8月30日は何に陽(ひ)が当たったか?
526年8月30日は、ゲルマン一派の東ゴート族の王、テオドリック(454-526。王位474?/475?-526)が没した日です。
テオドリックは少年時代、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)に人質として預けられ、帝都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)で過ごしました。父ティウディミール王(王位470-475)の即位にともない、人質から解放されたテオドリックは、474年(あるいは父王が死去した475年か?)に東ゴート族の王を名乗り、勢力を継続しましたが、ここでは王国建設には至りませんでした。このため東ローマ帝国から総督を任命してもらうために、テオドリックは当時の東ローマ皇帝ゼノン(帝位474-475,476-491)に接近して、483年に東ローマ帝国の武官を命じられました。これによって東ゴート族は東ローマ帝国の勢力下に置かれることになりました。
東ローマ帝国のゼノン帝は、西ローマ帝国(395-476)を滅ぼした東ゲルマン系のオドアケル(433?-493。西ローマ帝国では傭兵隊長)の動向が気がかりでした。オドアケルは西ローマ皇帝位を東のゼノン帝に返上し、ゼノン帝はローマ統一皇帝として旧西ローマ帝国勢力圏の統治権を握っていました。オドアケル自身はゼノン帝に認められイタリア半島でイタリア王オドアケル(位476-493)として旧西ローマ帝国勢力圏の統治を任されて、ほぼ西ローマ帝国時代と同様の統治体制をとっていました。予想通り、オドアケルは東ローマ帝国の内政に干渉してきました。ゼノン帝の不安が的中したのです。488(484?/489?)年、ついにゼノン帝は東ゴート族のテオドリックをコンスル(統領。ローマの執政官)に任命してオドアケル勢力の掃討を命じたのです。テオドリック率いる東ゴート族にしてみれば、遅咲きながらの王国建設を、かつての西ローマ帝国領内で果たすことができるかもしれない、絶好の機会だったのです。テオドリックの軍勢は疲れも見せず大いに張り切って、イタリアに出動しました。
これを受けたイタリアのオドアケル軍も各地で出動、489年、現在のイタリア・スロヴェニア間に流れるイゾンツォ川で大激戦を交わしました。結果、テオドリックの軍勢がイゾンツォ流域での激戦に勝利し、オドアケル軍は撤退しました。その後もテオドリックは攻撃の手を緩めることなく、ヴェローナ、ミラノといった都市を次々と占領していきました。ただヴェローナでの一戦はオドアケル軍の将軍の罠にはめられそうになり、一時的ではあるが危険にさらされ退却を考えた時期もありました。弱気になったテオドリックに対し、母親エリヴィラ(440?-500?)や妹アマラフリダ(460?-525?)ら姉妹たちは、家族をはじめとするゴートの女性たちがオドアケル側の戦利品になってしまっていいのかと強く諫めたことで、これを耐え忍んだとされています。
その後の劣勢にも徹底抗戦したテオドリックの軍は、同じゲルマン一派の西ゴート王国(415/418-711)らの援軍やヴァンダル族のシチリア島割譲もあって優勢に転じました。各地での戦闘で苦戦を強いられたオドアケルの軍勢は、ついに首都ラヴェンナ(西ローマ帝国時代からの首都。402年にミラノから遷都)の要塞に限定されていったのに対し、テオドリック率いる東ゴートの軍は徐々にイタリア全土を制圧、ついに首都ラヴェンナを包囲しました。オドアケルはラヴェンナの要塞に籠城、3年近い包囲戦を展開しました。決着をつけるべく、テオドリックはラヴェンナ攻略に向けて、ある作戦を打ち出しました。
それはラヴェンナの司教を仲介に、和平交渉をオドアケル側に提案するという策略でした。しかもオドアケルは命が保障され、イタリア王の座を明け渡して幽閉されることなく、テオドリックと共同統治するというオドアケル側にしてみれば有利な講和内容でした(諸説あり)。
講和を受けたオドアケルは、その後毎日のように家族や家臣らと宴会を開き、テオドリックもその間何度もオドアケルと会見したとされています。ある日の宴会の最中、その中へテオドリックが奇襲をかけ、オドアケルおよび家族・家臣らを剣で貫いて殺害しました(493)。オドアケル暗殺の直後、テオドリックはイタリア王に即位しました(位493-526)。
この間、東ローマ帝国はテオドリックにオドアケル討伐を命じた東ローマ帝国のゼノン帝が後継者を出さず、オドアケル暗殺前に死去し(491)、ゼノン帝の元皇后の再婚相手だったアナスタシウス1世(位491-518)が即位していました。アナスタシウス1世はテオドリックのイタリア統治を認め、497年、東ゴート族の王国建設が実現したのです。イタリア半島におけるゲルマン国家、まさしく東ゴート王国の誕生でありました(497-553)。首都はそのままラヴェンナにおかれました。
テオドリックはイタリア王のみならず東ゴート王国初代王(位497-553)としても即位し、永遠なる都・ローマのあるイタリアでゲルマン王国を建設した、まさに大王となりました。
大王テオドリックは東ゴート王国としての統治を、旧来のローマ法を尊重しながらこれを継続しつつ、ゴート人による新たな統治機能も加えてローマとの融合をはかりました。これまで睨み合っていました、ゲルマンとローマの共存が実現したのです。
テオドリック大王はまず外交安定化にむけて、ゲルマン一派のフランク王国メロヴィング朝(481-751)の王クローヴィス1世(王位481-511)の妹アウドフレダ(470?-526?)と結婚、同じゴート人国家の西ゴート王国とは、テオドリックの娘テオデゴサ(473?-?)を当時の西ゴート王アラリック2世(位484-507)に嫁がせるなど、他ゲルマン国家との協調をはかりました。テオドリック大王は東ゴート族を20代からその頂点に立って約50年の治世を誇り、526年8月30日、この世を去りました。ラヴェンナにはテオドリックの霊廟が残っています(画像はこちら。wikipediaより)。
引用文献『世界史の目 第226話』より
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