8月29日は何に陽(ひ)が当たったか?

1526年8月29日は、オスマン帝国(1299-1922)がハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)を”モハーチの戦い“に勝利した日です。ハンガリーの征服に挑む重要な戦いでしたが、戦争には勝ちましたが、思わぬ展開が待ち受けていたのです。
オスマン帝国では1520年、スレイマン1世(帝位1520-66。大帝)が第10代オスマン皇帝に即位しました。即位時彼は26歳であり、その美貌で秀麗な姿は過去の皇帝とは引けを取らないほどでした。
スレイマン1世は1521年、25万の兵力でハンガリー王国からベオグラードを獲得して、ヨーロッパ遠征の滑り出しに成功し、1526年、さらに北進してハンガリーへ侵攻を開始しました。陽の当たった8月29日、戦いの勃発です。
5万(~20万)の兵力と200(~300)門の大砲を引き連れたスレイマンの軍隊はハンガリー軍と対峙しました。ハンガリー軍の兵力は3万ほどでしたが、のちにベーメン王国(ボヘミア王国。1197-1918)の軍やハプスブルク家の援軍が駆けつける予定でした。しかし当時18歳で親征したハンガリー王ラヨシュ2世(位1516-26)は、援軍を待たずして開戦したのです。騎士層を中心に構成されたハンガリー軍はたちまちオスマン軍の誘導戦術と、強力な大砲に倒れていき、ハンガリー軍を潰滅させることになりました。これがモハーチの戦いです。
モハーチの戦いに敗れたハンガリー王国は、オスマン帝国によって、領土の大部分を占領されましたが、オスマン帝国にとって、この戦における最大の誤算はラヨシュ2世をドナウ川中流右岸のモハーチで戦死させたことでした。ラヨシュ2世が亡くなったことで、次期ハンガリー王の後継者が選定されることになり、ラヨシュの妃マリア(1505-1558)の血筋から選ばれることとなったのです。マリアはオーストリア大公国(1457-1804)を拠点とするハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公。公位1482-1506。フィリップ・ル・ボー)とイベリアのカスティリャ王国(1035-1715)女王ファナ(1479-1555)の娘であり、神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝カール5世(帝位1519-1566。スペイン王カルロス1世。王位1516-56)と、その弟でオーストリア大公、のち次の神聖ローマ皇帝となるフェルディナント(大公位1521-64。帝位1556-64)の妹でした。フェルディナントはラヨシュ2世の姉と結婚していたため、次期ハンガリー王として推戴された場合、政略結婚で領土を拡大していったハプスブルク家が、国家規模に発展する、いわゆるハプスブルク君主国(ハプスブルク帝国。1526-1806)の形成を意味しました。
結果、フェルディナントは兄である神聖ローマ皇帝カール5世の後ろ盾で議会を招集し、ハンガリー王フェルディナーンド1世(位1526-64)として即位したのです(同時にベーメン王にも即位。位1526-64)。ハプスブルク家はハンガリーとベーメンを領有した大家として、ヨーロッパに君臨することになるのです。つまり、ラヨシュ2世の死は、ハプスブルク家を台頭させる要因にもなったのでした。
とは言っても、ハンガリー王国を支配したのはモハーチの戦いに戦勝したオスマン帝国です。スレイマン1世はハンガリーの首都ブダ(現ハンガリー首都ブダペストのうち、ドナウ西岸エリアにブダおよびオーブダの2都市、右岸エリアに都市ペストがあり、1873年これら3都市が合併してブダペストとなる)にオスマン軍を駐屯させました。このためハンガリー王国は、首都をブダからブラチスラヴァ(現スロヴァキアの首都。ハンガリーでは”ポジョニ”と呼ばれた)に遷しました。ハンガリーの貴族達は、神聖ローマ皇帝権の力で議会を招集し、ハンガリー王位を継承したハプスブルク家の介入に異議を唱え、貴族達の頭目的存在でした、トランシルヴァニア(カルパティア山脈に囲まれたルーマニア北西部)を拠点とする貴族サポヤイ家のヤーノシュ1世(1487-1540)をフェルディナントの対立ハンガリー王として即位させました(王位1526-40)。ハンガリー貴族の大部分はヤーノシュ1世を支持し、ハンガリーを構成するマジャール人の民族意識を前面に押し出してハプスブルク王家のハンガリーでの君臨を批判しました。
