7月31日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1658年7月31日は、北インドのイスラーム王朝、ムガル帝国(1526-1858)において、第6代皇帝(パーディシャー)として、アウラングゼーブ(1618-1707)が即位、戴冠した日です(帝位1658-1707)。
 先代シャー・ジャハーン(帝位1628-58)の治世では、デカン遠征、国境紛争、そして中央アジア遠征と軍費を費やすものの、多くは失敗し、国家財政が危ぶまれましたが、灌漑事業などをおこして内政面で功績を挙げ、軍費の負担を和らげるなど努力しました。また文化の保護を行ってムガル文化は最盛期を迎える一方、イスラーム第一主義をしいてヒンドゥー寺院を破壊し、ヒンドゥー教徒との結婚禁止などの徹底したイスラム政策を行ったため、異教徒からは嫌われました。
 シャー・ジャハン帝は、1631年には愛妃ムムターズ・マハル(1595?~1631)を産褥熱で亡くし、アグラ郊外のジャムナー河畔に、彼女の墓廟の造営が開始され、1653年に完成させました。これがタージ・マハル廟です(画像がこちらwikipediaより)。
 シャー・ジャハン治世の末年は4人の子が帝位継承で争い、結果第3子のアウラングゼーブが、病気に倒れた父帝をアグラ城に幽閉して帝位を継ぎました。シャー=ジャハーンは、幽閉以後、城内の一室の小窓から遠望される愛妃の廟を日々眺めながら、寂しく死んだといわれております。
 アウラングゼーブ帝は厳格なスンナ派信者であり、先代のシャー・ジャハン帝以上に異教徒への弾圧を強行し、シーア派とヒンドゥー教徒には寺院破壊を徹底、1679年、シーア派とヒンドゥー教徒にジズヤ(人頭税)を復活させました。1681年からは大規模なデカン遠征を行い、治世の大半はこれに費やし、1689年頃にはムガル帝国の領域は最大となりました。
 デカン地方には戦闘的なマラーター族がおり、指導者シヴァージー(1627-80)はアウラングゼーブ軍と徹底抗戦を繰り返し、1674年にはシヴァージーを君主(位1674-80)とするマラーター王国(?-1818)も建設、アウラングゼーブ軍と対峙しました。18世紀初め以降、マラーター王国宰相が諸侯を集めて実権を掌握、マラーター同盟(1708~1818)を結成、ムガル帝国に抵抗を続けました。一方パンジャーブ地方には、16C初頭にナーナク(1469~1538)が開いたシク教の信者が、アウラングゼーブ帝の圧政に対して、教団の武装化を進めて軍事的結合力を強化し、やがて反乱を起こしました。
 アウラングゼーブの改革は、領土最大化を実現させたものの、遠征費の増大化などによる財政危機が起こり、帝国の衰退が始まるきっかけを作りました。治世の末年には皇帝の権威も失い、晩年は首都デリーの安定をはかるため、帝はデリーを離れ、アフマドナガルで没しました。アウラングゼーブ帝没後、ムガル帝国は衰退の途をたどっていくことになります。
引用文献:『世界史の目 第22話 ムガル帝国の興亡

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