ3世(位1440-1493)→マクシミリアン1世(位1493-1519)→カール5世(位1519-56。スペイン=ハプスブルク王カルロス1世。スペイン王位1516-56)→フェルディナント1世(位1556-64)→マクシミリアン2世(位1564-76)→ルドルフ2世(ルードルフ2世。位1576-1612)→マティーアス(位1612-19)→フェルディナント2世(位1619-37)と続いていった。ドイツ宗教改革(1517-1555)の勃発の時は、"旧教(カトリック)の帝国"という宗教的価値から、神聖ローマ帝国の存在意義を存分に示してプロテスタントと戦った。しかしハプスブルク家の本当の思惑は、領邦の統一による神聖ローマ帝国の発展よりもむしろ家領オーストリアの拡大であった。

 イタリア戦争(1521-44)、スレイマン1世(オスマン皇帝。位1520-66)のウィーン包囲(1529)、スペイン進出(1516-1700)と、激動の時代を歩いたハプスブルク家は、政略結婚で前述のスペインやネーデルラントオランダ)、北イタリアを獲得し、領地を拡大、空前の大帝国となっていった。一方で、ハプスブルク家領に囲まれていた西の王者フランスのヴァロワ朝(1328-1589)とこれに続くブルボン朝(1589-1792,1814-30)は、ハプスブルク家と同様にカトリック国ということもあり、国家拡大にむけた権力闘争が両者間で繰り広げられることになる。特にハプスブルク家がオーストリア=ハプスブルク家スペイン=ハプスブルク家とに分離し、カール5世(カルロス1世)が両方の君主として君臨して以降は、ハプスブルク家対フランス王朝という、互いの敵対感が顕在化し、この緊張関係がヨーロッパ情勢の中心となっていった。

 ハプスブルク王朝が再興される前の神聖ローマ帝国はルクセンブルク家が統治していた。ジギスムント(もと神聖ローマ皇帝。位1411-37)が当時のブランデンブルク辺境伯ブランデンブルク選帝侯。侯位1378-88,1411-1415)であったが、彼が選帝侯を退く際(1415)、ニュルンベルク城伯(バイエルン州)のフリードリヒ6世(伯位1397-1415)に封じて、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世(侯位1415-40)として同地を任した。このフリードリヒの家系はホーエンツォレルン家といい、シュヴァーベン(南ドイツ)の小貴族が発祥で、1191年以降、ニュルンベルク城伯をつかさどり、ブランデンブルク選帝侯国辺境伯領)を支配、都市ベルリンを中心に強大な勢力を誇っていた。

 一方、十字軍の責務を終え、バルト海沿岸に定着したドイツ騎士団は、13世紀にドイツ騎士団領をおこし、14世紀にはハンザ同盟(北ドイツの都市同盟)に接して商業的な成果をあげていたが、東の強国ポーランドリトアニア=ポーランド王国ヤゲウォ朝。1386-1572)に屈して弱体し始めていた。ドイツ騎士団長アルブレヒト(任1512-1525)の曾祖父は、前述のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世であり、ホーエンツォレルン家の血筋を引いていたことで、1511年、公国を建設、1525年にはアルブレヒト団長がマルティン=ルター(1483-1546)の影響により、自身の公国にプロテスタント(新教)を受容した。騎士道に基づくカトリック(旧教)への信奉がなくなり、世俗公国となったことで、ドイツ騎士団の名は捨て、バルト海沿岸の原住民であるプロイセン人(プロシア人。スラヴ系)の名を用いてプロイセン公国(1511-1618)とし、アルブレヒトはプロイセン公となった(公位1525-68)。しかしプロイセンのホーエンツォレルン家はアルブレヒトの子(アルブレヒト=フリードリヒ。公位1568-1618)の死(1618)でもって断絶したため、ブランデンブルクからつなぐことになり、プロイセン公国とブランデンブルク選帝侯国の同君連合(ブランデンブルク=プロイセン)となって、ブランデンブルク選帝侯だったヨーハン=ジギスムント(侯位1608-1619)がプロイセン公を兼ね(公位1618-1619)、以降世襲化された。