オスマン皇帝スレイマン1世は、反ハプスブルクを掲げるヤーノシュ1世を支持し、ハプスブルク家のフェルディナントと真っ向から対立し、ハンガリーでのこの緊張状態はしばらく続きました。オスマン家がハプスブルク家と初めて向かい合った瞬間でした。ヤーノシュ1世の要請に応じてスレイマン1世はハンガリーを実効支配しようとするハプスブルク家を倒すため、彼らの一大拠点をに向けて軍備を急ぎました。
こうしてハプスブルク家と対立したオスマン帝国は、ついに神聖ローマ帝国に侵攻することになりました。スレイマン1世の次なる敵は神聖ローマ皇帝カール5世です。神聖ローマ皇帝を輩出するハプスブルク家の大拠点であるオーストリア大公国の首都、ウィーンへの攻撃、世に言う、ウィーン包囲です(第一次ウィーン包囲。1529.9-29.10)。
ウィーンを包囲したスレイマン1世はただちに攻撃を始めましたが、オーストリア軍は兵力の差から攻撃面よりも防衛面に重視し、堡塁や土塁で防衛線を固めてオスマン軍の砲撃から死守しました。このため、攻城が予想外に手間取り、しかも悪天候で輸送困難な行路であったためすべての大砲が揃わないアクシデントもありました。しかも、包囲をはじめた時期は10月で、冬の到来の早いウィーンでの攻防戦となると、防寒対策に予断を許したオスマン帝国軍はいくら兵力が多くても長くは続かなかったのです。スレイマン1世は10月半ば過ぎにウィーンからの全軍撤退をはじめました。
オスマン帝国はウィーン包囲でその勢力をヨーロッパ諸国に見せつけたものの、ウィーンを陥落させることはできませんでした。これにより、残っていたハンガリー問題においても大きな影響が出ました。ハンガリーではじめてハプスブルク家と向かい合ったオスマン帝国でしたが、1540年にオスマン帝国と、反ハプスブルク派のハンガリー貴族に支持されたヤーノシュ1世が亡くなりました。その結果、ハンガリー王国の北部および西部はハプスブルク家の領土(ハプスブルク家領ハンガリー。1526-1867)となり、ハンガリーの王位はハプスブルク家が支配することをオスマン帝国もしぶしぶ承認、ハプスブルク家領ハンガリーは王領となってしまいました。再確認しますが、ハンガリーをモハーチの戦いで征服したのはオスマン帝国です。結局オスマン帝国は、ハンガリー中央部と南部が支配地となり(オスマン帝国領ハンガリー。1541-1699)、残った東部のトランシルヴァニアはオスマン帝国に臣従的なサポヤイ家の領土(サポヤイ家領ハンガリー。東ハンガリー王国。1526?/1529?-70)という領土分割となってしまいました。しかし戦争に負けたハンガリー王国としては、3分割された領土が大幅にオスマン帝国によって支配され、ハンガリーの王位はハプスブルク家に奪われる形となり。民族的価値が失われてしまいました。
オスマン帝国側側にしてみれば、モハーチの戦いでハンガリーを打ち負かしたものの、ハンガリー全土がオスマン帝国領とはならず、ウィーン包囲も失敗に終わりました。一方、西ヨーロッパ世界側にしてみれば、ハンガリーの国土大半を奪われ、ウィーンが1ヵ月近く包囲されたことは、ビザンツ帝国(395-1453)の滅亡(1453)以来の大きな衝撃であったのです。スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍の際だった強さは、西方世界にとっては非常に大きな脅威であったことは間違いありません。
引用文献『世界史の目 第266話』より

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