9月7日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1303年9月7日は、アナーニ事件が起こった日です。
フランス国王として即位したフィリップ4世(位1285-1314)は、強力な中央集権化を貪欲にもとめました。これまで官僚には聖職者が存在しましたが、それらを退けてローマ法に通じる法曹界からの採用を促し、官僚制度を強化しました。また対外戦争の戦費負担で財政が逼迫し、税制改革を施す必要があったため、聖職者への課税を決めることになりました。
 これまでは免税とされてきた聖職者でしたが、官僚を外された上に免税権も廃されるとなると、もはや一般市民階級と同様であり、当時のローマ教皇であるボニファティウス8世(位1294-1303。ローマ南東のアナーニ出身)は断固として反対し、1296年に教皇勅書”クレリキス・ライコス(“俗人は聖職者に”)”を発表して、教皇の許可なくして聖職者の課税を認めませんでした。しかし国王フィリップ4世はこれに動じず、教皇庁への献金を停止しで対抗しました。
 ボニファティウス8世はウルトラモンタニスト(教皇至上主義者)であり、王権が教皇権を凌ぐことは絶対許されないとしていました。落ちかけている教皇の権威を取り戻すため、1300年、初めて「聖年(ローマ・カトリック教会における、ローマへ巡礼できることの、特別の赦しを与えた年)」を規定しました。ボニファティウス8世はこの聖年制定でローマに巡礼者を集めることで、多額の浄財を得ることができ、ローマ教皇の威信回復に尽力しました。また国王支持派のローマの有力諸侯だったコロンナ家と争い、結果彼等を破門にして所領を奪うなど、財政難で苦しむフランス国王をよそに、ボニファティウス8世の勢力は安定していくかに見えました。
 しかし教皇権回復も束の間でありました。フィリップ4世は、無礼な言動をとったボニファティウス8世の使節を逮捕し、裁判にかけたのです(1301)。ボニファティウス8世はこの経緯についてするどく非難しました。これを受けたフィリップ4世は、ローマ教皇と対立する姿勢を示して、教皇の豪勢な生活や異端性のある言動など、逆に教皇を非難したことで、フランス国民の教皇に対する不支持勢力の増大化につながりました。そこで、絶妙のタイミングとなる1302年4月、パリのノートルダム大聖堂に聖職者・貴族・平民の代表からなる身分制合同会議、いわゆる三部会を初めて開催しました。この画期的な身分制議会開催によってフィリップ4世の支持が急上昇、伝統を重んじて聖職者階級の特権を主張するローマ教皇への非難が集中することになります。
 フィリップ4世の反撃に対しボニファティウス8世は、1302年11月、教皇勅書”ウナム・サンクタム(唯一の聖なるもの)”を発表、至上なるものは(王権ではなく)教皇権であると主張し、フィリップ4世へ破門を突きつけました。しかし、フィリップ4世は、宰相を通じて以前破門された国王支持派であるコロンナ家と結び、ローマに軍を送らせました。破門の苦しみを味わい、財産を奪われたコロンナ家の教皇に対する怨恨は大きく、フィリップ4世側を支援することになったのです。そして陽の当たった1303年9月7日、ボニファティウス8世はローマを出て生まれ故郷のアナーニの別荘に逃亡中のところ、軍に取り押さえられ、軍は教皇を逮捕しました。アナーニ市民の教皇支持者によって助け出されましたが、国王から受けた人生最大の侮辱と屈辱は教皇の体をむしばみ、数週間後に興奮のあまり没することになります。これがアナーニ事件です。
 フィリップ4世は教皇庁が王権でもって機能が動くようになったことで、教皇庁をローマからフランス南東部のアヴィニョン(ローヌ川にかかるサン・ベネゼ橋で有名)への移転を実行しました。これにより、70年近く、ローマに教皇および教皇庁が消え失せる事態となり、フランスにしてみれば、ローマ教皇ならぬ、”アヴィニョン教皇”の誕生を意味しました。この教会組織のアヴィニョンへの強制移転のことを、古代ユダヤ民族が新バビロニア(B.C.625-B.C.539)に強制移住させられた故事になぞらえ、”教皇のバビロン捕囚(1309-1377)といい、約70年近く、ローマ・カトリック教会およびローマ教皇は、フランス君主のもとで管理されることになりました。
引用文献:『世界史の目 第175話』より

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