 16世紀半ば以降のヨーロッパでは、新大陸から大量のが流入し、各地で大幅なインフレーションを引き起こしたが(価格革命)、17世紀になるとこれらの好景気は、対外進出の停滞によって、徐々に後退しはじめ、貿易の小規模化、人口減少、商業不振、デフレーション、銀の生産低下、封建領主の没落などを引き起こし、経済危機が訪れた。危機によって暴動や殺戮が増えるなど治安悪化に伴い、各国で"魔女狩り(ウィッチ=ハント)"が行われ、老若男女問わず(特に社会的弱者である老婦女子)10万以上の犠牲者が出たという。さらに、こうした不安定な情勢に追い撃ちをかけたのが、異常気象である。17世紀のヨーロッパは気温の異常低下により(小氷河期)、農業危機にも陥ったため、これまで以上に農民一揆や商人の暴動、魔女狩りが相次いだ。こうした状況は"ヨーロッパの全般的危機"と命名され、これを起因としてヨーロッパ諸国の人々は心理的に闘争や人権主張など暴走し、さまざまな革命・戦争・殺戮が繰り返されていった。後のピューリタン革命(イギリス。1642-49)やフロンドの乱(フランス。1648-53)などがそれであるが、最も長く、惨く、そして数々の諸国を戦乱に招いたのが、ドイツにおける三十年戦争1618-48)であった。

 時の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、イエズス会の教育を受けてオーストリアでの反宗教改革を推進した熱心なカトリック信者で、ハプスブルク家領から新教徒を一掃する方針をうちたてた。神聖ローマ皇帝として即位する2年前にベーメン王に就いたが(ベーメン王位1617-27)、熱狂的カトリック信者がベーメン王になったため、ベーメンのプロテスタント貴族・傭兵軍といった新教徒が、フェルディナント擁立の翌1618年、フェルディナント廃位と、新教徒であるプファルツファルツ選帝侯フリードリヒ5世(侯位1610-1623)即位の宣言を行い、ハプスブルク家に対して武装蜂起した(ベーメン反乱)。これがドイツ三十年戦争の勃発の瞬間である。翌1619年ベーメン新教派はプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をベーメン王フリードリヒ(冬王。王位1619-1620)として擁立した。

 ハプスブルク家は新教徒のこれらの宣言を無視して本格的に新教徒弾圧を開始した。元々新教徒出身だったベーメンの軍人ヴァレンシュタインワレンシュタイン。1583-1634)は、ハプスブルク家に仕えたことでカトリックに改宗し、皇帝を支持して軍を結成した。1620年11月、スペイン-神聖ローマ帝国連合軍として進軍したハプスブルク軍は、プラハ西郊外にある丘・ビーラー=ホラ(白山)で新教徒貴族・傭兵軍と激突した。短時間で新教軍は壊滅し、ハプスブルク軍の圧勝となった(ビーラー=ホラの戦い。白山の戦い)。戦死を免れた新教軍は、処刑・国外追放・私権没収など厳しい処罰を受けた。ベーメン王フリードリヒは廃位させられ、オランダへ亡命した。ベーメンは旧教改宗を余儀なくされ、ハプスブルク家からの独立を完全に奪われた。
 実はベーメンの新教派が簡単に敗れたのは理由があった。ベーメン反乱が行われる以前から、旧教徒はリガを、新教徒はウニオンをそれぞれ同盟組織として結成し対立していた。ウニオンには、ベーメンやプファルツ以外にもザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯といった新教派が属していた。しかし、国体護持のためザクセンやブランデンブルクがベーメンを見捨ててハプスブルク家を支援したという事情があったため、盟主ハプスブルク家率いる旧教同盟リガが圧倒的に勝利を収めることができたのである。

