6月20日は何に陽(ひ)が当たったか?
451年6月20日は、歴史的な異民族同士の一戦、カタラウヌムの戦いが行われた日です。
5世紀初め、ゲルマン民族一派のゴート族のうち、西ゴート族は南フランスの現在のトゥールーズにあたる地点を中心に西ゴート王国を建設し、イベリア半島までの領域を誇りました。一方、東ゴート族は4世紀後半、アジア系遊牧民であるフン族に征服され、身動きが取れない状態でいました。
フン族は433年に西ローマ帝国(395-476)の皇帝より、ドナウ中流のパンノニアの割譲を受けてこの地を拠点としましたが、434年にアッティラ(406?-453。位434-453)がフン王として即位すると、441年に東ローマ帝国(395-1453)の領域であるバルカン方面で東ローマ軍と戦ってこれを撃退させ、東ローマ皇帝に対して、賠償金と貢納金を得ることに成功しました。
東ローマ帝国がフン族の侵略に苦悩する一方、西ローマ帝国においても同様、ゲルマン一派のヴァンダル人が建設した北アフリカのヴァンダル王国(439-534)からの侵略に悩まされました。もともとヴァンダル人は439年、カルタゴを中心とするローマ領北アフリカを征服し建国したゲルマン国家です。
当時西ローマ帝国は、皇帝ウァレンティニアヌス3世(帝位424-455)の治世でしたが衰亡著しく、ゲルマン一派のアングロ=サクソン等によってブリタニアを奪われ、前述のヴァンダルに至ってはシチリア島までも略奪され、果ては、ヴァンダルと同盟を結んだフン王アッティラによってガリア地方(現在のフランス辺り)まで侵攻されるなどして、領土はいっきに縮小の傾向をたどりました。アッティラはここで西ローマに接触するのでした。
この時、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が実姉であるユスタ・グラタ・ホノリア
(417?/418?-455)に要求した、好きでもない相手との強制結婚を、姉ホノリアが反対して(諸説あり)、アッティラに助けを求める行為を行ったとされます。真実は定かではありませんが、これはホノリアが強制結婚を免れようとし、結婚相手をアッティラに求めたという伝説を生みました。しかしこうした西ローマ帝国の内紛は、アッティラにとって西ローマを滅ぼす絶好の機会となりました。
西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世は強力な西ローマ軍司令官のアエティウス(391?-454)にフン族追討を命じました。451年、アエティウス将軍は西ゴート王国軍を中心に、ゲルマン一派のフランク軍やブルグント軍らも編入した連合軍を結成、東ゴート軍を従えたフン軍と、ガリアで交戦することとなりました。
陽の当たった451年6月20日、両軍あわせて5万という軍勢で行われたこの大戦争はカタラウヌム平原(シャンパーニュ地方。現在北フランスのシャロン=アン=シャンパーニュ)で決戦が行われました。西ローマ帝国、多くのゲルマン民族、そしてアジア系の遊牧民族が衝突する歴史的一大決戦でとなりました。これがカタラウヌムの戦いです。
この決戦では、ガリアを熟知したアエティウス将軍の率いる西ローマ帝国と西ゴート王国の連合軍が勝利をもたらしました。しかし親征した西ゴート王が戦死し、ゲルマン人傭兵に頼らなければならないほどの軍の弱体化が進む西ローマにおいても大きなダメージを受け、フン族を討ち滅ぼすまでには至らなかったことで、完勝というわけではありませんでした。この結果フン族がガリア地方から撤退していきますが、そのガリア地方ではフランク族やブルグンド族といったゲルマン諸族が手を染めるようになっていき、5世紀半ばの西ローマ帝国領内では、西ゴート、ヴァンダル、ブルグンドによって形成されたゲルマン諸国家の割拠が進むようになっていきました。
一方フン族のアッティラはその後も何度か西ローマ遠征を企て、拠点であるパンノニアに戻りますが、453年自身の結婚披露宴の最中に倒れ、そのまま没しました。以後フン族は勢力が急激に縮小化し、ヨーロッパにおけるフン族の活動はみられなくなりました。
引用文献:『世界史の目・第225話 光輝と知恵・その3 古代の終末』
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