10月4日は何に陽(ひ)が当たったか?
1669年10月4日は、現オランダの画家、レンブラント・ファン・レイン(1606-69)の没年月日です。
引用文献『世界史の目 第66話』より
以下、リンク画像はWikipediaより参照。
レンブラントは、オランダ西部のライデンに、1606年、製粉業者の子として生まれました(10人兄弟の末子)。ライデン大学に入学後、絵画を志望したため数ヶ月で退学(1626)、中心都市アムステルダムに渡り、徒弟として画家の修業を積みました。そして1629年、23歳のレンブラントは自身の「自画像」を発表し、周囲から好評価を受けました。続く1632年には『トゥルプ博士の解剖学講義』が出世作となり、名声を確立しました。アムステルダムに移住後、肖像画家として多額の収入を得、自身の徒弟も急増しました。
レンブラントが画家として歩んだ16世紀から17世紀にかけて、母国オランダは対外政策や貿易で経済的発展を遂げたことで、アムステルダム市民は富裕化し、多くのブルジョワジーが生まれました。レンブラントにはこうした裕福な画商から肖像画の発注が殺到し、自身も富裕化していきました。こうした中で、画商の紹介から、1634年に6歳年下で上流階級の娘サスキア(1612-42)と結婚、生活はますます向上し、彼の人生における最も華やかな時代が訪れました。そして1635~36年もの間、『アブラハムの生贄』『ガニュメデスの誘拐』『ダナエ』『目を潰されるサムソン』など、傑作・力作を発表しました。
私生活では、妻サスキアの肖像画も数多く描かれましたが、家庭の裕福化と、サスキアの生まれ育った家庭環境などから、美術品の収集など浪費に走る傾向もある一方、レンブラント自身は誰よりもましてサスキアを愛し、家庭の幸福を追求していました。しかしその願望とは裏腹に、必ずしも順風満帆ではなく、立て続けに大きな悲劇が彼に襲いました。レンブラントと妻サスキアとの間には3子を出産しましたが、成長に恵まれず、相次いで3子は幼くして他界します。レンブラントはサスキアの療養も兼ねて、1639年、借りた資金で、豪邸(通称:レンブラントハウス。現在レンブラント美術館)を購入しました。しかし1642年に4人目の子ティトゥス(1642-1668)を授かるも、生後1年も満たないうちに、今度が最愛の妻サスキアが、ティトゥスの成長を見ずして他界するという不幸に見舞われたのです(享年30歳)。その後ヘールチェなる女性がティトゥスの乳母となったが、サスキアを紹介した得意先の画商から注文を断られるなど、作業にも影響が及び、彼の収入も少しずつ縮小していくことになるのです。
こうした不運が襲いかかる中で発表したのが同1642年に発表した名作『夜警』でした。画家レンブラントの心中の変化によって、これまでの画風が深化していき、人間の心の奥深さを追究するようになっていきました。『夜警』の正式名称は『フランク=バニング=コック隊長の市民隊』といい、1639年、市民隊のモデルである火縄銃手組合員(オランダ独立戦争時に結成された市民による防衛隊)から集団肖像画の依頼を受けて、完成に3年を費やしたレンブラントの集大成でした。注文代は組合員がそれぞれ均等に出し合い、完成を待ち望んでいたが、評価は最悪の結果となってしまいました。
できあがった作品には市民隊の姿が均等に描かれていなかったのです。暗すぎて全身が描かれている肖像が少なく、また市民隊に無関係の人物まで描かれていました。さらには『夜警』とあるが、実際は昼の時間を描いており、左から太陽らしき光線が暗闇に差し込めているのです(当時は夜の絵として評価されていました)。当然依頼者から注文代の返金をはじめとしたクレーム・訴訟の嵐に巻き込まれていきました。
その後レンブラントは商業的な絵画作業を嫌い、自己の個性を生かした作品を追究するようになっていきますが、レンブラントへの受注は激減するのでした。
1646年、レンブラントはヘールチェと別れを告げ、当時18歳のヘンドリッキェ(1628-1663)なる女性を家政婦に雇いました。その後レンブラントは、別れたヘールチェから婚約破棄に対する訴訟を受け、多額の支払いを義務づけられたため、生活は貧窮化しました。レンブラントはヘンドリッキェとの婚約はなかったが、彼女との間に1子(コルネリア)を授かりました。これでティトゥスを含め4人家族となり、第2の人生が始まるはずでした。