 1619年に神聖ローマ皇帝として即位したフェルディナント2世は、本格的に新教徒弾圧を企図しようとしたが、ベーメンの反乱を決着したはずが、他の新教国を刺激させたことで、予想外の展開を迎えた。短期で終わるはずが、領土的野心から多くのヨーロッパ諸国が介入・参戦し、戦況規模が拡大した長期の戦争となっていったのである。旧教徒側は皇帝軍として結成され、新教徒側は新教国や新教諸侯、また新教都市の軍が結集されていった。
 こうした新たなヨーロッパ情勢が築かれていく中、ハプスブルク家も大きな転機を迎えることになる。同じカトリック国であるが敵国でもある隣国フランスが動いたのである。当時のフランス・ブルボン朝はルイ13世(正義王。位1610-43)の治世だったが、1624年、ルイ13世の宰相に有能な政治家リシュリュー(1585-1642)が選出され、その後彼の建議によってオランダ・イギリス・スウェーデン・デンマークといった新教国と同盟が結ばれた。カトリック国であるフランスが、カトリックのハプスブルク家に対抗する、命がけの同盟結成であった。

 かくして、旧教側にはスペインを擁するハプスブルク家(神聖ローマ皇帝側)が中心となり、新教側には新教国デンマーク、スウェーデン、オランダ、イギリス、そして、カトリックだが反ハプスブルクということでフランスがバックアップし、ドイツを舞台に大規模な戦争となった。

 デンマークは、デンマーク及びノルウェー国王クリスティアン4世(クリスチャン4世。位1588-1648)が統治するルター派プロテスタント国で、同じプロテスタントのイギリスとオランダの援助によって、遂に旧教側に宣戦布告した(1625)。これに対し、フェルディナント2世は、ヴァレンシュタインに命じて傭兵を集めさせた。ヴァレンシュタインは、5万の傭兵軍を自費で結成し、皇帝軍総司令官としてデンマークと対戦、クリスティアン4世率いるデンマーク軍を撤退させた(1629)。デンマーク撤退後、講和が成立したが(リューベック条約)、翌1630年、今度はフランスの援助を受けた"北方の獅子"・スウェーデン軍がドイツに侵入した。スウェーデンの参戦目的はハプスブルク家領内の新教徒擁護という宗教的な介入よりも、バルト海政策を展開するスウェーデンにとって、ハプスブルク家を挫くための政治的戦争としての介入であった。スウェーデン軍を率いるのはスウェーデン国王グスタフ2世アドルフグスタフ=アドルフ。1594-1632。位1611-32)で、1万人余の軍隊だったが、勇敢に戦い、連戦連勝を重ね、1632年にはミュンヘンを占領した。しかし同年11月、ライプチヒ近郊のリュッツェンで、皇帝軍総司令官である名将ヴァレンシュタインと激突、王グスタフは敗れて戦死した(リュッツェンの戦い)。
 ヴァレンシュタインは、リュッツェンの戦いを終え、皇帝フェルディナント2世の断りもなく新教徒側と和平交渉を行った。皇帝はこれに怒りを買い、ヴァレンシュタインを免職(1634)、部下を使って彼を謀殺した。その後、デンマーク軍、スウェーデン軍を送り込んだフランスは、今度は自らハプスブルク家に対して宣戦し、スペインに乗り込んだ(1635)。この時点で、両国の攻防は政治的侵略色が濃くなり、現にカトリック国同士が戦うという、もはや宗教戦争の意味合いはなかった。皇帝側では、フェルディナント2世が没し(1637)、フェルディナント3世が即位した(位1637-57)。しばらくしてフランスでもリシュリューが没し(1642)、翌年ルイ13世も没した(1643)ことで、1643年ルイ14世太陽王。位1643-1715)が宰相マザラン(1602-61)のもとでの新体制となっていった。

 この間、ホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセンは、ブランデンブルク選帝侯のフリードリヒ=ヴィルヘルム(大選帝侯。侯位1640-88)のもとで領土拡大策に巧みに行い、三十年戦争では、フランスやスウェーデン側についてバルト海沿岸獲得に動き、その後は中立を守った。また内政では領地制の整備につくし、地主貴族(領主)を使って農民を農奴化させ、彼らの賦役労働によって穀物生産経営を行った。この農業形態をグーツヘルシャフトといい、地主貴族はユンカーと呼ばれた。フリードリヒ=ヴィルヘルムは、ユンカーにグーツヘルシャフトを容認させる代償として、貴族たちを官僚制のもとに支配し、身分制議会を廃して中央集権化に努め、ブランデンブルク=プロイセンの絶対主義化を推進した。

