7月17日は何に陽(ひ)が当たったか?
1917年7月17日(グレゴリオ暦)は、退位したロシア皇帝、ニコライ2世(1894-1917)とその家族が処刑された日です。当時ロシアはユリウス暦が使われており、ユリウス暦では7月4日です。本編では革命勃発の暦に合わせ、ユリウス暦で述べさせていただきます。
1917年2月23日、ペトログラード(現、サンクトペテルブルク)にてロシア革命(二月革命)が勃発しました。食糧危機の不安によって、大規模な労働者ストライキが激化し、労働者や兵士はソヴィエト(労兵会)を大々的に結成して抵抗、革命支持派に退位を迫られたニコライ2世は3月2日これを受託し、代々ツァーリ(ロシア皇帝)を輩出したロマノフ家は、皇族の地位を奪われました。
ニコライ2世には、政局に加わっていた妻アレクサンドラ皇后(1872-1918)との間に、第一皇女オリガ(1895-1918)、第二皇女タチアナ(1897-1918)、第三皇女マリア(1899-1918)、第四皇女アナスタシア(1901-18)の四女と、兄弟の中では末子で、長男のアレクセイ皇太子(1904-18)の一男の7人家族でした(写真は1913年のもの、真ん中にアレクサンドラ皇后とニコライ2世を囲むように、左から時計回りに、マリア、オリガ、タチアナ、アナスタシア、アレクセイの順。wikipediaより)。
1918年5月、ニコライ2世の一家は全員、エカテリンブルクのイパチェフ館(画像はこちら)に送り込まれました。イパチェフ館は地下室付きの二階建ての大きな館で、商人イパチェフの館を接収したもので、ロシア共産党は”特別目的の館”と改称しました。しかし、ここに7人の一家のほかに、主に血友病を患うアレクセイを診察する一家の主治医エフゲニー・ボトキン(1865-1918)、アレクサンドラ皇后のメイドであるアンナ・デミドヴァ(1878-1918)、フットマン(召使)のアレクセイ・トルップ(1856-1918)、一家の料理人イヴァン・ハリトーノフ(1870-1918)ら、他には彼らを警備する兵士も同居したため、かなり窮屈な生活となりました。窓ガラスも石灰で塗られ、館の周囲には高い柵が張り巡らされ、食事も皇族と従者分け隔てなく順番に共用しなければなりませんでした。アレクセイは持病が悪化して寝たきりになりがちでした。彼らは、反革命を取り締まる警察(チェカ。KGBの前身)に関わっていたヤコフ・ユロフスキー(1878-1938)が率いる警備隊によって監視されました。
1917年7月4日(グレゴリオ暦7月17日)未明、すでに一家は就寝していましたが、ユロフスキーが2階にある主治医エフゲニー・ボトキンの部屋に入ってきました。”反革命軍がこの館に迫ってきたため、今すぐ一家と従者たちを連れて、地下室へ移動しなさい”と命じられ、全員は起こされて地下室2階へ移動しました。
一家たちを待っている地下室にユロフスキーとその部隊が入ってきました。ユロフスキーは、ソビエト政府に発せられた命令を読み上げました。それは処刑の宣告で、部隊は銃殺部隊でした。地下室に移された一家と従者たちは驚愕も束の間、銃殺部隊によって一斉銃撃を受け、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后、そしてオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイら子どもたち、そして主治医エフゲニー・ボトキン、メイドのアンナ・デミドヴァ、フットマンのアレクセイ・トルップ、料理人イヴァン・ハリトーノフら、ニコライの従者たちは、銃殺部隊より発射されたおびただしい量の銃弾を浴び、全員非業の死を遂げました。銃撃で致命傷を免れたとしても、銃剣で何度も刺されたり、銃床で殴られたりして殺害されました(処刑の現場となった、地下の一室の画像はこちら。※閲覧注意)。
これにより、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の血統は断絶しました。
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