9月22日は何に陽(ひ)が当たったか?

1520年9月22日は、アナトリアのオスマン帝国(1299-1922)の第9代皇帝、セリム1世(帝位1512-1520)の没した日です。
オスマン帝国の常備歩兵軍団、イェニチェリに支持されて後継者争いに勝ち、オスマン皇帝に即位したセリム1世は、アナトリアに進出するサファヴィー朝(1501-1736。シーア派のペルシア国家)の初代シャー、イスマーイール1世(シャー位1501-24)が率いるクズルハシュ(キジルバシュ。トルコ系遊牧民からなるサファヴィー教団信徒が発端)の騎馬部隊と一戦を交えることになります。これまでのイスマーイール1世の治世では、クズルハシュで構成された騎馬部隊は無敵を誇っていました。
オスマン帝国とサファヴィー朝両軍の戦闘は東アナトリア地方のチャルディラーンで行われました(チャルディラーンの戦い。1514.8)。無敵を誇るサファヴィー朝軍に立ち向かうため、兵力の数においては圧倒的にオスマン軍が多く、これらを指揮するセリム1世は、オスマン軍の布陣は鉄砲を装備したイェニチェリ歩兵隊を筆頭に、砲兵と常備騎兵が構え、騎兵軍の前に鎖でつながれた大砲が並べられ、その大砲を別の騎兵が隠すように陣取りました。敵の突撃と同時に大砲を隠していた騎兵が左右に移動して大砲を出し、砲撃するというしくみです。また右翼にはアナトリア騎兵が、左翼にはバルカン騎兵がそれぞれ配置され、軍の前方に駱駝と車で柵が作られました。
一方のサファヴィー朝軍は、ほとんどが騎馬部隊の戦力となっており、イスマーイール1世は左翼を指揮しました。オスマン帝国軍より先に布陣を終えたイスマーイール1世は、夜襲攻撃をせずオスマン軍の布陣を待って、正面から攻撃することに決めました。
1514年8月23日、戦闘が始まりました。イスマーイール1世が指揮する左翼騎馬兵を中心に、凄まじい猛攻を繰り広げ、オスマン帝国右翼のアナトリア騎兵隊はたちまち倒れはじめて、オスマン軍は劣勢と化しました。しかしオスマン軍の火砲はサファヴィー朝軍の中央と右翼で大きく発揮されており、なおもイェニチェリの手は休むことなく鉄砲射撃を続け、そしてイスマーイール1世の攻撃に防戦一方だったオスマン側右翼にも駆けつけて一斉に射撃、サファヴィー朝軍左翼の将軍を戦死させ、さらにイスマーイール1世をも負傷させて形成が逆転、オスマン軍優勢となりました。結果、イスマーイール1世と潰滅したサファヴィー朝軍は逃げ去り、チャルディラーンでの一戦はオスマン帝国軍の勝利をもたらしたのです。この戦争で、サファヴィー朝が入り込んだ東アナトリア地方はオスマン帝国に帰順しました。
最強の騎馬兵で構成されたサファヴィー朝クズルハシュ軍の不敗神話が脆くも崩れ去る一方で、鉄砲や大砲といった新型兵器でこれらを倒したオスマン帝国イェニチェリの活躍は、弓矢や刀剣の時代から火器の時代への移り変わりを世に知らしめ、軍事の歴史において重要な意味を持ったのです。
サファヴィー朝との抗争を終えたセリム1世はエジプト~シリアのスンナ派国家、マムルーク朝(1250-1517)に標的を絞りました。すでに全盛期が終わり弱体が進むマムルーク朝でありましたが、アッバース家のカリフ(預言者の代理とする、ムスリム全体の最高指導者)を保護しており、いまだ威光を放つ存在でありましたが、シーア派国家のサファヴィー朝を戦争で打ち負かした、マムルーク朝と同じスンナ派国家のオスマン帝国の存在は、マムルーク朝にとって脅威にほかなりませんでした。
1516年8月、オスマン帝国軍を自ら率いたセリム1世は、シリアの都市アレッポ北方のマルジュ・ダービクで、マムルーク朝軍との戦闘を開始しました(1516.8)。オスマン帝国軍の布陣はこれまでと同様、中央にイェニチェリと常備騎兵軍、左右両翼に騎兵軍という布陣であり、陣の前後に多数の大砲が鎖でつながれて置かれました。兵力は6万を越え、大砲は500~800門に達しました。一方のマムルーク軍は騎兵軍8万と、オスマン帝国軍を上回った兵力でした。マムルーク騎兵は勇猛果敢に突撃し、オスマン帝国軍の左右両翼が崩れはじめ、オスマン帝国軍は劣勢に立たされましたが、前回のチャルディラーン戦同様、イェニチェリ軍による左右両翼への救援で盛り返し、銃撃および砲撃を巧みに仕掛けて反撃、相手の指揮官を戦死させて形成を逆転させることに成功したのです。旧来の弓矢と刀剣で戦おうとしたマムルーク軍は潰滅、あれだけあった戦力は1万人も残っておらず、ついには退却しました。翌1517年にオスマン軍は首都カイロを攻め落とし、マムルーク朝を滅亡に至らしめました。これによりオスマン帝国はエジプト、シリア、パレスティナを領有することになり、さらに、聖地であるメッカとメディナの守護者とする称号がオスマン帝国スルタンに与えられました。マムルーク朝に保護されていたカリフに至っては、セリム1世自身がカリフの位を禅譲したという史料記述はなく、世俗的権威を持つスルタンが、宗教的権威を持つカリフとして立ったという政教一致の体制(いわゆる”スルタン・カリフ制“)は、後世の創作である可能性が高いといわれています(19世紀に広まったこの伝説は、キリスト教列国との東方問題で揺れ動いた時代、オスマン帝国に最大最強の権威を示すために主張されたものと思われます)。
サファヴィー朝、マムルーク朝と立て続けに戦勝したセリム1世はアナトリア沿岸部のロドス島遠征を計画しました。14世紀に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)によって占領されたこの島は城壁は難攻不落で、かつて、あのビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453)を滅ぼしたセリム1世の祖父で、オスマン皇帝メフメト2世(位1444-46,1451-81)も出陣したことがありましたが、攻撃をはね返され失敗し、今度はセリム1世が挑むところでありました。しかしその志もかなわず、1520年9月22日、セリム1世は病気のため没しました。54歳でした。その志は、子のスレイマン1世(帝位1520-66)によって受け継がれ、過去にない全盛時代を現出することになるのでした。
引用文献『世界史の目 第265話』より

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