 三十年戦争は1648年ウェストファリア条約(ウェストファリア会議)によって終結となった。ドイツは荒廃し、虐殺された多くの罪のない市民・農民の遺体が散乱、またペスト流行によるさらなる人口激減も重なって、都市や村落の各機構も麻痺した。元来非統一的国家であったドイツは、領邦の分立が激化しており、神聖ローマ帝国による統一は物理的に無理となった。
 ウェストファリア(ヴェストファーレン)はドイツ北西にあり、同地方のミュンスターとオスナブリュックの2都市で協議が行われ、皇帝側・スウェーデン・フランスなどが講和にあたった。主な決議内容は、以下の通りである。

  • アウグスブルク宗教和議1555)の確認と、カルヴァン派の承認
  • スイス・オランダネーデルラント連邦共和国独立国際的承認
  • アルザス地方におけるハプスブルク家の諸権利とロレーヌ地方の司教領(ヴェルダン・トゥール・メッツ)がフランス領へ。同様にスウェーデンにも西ポンメルンとブレーメン司教領などを、ブランデンブルクにも東ポンメルン、マグデブルク司教領などをそれぞれ移譲。
  • ドイツ領邦は独立を承認(主権が確立)。
  • 帝国議会へのフランスとスウェーデンの各代表の出席・議決の承認

 この決議はハプスブルク家が、フランス・ブルボン朝に、完全に敗北したことを意味した。300に及ぶドイツ領邦の主権が確立したことで、神聖ローマ帝国は形成の意味がなくなり、有名無実化し、事実上解体となる。しかしハプスブルク家による神聖ローマ皇帝が今後も輩出されるため、精神的存在として残ることになり、ナポレオン1世(位1804-14,15)がライン同盟を結成した1806年までいちおう存続した(ウェストファリア条約は別称"神聖ローマ帝国の死亡証明書"と呼ばれる)。近代国際会議の先駆となったこの会議は、国際関係を定めた会議として、それぞれの国境を持つ独立した国家が、主権を持ってのちの近代国家を形成する、いわば主権国家体制へのアシストを施したといって良い。

 一方、ブランデンブルク=プロイセンは1657年、フリードリヒ=ヴィルヘルムによってポーランド王より自立を果たした。フリードリヒ=ヴィルヘルム没後、子のフリードリヒ3世(1657-1713)がブランデンブルク選帝侯に就いたが(侯位1688-1713)、1701年、ハプスブルク家の帝国領域外のプロイセンについて、王号を承認され、プロイセン王国が誕生、選帝侯フリードリヒ3世は国王フリードリヒ1世となった(実質は"プロイセンにおける王"のため、"プロイセン国王"には程遠い。王位1701-13)。国王の誕生によって、ドイツ東北部における支配権は周囲の領邦国家にも認められ、次第に強大化していった。

