8月8日は何に陽(ひ)が当たったか?

870年8月8日は、ヨーロッパでメルセン条約が結ばれ、現在のフランスドイツイタリアの基礎が誕生した日です。
481年にクローヴィス1世(王位481-511)創始のメロヴィング朝(481-751)より始まったフランク王国(481-887)では、751年からはカロリング家がフランク王を継承、カロリング朝(751-987)を興し、フランク王国の黄金期を現出しました。
とりわけカール大帝(カール1世。王位768-814)の時代には、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)に対抗して西ローマ帝国(395-476)の復興を狙うローマ教皇との関係がより密接となり、いわゆる”カールの戴冠(800)”によってカール大帝はローマ皇帝となり(帝位800-814)、フランク王国は帝政を合わせ持つ強力な国家となりました。
しかしそのカール大帝は814年1月に没し、フランク王国の分割相続の慣習により、3人の嫡男に領土を3分割して相続することになりました。しかしそのうち2人はカールが死去するまでに亡くなり、結局ただ1人残った嫡男であるルートヴィヒ(ルイ。778-840)がカロリング家を継承し、敬虔王ルートヴィヒ1世(王位814-840。帝位814-840)としてカロリング朝を維持しました。
ルートヴィヒ1世は最初の妃との間にロタール(795-855)、ピピン(797-838)、ルートヴィヒ(804-876)という3人の男児を残しました。817年、ルートヴィヒ1世は、領土3分割の法令を下して3人の子どもたちに領土を生前に分割相続し、ピピンにはフランス南西部のアキテーヌ方面を、ルートヴィヒにはバイエルン方面を、そして長男ロタールには残りのイタリアを含む広範囲をそれぞれ生前相続しました。イタリア地方を任されたロタールは父ルートヴィヒ1世と共同統治者としてローマ皇帝ロタール1世として即位し(帝位817-855)、ピピンとルートヴィヒを副帝とし、次の世代も万全と思われました。
しかし妃が818年に没し、翌年新たな妃と結婚したルートヴィヒ1世は、2人の間に子シャルル(823-877)をもうけました。ルートヴィヒ1世は先に生まれた3子よりもこのシャルルを溺愛したため、先の領土3分割の法令を改正し、シャルルにも領土を分け与えようとしましたが、ロタール1世、ピピン、ルートヴィヒら3兄弟は自身の領土が削られることを嫌がり、父ルートヴィヒ1世に盾突いて反乱を起こしました。その後にピピンが亡くなり(838)、2年後の840年に父ルートヴィヒ1世も領土継承を解決できないまま亡くなってしまい、残されたロタール1世ルートヴィヒシャルルの異母兄弟に領土をめぐって新たな対立が生まれました。
ロタール1世はフランク王国における分割相続の慣習を捨て、全領土を相続しようと考えたのです。弟ルートヴィヒはこれに反対し、これまで対立していた異母弟のシャルルと同盟を結び(842)、2人はロタール1世を敵として大規模な内戦を引き起こしました。結果はルートヴィヒシャルルが勝利し、フランク王国の本格的な領土分割が話し合われました。
843年8月10日、協議はフランス北東部のヴェルダンにて行われました。まず長男ロタール1世はロレーヌ地域以北(ロタリンギア)、プロヴァンス地方、ブルゴーニュ地方など現在のフランス東部・ドイツ西部の区域、そしてイタリア北部の領土を継承し、ローマ皇帝の帝位を分与されました。ロタール1世の名をとり、獲得したロタリンギアという名はのちにドイツ語のロートリンゲンやフランス語のロレーヌの名で残されました。ロタール1世の王国は中部フランク王国(843-855)として、初代中部フランク王ロタール1世の統治で始まりました(中部フランク王位843-855)。
続く2番目の弟ルートヴィヒについては、ほぼライン川以東のフランク王国東部を獲得して東フランク王国(843-962)をつくり、初代東フランク王ルートヴィヒ2世(東フランク王位843-876)となりました。
そして、異母弟のシャルルについては、ガリア地方を中心とするフランク王国西部を獲得して西フランク王国(843-987)となり、初代西フランク王シャルル2世(西フランク王位843-877)となりました。これら843年のヴェルダン条約によって、カロリング家は分裂、3つのフランク王国にそれぞれカロリング朝が鼎立する形で決着することになりました。
ヴェルダン条約締結後、しばらくは安定していましたが、855年に中部フランク国王のロタール1世が没しました。ロタール1世は生前に3人の子どもたちに分割相続することを決めており、長男ロドヴィコ(822?-875)にはローマ皇帝位およびイタリアが、次男ロタール(826?-869)にはロタリンギアが、三男シャルル(845?-863)にはプロヴァンス方面がそれぞれ分与されました。これは結果的に中部フランク王国の消滅を意味しました。
イタリアおよびローマ皇帝位を継いだ長男ロドヴィコイタリア王およびローマ皇帝ロドヴィコ2世(王位・帝位855-875)としてイタリア王国(855-875)を、ロタリンギアを継いだ次男ロタールはロタリンギア王ロタール2世(王位855-869)としてロタリンギア王国(855-870)を、プロヴァンスを継いだ末子シャルルはプロヴァンス王シャルル(王位855-863)としてプロヴァンス王国(855-870)を、それぞれ統治することになりました。
この結果、フランク王国から端を発した分国は、東フランク王国(ルートヴィヒ2世)、西フランク王国(シャルル2世)の2国に、中部フランク分裂後のイタリア王国(ロドヴィコ2世)、ロタリンギア王国(ロタール2世)、プロヴァンス王国(シャルル王)の3国が加わり、合計で5国となりました。
そして860年代にも大きな波乱が訪れました。863年にプロヴァンス王シャルル王、869年にロタリンギア王国のロタール2世が相次いで王位継承者を残さぬまま没してしまったのです。
ここで、東フランク王国のルートヴィヒ2世西フランク王国のシャルル2世は、バラバラになった中部フランク王国の再分割を協議することになりました。まずプロヴァンス王国については、直後にロドヴィコ2世がいったんプロヴァンス王位を引継ぎました(王位863-870)。ロタリンギア王国については、西フランクのシャルル2世がロタリンギア王位を受け継ぎました(ロタリンギア王位869-877)。
そして870年、ロドヴィコ2世は引き続きイタリアとローマ皇帝の位に専念するため、プロヴァンスを西フランク・シャルル2世に譲りわたしました。プロヴァンス王国を受け継いだ西フランク王シャルル2世はプロヴァンス王としても即位しました(王位870-877)。この結果、ルートヴィヒ2世の東フランク王国と合わせると、フランク王家は再び3国にまとまりました。こうしてヴェルダン条約後の領土再分割は、陽の当たった870年8月8日、現オランダのメルセンで取り交わされたメルセン条約で最終的に決着しました。
ルートヴィヒ2世の東フランク王国シャルル2世の西フランク王国、そしてロドヴィコ2世のイタリア王国の形成が整い、東フランク王国はドイツ西フランク王国はフランス、そしてイタリア王国はイタリアと、その後のヨーロッパの歴史を彩っていく三大国家の基礎がつくられたのでした。
引用文献『世界史の目 216話

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