8月1日は何に陽(ひ)が当たったか?

 527年8月1日は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)のユスティニアヌス帝(483-565)が即位した日です(ユスティニアヌス1世。帝位527-565)。
 ローマ帝国(紀元前27-紀元後395)では、395年に東西分裂をおこしました。東のローマは歴史学上での呼称は”ビザンツ帝国”と呼ばれ、首都はコンスタンティノープル(現イスタンブール)です。
 518年、東ローマ帝国ではユスティニアヌス朝が始まりました(518-602)。同王朝初代皇帝ユスティヌス1世(帝位518-527)は即位時には老年に達していたため、博識で聡明な甥のユスティニアヌスを次期後継者にするため、彼を養子として養育しました。ユスティヌス1世の晩期にはユスティニアヌスを執政官に任じて統治させるなど、彼を前面に出させて統治させていきました。ユスティヌス1世はユスティニアヌスに大きな期待をかけており、525年にユスティニアヌスが20歳年下の貧しいサーカスの踊り子だったテオドラ(500?-548)と階級の垣根を越えて結婚できたのも、養父ユスティヌスが結婚を認める法律を定めたからでした。
 陽の当たった527年8月1日、第2代皇帝としてユスティニアヌスがユスティニアヌス1世として即位した(大帝。即位時はユスティヌスと共同統治。ユスティヌス没後に単独統治)。”大帝“という名にふさわしく、ユスティニアヌス帝は王朝名”ユスティニアヌス朝”としてもその名を残しました。翌528年、ユスティニアヌス帝は法務長官トリボニアヌス(?-543/545)に命じて、『ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)』の編纂を行いました。これは古代ローマ法の集大成として、古来の法律の散逸を免れ、後世の法律の模範となるなど、中世ヨーロッパに多大な影響を与えました。
 ユスティニアヌス帝の活動は非常に精力的で、”不眠不休の皇帝“と渾名されるほどでありました。開墾・植民を歓迎し、人口増加につなげ、また養蚕業を導入して絹の専売を行いました。貿易も地中海と黒海を中心に積極的に行い、コンスタンティノープルは瞬く間に商業中心地として発展しました。
 また帝に仕えた将軍ベリサリウス(505?-565)、忠臣ナルセス(487?-573?)も多くの功績を残し、534年に北アフリカのヴァンダル王国(439-534。ヴァンダル族)、555年(553年?)にイタリア半島の東ゴート王国(493-555。東ゴート族)といったゲルマン国家を征服し、イベリア半島では、同じくゲルマン一派西ゴート族の西ゴート王国から同半島東南部を奪取しました。また東方ではササン朝ペルシア(サーサーン朝ペルシア。226-551)との和睦(532)で地中海の制海権を確保したことで、東ローマ帝国は地中海を取り囲んだ帝国として、ローマ分裂前に近い領域にまで拡大することになりました。
 このようにユスティニアヌス帝は即位後は積極的に外征を行いましたが、こうした度重なる遠征は国民に対して重税として跳ね返っていきます。即位5年目の532年、ユスティニアヌス朝による最初の危機が訪れ、開催されている戦闘用馬車、チャリオットの競技が思わぬ展開へと向かいました。日頃の重税に不満をつのらせた市民が、競技への過熱から暴徒化、競技場に隣接した宮殿を襲撃しました。この時、襲撃に参加した市民が、”ニカ“の掛け声を連呼しながらの反乱をおこしたのです(”ニカ”とはギリシア語で”勝て!”の意味)。この口々に叫ばれた掛け声から、”ニカの乱“と呼ばれ、首都コンスタンティノープルは大混乱に陥り、ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア大聖堂。コンスタンティヌス朝の360年創建)も焼失、帝室は機能停止寸前の状態にまで追い込まれました。ユスティニアヌス帝は退位と首都脱出を企て、逃亡用の舟に逃げ込もうとしたが、これを引き留めたのが皇后テオドラでした。
 テオドラは帝に対し”帝衣は最高の死装束“の言葉を投げかけ、逃げて生き延びるより、紫の帝衣を着たまま死んでこそ皇帝であるとして帝を励ましました。これで勇気を取り戻したユスティニアヌス帝はただちにベリサリウス将軍に命じ、反乱鎮圧に成功できたといわれます。
 反乱鎮圧後、ユスティニアヌス帝はすぐさまハギア・ソフィア大聖堂の修築を行いました。円屋根のドームとモザイク壁画が特徴的な、ビザンツ様式の代表です(画像はこちらwikipediaより)。同じくビザンツ様式建築のサン・ヴィターレ大聖堂(東ゴート王国の首都だったラヴェンナに建築。画像はこちら)では、ユスティニアヌス帝と皇后テオドラの印象的なモザイク壁画が描かれています(画像はこちらこちら)。
 ユスティニアヌス1世の治世晩期にはヨーロッパ初の黒死病(ペスト)が流行しており(540年代前半)、人口が激減して産業・経済・行政の各機能が上手くいかなくなりました。ユスティニアヌス帝は”皇帝教皇主義”の立場で宗教政策も施し、東方教会を支配したが、単性論派(キリストは人であり神である正統とされた両性論派に対して、キリストは神のみであるという異端とされたキリスト教)の反抗も活発化しました。
 ユスティニアヌス帝は565年に崩御し、甥のユスティヌス2世が即位しましたが(帝位565-578)、大帝の死は予想以上に大きな痛手となり、北イタリアはゲルマン一派のランゴバルド族に奪われ、バルカン方面ではスラヴ人やアヴァール人、ブルガール人らが侵入、また勢力を盛り返したササン朝との対戦も敗れる結末となりました。結局ユスティニアヌス朝は国力が衰退して602年に血統が断絶、王家はヘラクレイオス朝(610-695,705-711)に取って代わられました。
引用文献:『世界史の目 第198話

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