 プロイセン王国誕生の経緯は、次の内容にも大きく関わっている。神聖ローマ皇帝レオポルト1世(位1657-1705。フェルディナント3世の次子)の時代に、スペイン=ハプスブルク家が誇るスペインで、病弱のカルロス2世(位1665-1700)が子を出さないまま没することとなり(1700)、ローマ教皇の忠告でルイ14世の孫フェリペ(1683-1746)を遺言で後継者に指名した。よってフェリペはフェリペ5世(位1700-24,24-46)として即位、スペイン=ハプスブルク家は断絶してスペイン=ブルボン朝が始まった(1700-1931)。ハプスブルク家が支配したスペインまでがフランス・ブルボン朝に渡ることに、レオポルト1世は納得せず、ハプスブルク家領のオーストリアを参加国として、当時フランスと英仏植民地戦争(1689-1815)を繰り広げていたイギリス(ステュアート朝。1603-49,1660-1714)や、オランダと協力して、スペイン、フランスと戦うことになった(スペイン継承戦争。1701-13/14。)。そこでレオポルト1世が、自軍の救援を求めたのがプロイセンであり、これを代償に選帝侯フリードリヒ3世に王号を称することを承認したのであった。このため、プロイセン王国はスペイン継承戦争の勃発で成り立ったとも言える。
 イギリスはフランスに対して激戦を展開するが、植民地戦争の一環として新大陸である北米も戦場にして戦い、スペイン継承戦争と連動した。これが当時のイギリス国王の名に因んで、"アン女王戦争(1702-13)"という(アン女王。位1702-14)。ルイ14世は、1667年から翌68年にかけて南ネーデルラント継承戦争(スペイン領ネーデルラントの継承権主張)でもイギリスとオランダに阻止され、続く1672年から78年にかけて、前戦争の報復としてオランダ侵略を企てるも失敗(オランダ侵略戦争)と、"朕(ちん)は国家なり"と称した太陽王も対外侵略に関しては苦戦した。1689年にもプファルツ選帝侯の継承権を主張してドイツ諸侯や神聖ローマ皇帝レオポルト1世をはじめ、イギリス、オランダを敵に回して侵略戦争を行っており(プファルツ戦争。ファルツ継承戦争。1689-97)、またスペイン継承戦争と同様、ファルツ継承戦争は北米でも連動して"ウィリアム王戦争(1689-97。ウィリアム3世の治世。位1689-1702)"が展開されたが、フランスの勝利とまではいかなかった。

 レオポルト1世の時、フランスと結んでいたオスマン帝国(1299-1922)が1529年以来のウィーン包囲を再び行うが(第2次ウィーン包囲1683)、オーストリアとポーランドの必死の抵抗でこれを脱し、オスマン勢力を退けていた。そして、1699年、カルロヴィッツ(ドナウ河畔)による講和条約(カルロヴィッツ条約)がオスマン帝国と、ロシア・ポーランド・ヴェネツィア、そしてオーストリア間で調印され、オスマン帝国はロシアにアゾフ海を割譲し、ポーランド・ヴェネツィアにも若干の領土を割譲した。そしてオーストリアにはモハーチの戦い(1526。ハンガリーがオスマン帝国に敗れた戦争)でオスマン領となっていたハンガリー中南部(北西部はすでにオーストリア領)をはじめ、トランシルヴァニア、スロヴェニア、クロアチアを割譲し、オスマン帝国は弱体の途をたどり、逆に、多くの領土を得たオーストリアは、東欧・中欧での覇権を確立し、従来のハプスブルク勢力・権力が復活した。この結果オーストリアは、ベーメン(チェック人チェコ人)、ハンガリー(マジャール人)など、11の民族から成る複合民族国家となり、国民的統一が困難ながらも、最強力国家として台頭した。

 スペイン継承戦争はフランス側の敗北が決定し、結果ユトレヒト条約1713)によって、フェリペの王位は確立したものの、フランスとスペインの合邦は禁止となり、戦勝国イギリスはスペインよりジブラルタル(イベリア半島南端)・ミノルカ島(メノルカ島。西地中海バレアレス諸島の1つ)を、フランスより新大陸植民地の一部であるハドソン湾地方ニューファンドランド(北米北東部)・アカディア(ノヴァ=スコシア。ファンディー湾岸)を得た。同じく戦勝国オーストリアは神聖ローマ皇帝カール6世(位1711-40)のもとで、フランス・ルイ14世とラシュタット条約(1714)によってスペイン領ネーデルラント(南ネーデルラント。ベルギー)・ミラノ・ナポリ・サルディーニャの領有が承認された。ルイ14世は翌1715年没し、ルイの曾孫ルイ15世が即位(最愛王。位1715-74)するが、情勢不安定で、ブルボン朝の勢威は下る一方であった。スペイン継承戦争は、ウェストファリア条約で打撃を被ったハプスブルク家の、ブルボン朝に対する強烈な"お返し"となったのである。

