7月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

1415年7月6日は、ボヘミア(ベーメン)のプラハ大学学長、ヤン・フス(Jan Hus。1369?-1415)が火刑に処された日です。
ボヘミアのプラハ(現・チェコの首都)は、プラハ大司教が治める大司教区であり、神聖ローマ皇帝、カール4世(帝位1346-78)がプラハ大学(プラハ・カレル大学の前身)を創設すると、プラハ大司教やカトリック高位聖職者は、皇帝権を笠に着て、大学内でも勢力を誇りました。プラハ大司教はもともとドイツのマインツ 大司教座の配下でしたが、皇帝のはからいでプラハ大司教として独立した経緯をもちました。
プラハ南郊に誕生したヤン・フスは貧農の出でした、プラハ大学に入り、勉学を積んで1396年には修士号を取得し、1402年にはプラハ大学学長に昇りつめました。この頃、イギリスの聖職者で、オックスフォード大学教授をつとめていたジョン・ウィクリフ(1320?-84)の聖書英訳を中心とするローマ・カトリック教会への批判文がプラハにも伝播しました。ウィクリフはこの時既に物故者となっておりましたが、ローマ・カトリック教会を信奉するプラハ大学では同様にウィクリフの学説を真っ向から批判しました。しかし、学長のフスはむしろ共鳴して、ウィクリフが唱えたカトリックの現実を肯定的にとらえました。フスは、ローマ教会は純粋なカトリックの教えを伝授し、崇められてこの地位にいるのではなく、世俗的な権力で成り立っているとうったえたのです。フスは、ローマ・カトリック教会に支えられ、ウィクリフの学説を批判している大学内のドイツ人聖職者やドイツ人教授、ドイツ人学生、ドイツ人技術者を大学から追放し、純然たるチェコ人(チェック人。ボヘミアの西スラヴ系民族)の大学となりました。一方、追放されたドイツ人はザクセンでライプツィヒ大学を創設しました。
フスが行ったこの改革でプラハ大司教は孤立してしまいました。このため、1411年ローマ教皇はフスおよびその支持者に対してウィクリフへの信奉およびプラハでの伝道をそれぞれ禁止させる命令を下し、フスの説法も禁じましたが、1412年にフスはウィクリフ派を擁護する論文を発表、支持するフス派がたちまちボヘミアからヨーロッパ全土へと広がっていきました。
1414年11月、ローマ・カトリック教会はフスをコンスタンツ公会議に召喚しました。この会議は神聖ローマ皇帝であるジギスムント帝(帝位1410-37)が召集したカトリック公会議です。フスはこの場でも屈せずに自身の学説を主張しました。このためフスは幽閉され、その後も公判で自説の撤回を迫られるも、頑なに拒否しました。これにより、1415年7月6日、フスは有罪を言い渡され、火刑を宣告されました。フスは異端者の象徴である悪魔の帽子をかぶせられ、杭にかけられて炎の中に消えていきました。その遺灰はライン川に投げ込まれました。
4年後、フスを支持するフス派が武装蜂起するフス戦争が勃発し、1436年まで続きました。

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