 カール6世は、当時カルロス2世の後継者とされていたが、長兄で、前帝のヨーゼフ1世(位1705-11)の死に伴い神聖ローマ皇帝となった。そして前述のラシュタット条約などによってオーストリアの領域はカール6世の時代に最大となった。
 1713年4月、カール6世は国事詔書として発布した「プラグマティッシェ=ザンクツィオン(王位継承法。ハプスブルク家の家憲)」を定めて領土は分割せず男子相続を宣言する。カール6世には男子レオポルト=ヨーハン(1716)がいた。ところが、ヨーハンは同年夭逝、その後1717年長女マリア=テレジア(1717-80)、次女マリア=アンナ(1718-44)、三女マリア=アマーリア(1724-30)と、女子のみが産まれ、相続先が難航した。オーストリアでは、長女マリア=テレジアを次期君主に推す声もあり、カール6世は1724年、再度国事詔書を発布した。そこでの内容は、領土永久不分割に変更はなかったが、女子相続承認を宣言した。これはマリア=テレジアを後継者にすることを意味したも同然だった。当時マリア=テレジアは7歳だった。

 一方ホーエンツォレルン家のプロイセン王国では、カール6世が相続における1回目の国事勅書を発布した1713年、フリードリヒ1世が没し、子のフリードリヒ=ヴィルヘルム1世が"プロイセンにおける王"として即位(軍隊王。位1713-40)、即位後イギリス・ハノーヴァー朝(1714-1917)を創始したイギリス国王ジョージ1世(位1714-27)の娘と結婚した。"軍隊王"の異名を持つことから、徴兵制や将校団の養成など、国庫収入の大半を投じた軍制強化は、過去に例がなく、結果20万人の軍隊が誕生している。このため、財政赤字を重税にて補う代わりに、産業の奨励、市民と農民の保護・育成を積極的に行った。また彼はカルヴァン派を信仰しており、ブルボン朝への反感は際だっていた。
 軍隊王フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の軍国主義的な絶対王政は、子のフリードリヒ2世大王。位1740-86)に引き継がれた。1740年に即位したフリードリヒ2世は、父フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の命令でハプスブルク家カール6世の姪と結婚していたが、もともと厳格な父とは折り合いが悪く、市民文化に関心を示さなかった父とは反対に、詩文・音楽をこよなく愛し、ベルリン郊外のポツダムに、"無憂宮殿"と称された繊細・優雅なロココ式の代表建築"サンスーシ宮殿"を造営(1745-47)、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778。著書『哲学書簡』)を招いて師事(1750-53)、ドイツ文化よりフランス文化を好み(ドイツ語よりフランス語が得意だったらしい)、『反マキャヴェリ論(1740)』などを著し、"サンスーシの哲学者"と呼ばれた。フリードリヒ大王は、ヴォルテールの啓蒙思想(啓蒙主義。旧弊打破の立場に立って人間的理性を尊ぶ革新的思想)の影響を受けながら、中央集権化・プロイセンの近代化を目指した。それは啓蒙絶対主義啓蒙専制主義)と呼ばれ、経済・軍事・産業を育成することにより、後進的な国家を"上からの改革"によって君主権力を強化した。フリードリヒ大王の著した『反マキャベリ論』では、"君主は国家第一の僕(しもべ。下僕)"という言葉が記されている。これは、君主も国家に奉仕する一機関ととらえていることを表すが、この下僕はすべての国政決断権を持つ"啓蒙絶対君主啓蒙専制君主)"であった。

 フリードリヒ大王は、親フランス派だったが、国王即位後これを強調し、親フランス・反ハプスブルクを前面に押し出した。またそのハプスブルク家オーストリアにおけるマリア=テレジアへの後継は、ザクセンバイエルンなどドイツ諸侯にも波紋を呼んだ。特に選帝侯として昇格していたバイエルン選帝侯(バイエルン公)であるカール=アルブレヒト(侯位1726-45)は、1724年の国事詔書(2回目)の発布を無効と異議を唱え、1713年の国事詔書(1回目)発布の尊重を主張、自身が男子相続としての王位継承を叫んだ。カール=アルブレヒトは、ヴィッテルスバハ家出身で、代々バイエルン公ではあるが、彼の妻は神聖ローマ皇帝だったヨーゼフ1世の次女であり、男子血縁者だったのである。またザクセン選帝侯フリードリヒ=アウグスト2世(侯位1733-1763)も、同様にヨーゼフ1世の長女を妻に持つため、帝位継承を主張した。

 そして遂に1740年、カール6世が没した。彼の詔書どおりに、マリア=テレジアは23歳にしてハプスブルク家の全領土を相続した。プロイセン(フリードリヒ大王)はフランス(ルイ15世)、そしてブルボン王家の息がかかったスペイン(フェリペ5世)、そしてバイエルン公(カール=アルブレヒト)と同盟を結び、オーストリア(マリア=テレジア)は、フランスと永遠の領土的対立を展開するイギリス(ジョージ2世。位1727-60)と組んだ。1740年、イギリス対フランス、ドイツ諸侯対オーストリア、フランス対オーストリア、そして、オーストリア対プロイセンの戦いの火蓋が切って落とされた。


 前作・前々作同様、長く、非常に複雑な分野でした。中世のドイツ、つまり神聖ローマ帝国はもともと統一国家には程遠く、領邦という細かな諸公国・都市・小国家の集まりだったため、独立や謀反などが常に起こる不安定な政情だったのです。

 今回はハプスブルク家のオーストリアと、ホーエンツォレルン家のプロイセンを中心に、多くのヨーロッパ諸国が干渉しておこった様々な事件をとりあげました。なかでもイギリスとフランスは長年植民地争奪戦を繰り広げる宿敵同士であり、これらも重なったことで、16世紀後半から18世紀半ばまでは大規模な戦争の渦でした。宿敵といえば、ハプスブルク家とフランス王家も激しいですね。フランスは東西にハプスブルク家(西はスペイン、東はドイツ)、北にはイギリスというように、向こう三軒両隣とは非常に仲がよろしくなかったのです。

 ドイツ領内でも東部のベーメンの内乱、北東のホーエンツォレルン家領ブランデンブルクの独立、ハプスブルク家領オーストリアの台頭、神聖ローマ帝国の解体などがおこり、同じハプスブルク家領のスペインやネーデルラントでもフランスとの争奪など、まさに息つく暇もない、激動の時代でした。その中のブランデンブルクがドイツ騎士団領と結びついてできたドイツ人の小国家プロイセンは、こうしたヨーロッパの激動をプラス志向に吸収していきながら、勢力を拡大していきます。
 ちなみにハプスブルク帝国というのは、ハプスブルク家が支配していた王国や領邦を総称して言います。神聖ローマ帝国=ハプスブルク帝国ではありませんのでお間違えないように。たとえば、プロイセン公国ができる前のブランデンブルクは選帝侯として、神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ七選帝侯の1つでしたね。でもハプスブルク家領ではなくて、ホーエンツォレルン家、古くはルクセンブルク家ですので、この地域は神聖ローマ帝国であっても、ハプスブルク帝国ではないのです。でも、やっぱりややこしいですね。実際にはハプスブルク家がオーストリア系とスペイン系に別れてから、オーストリア系を中心に合わせ持っている領土全体を、ハプスブルク帝国と呼ぶことが多いです。

 さて、今回の学習ポイントです。大きな戦争が2つ登場して参りました。三十年戦争とスペイン継承戦争です。三十年戦争は、過去の多くの宗教戦争のお話のとき(ユグノー戦争オランダ独立戦争)にこの名称を挙げましたが、ようやくメインでの登場となりました。まずはこの三十年戦争から。
 三十年戦争の年代は1618年から48年までのジャスト30年で、終戦年の48年にウェストファリア条約が結ばれます。ドイツが戦場となった宗教戦争で、中世の世界大戦ともいうべき内容でした。勃発原因はベーメンの反乱(1618)です。4期に分かれ、第1期(ベーメン戦争。1618-25)→第2期(デンマーク戦争。1625-29)→第3期(スウェーデン戦争。1630-35)→第4期(フランス-スウェーデン戦争。1635-48)となりますがここまで詳しくは覚えなくても、ベーメンが反乱して、デンマークが侵入して、スウェーデンが侵入して、スウェーデンと同盟したフランスが侵入したとだけ知っておけばよろしいです。旧教側がハプスブルク家とそれに従う諸侯国、それと同じく家領のスペイン王国です。新教側は、デンマーク、スウェーデン、オランダ、イギリスの新教国に、なぜか旧教国のフランスも入っています。この時は宗教に関係なくハプスブルク家を撃ち破りたかったのでしょう。人物としては、旧教側の名将ヴァレンシュタイン、スウェーデン国王グスタフ=アドルフ、フランス・ルイ13世宰相のリシュリュー、あとマイナーですがデンマーク王のクリスチャン4世、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世も余裕があれば知っておきましょう。リシュリューはまたブルボン朝の絶対王政のお話時に詳しくお話しする必要がありますので、またその時にでもご紹介しましょう。
 ウェストファリア条約の内容はとんでもないくらいに重要ですので完璧に覚えてください。出題頻度の高い内容です。覚えることは、①カルヴァン派の承認②アウグスブルクの宗教和議の再確認③領邦の完全主権(→つまり神聖ローマ帝国は有名無実化します)④スイスとオランダ独立の国際的承認⑤フランスはアルザス、スウェーデンは西ポンメルン、ブランデンブルクは東ポンメルンを獲得し、ハプスブルク家領が削減。
 スペイン継承戦争に至っては、先ほどのリシュリューではないですが、ブルボン朝の絶対王政の分野や、英仏植民地獲得競争の分野で登場することが多いです。まず年代は1701年開戦を知っておきましょう。そして、ルイ14世の孫フェリペ5世が即位したこと、フランスとスペインが組んで、オーストリア・オランダ・イギリス・そしてプロイセンの連合国が敵です。
 スペイン継承戦争はルイ14世の4大侵略戦争の1つで、開戦の早い順に列挙すると①南ネーデルラント継承戦争(1667)②オランダ侵略戦争(1672)③ファルツ継承戦争(1689)④スペイン継承戦争(1701)となります。基本上イギリスとの対戦となるわけで、当時の新大陸での植民地戦争も連動し、ファルツ継承戦争に連動したのはウィリアム王戦争、スペイン継承戦争に連動したのはアン女王戦争です。いずれの戦争もフランスの敗北・失敗でした。

 最後にプロイセンですが、まずブランデンブルク辺境伯領(ホーエンツォレルン家)とドイツ騎士団領がおこしたプロイセン公国が合体してブランデンブルク=プロイセンとなります。そして、スペイン継承戦争を機にプロイセン王国となります。
 プロイセン関係の君主は"フリードリヒ"や"ヴィルヘルム"といった名前が多く出てくるので混同しないようにして下さいね。ただでさえ、過去の神聖ローマ帝国にフリードリヒ○世がたくさん出てきていますので。ここでは4人の"フリードリヒ"を知っておきましょう。まず"大選帝侯"の異名を持つフリードリヒ=ヴィルヘルムは三十年戦争の時代の人で、フランスに接近して領土を拡げた人です。続いて、初のプロイセン王(実際は"プロイセンにおける王")となったフリードリヒ1世ですが、この人はスペイン継承戦争の時代の人です(当然、十字軍に登場したフリードリヒ1世とは別人で、こちらは神聖ローマ皇帝。通称"赤ヒゲ王")。そして"軍人王"の異名を持つフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、その名の通り、軍備を拡張して、王国を中央集権化した人です。彼の政策で地主貴族ユンカーが高級官僚を独占していきます。最後は啓蒙専制君主で、最も有名な"フリードリヒ"です。それが、"大王"・フリードリヒ2世です(これも神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がいますが、こちらは十字軍に入って、イェルサレム王国の国王にもなった人)。フリードリヒ2世はロココ式のサンスーシ宮殿を開いて、ヴォルテールが家庭教師したこと、"君主は国家第一の僕"という言葉を残したことなどが大事です。

 さて、次回は第2編です。フリードリヒ2世のプロイセンと、マリア=テレジアのオーストリアが中心となって戦う、激しい世界大戦が展開されます。しかも英仏植民地戦争がまたしても連動します。そして、"あり得もしなかった"事件が....続きは「Vol.79 オーストリアとプロイセン その2」でお話ししましょう。