しかし今度は仕事に支障を来しました。激減した受注のなかで遣り繰りを行わなければならず、しかも、美術品採集からくる浪費癖、受注契約の不履行、前述のヘールチェとの裁判沙汰や、年齢差ある愛人関係など、多くの醜聞によって悪評がおこされ、1656年、レンブラントは遂に破産を宣告されました。豪邸や所持品は差し押さえられ、家族は貧民街に転居することとなります(1660)。しかしこのような事態に陥っても、ヘンドリッキェとティトゥスはレンブラントを保護する決心をし、転居後、ヘンドリッキェとティトゥスは画廊を始めました。レンブラントは従業員という名目で絵画作業を続けていくことにしたのです。画風が衰えることはなく、名作『修道士に扮する息子ティトゥス』などを残しましたが、債権者の取立は相変わらず続き、この地においても、画風の評価は再燃せず、名画家としての再興は難色を示しました。
レンブラントの転落人生に、さらなる不運が伴ったのは、祖国オランダの情勢でした。オランダは貿易面・金融面で経済成長を続けていましたが、国内では商業資本重視のためマニュファクチュアの発展が遅れていました。こうした中で、オランダの経済発展が断たれる決定的な事件が起こったのです。それはイギリスが1651年に発布した航海法です。イギリスが重商主義政策の一環で制定した法律で、イギリスとその植民地に輸入する貨物は、必ずイギリス船または原産地の船に限定すると決められ、これによって、中継貿易で利を得ていたオランダは入港禁止となり、国内の貿易商は打撃を被りました。新大陸経営においても1664年にイギリス領となったニューアムステルダム市は、ニューヨークと改名され、新大陸のオランダ領は瞬く間にイギリス領となっていきました。アジアでは1661年、台湾のゼーランディア城塞が、鄭氏台湾(ていしたいわん)の建設を目指す鄭成功(ていせいこう。1624-62)によって攻略されました。結果的にはオランダはバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点とするオランダ領東インド経営を残すのみとなり、一気に経済活動が低下しました。これにより、オランダ国内はこれまでの盛況から一転して不況に見舞われることになったのです。
不況のため、レンブラントの絵画も需要が伸びませんでした。そして、1663年、サスキア亡き後、彼を支え続けてきたヘンドリッキェが当時大流行した黒死病のため病死しました。24歳の息子ティトゥスは1666年、マグダレーナなる女性と結婚し、レンブラントは祝福を表して、作品『イサクとリベカ』を、2人をモデルに描き上げました。しかし、2年後の1668年、ティトゥスも黒死病に感染し、病死してしまうという、レンブラントにとって最大の悲劇に見舞われました。悲しみに包まれたレンブラントは、1636年のいわゆる彼の黄金期に制作されたエッチング『放蕩息子の帰宅』を再度、ティトゥスに捧げるかのごとく、同じタイトルで、名作『放蕩息子の帰宅』を描きました。その後マグダレーナは女子を産み、初孫を授かったレンブラントが彼女の名付け親となりました。
レンブラントは、これまで自身の自画像を50枚以上描き続けてきましたが、1669年、最後の自画像である『63歳の自画像』を描き上げ、10月4日、貧窮・孤独の中で、細々と暮らしてきたヘンドリッキェとの子コルネリアと、マグダレーナ親子たちに看取られながら、1669年10月4日、63歳で没し、アムステルダム西教会の共同墓地に埋葬されました。
レンブラントの作品は総数2000点以上に及ぶと言われます。聖書や神話を取り上げた宗教画、実社会とそれに生きる人々を題材に描き上げた肖像画・風景画・風俗画など多岐に渡り、また制作ジャンルにおいても油絵のみならず、エッチング(銅版画)、水彩画、デッサンなど数多くあります。彼が作品を発表し続けるごとに追究した描写とは、肖像画などにおける魂が宿ったような動的・写実的手法はもちろんのこと、それに加わった”明暗の強調“です。色彩による明暗、そして、影の中に光を差し込み作られる明暗...光の当たった”明“の部分を強調すると同時に、影となった”暗“をも強調させる、立体感あるドラマティックな独創性...これがレンブラントの独特の描法でした。こうした技巧は近代油絵描法を完成させ、名実ともにレンブラントはその確立者/大成者でした。事実、没後彼の作品は再評価され、特に『夜警』は彼の代名詞的作品となり、彼に対する再認識が高まり、”光と影の画家“・”魂の画家“と叫ばれたのです。活気に満ちた時代のオランダで残した多くの作品は、現在もアムステルダム国立美術館をはじめ、オランダ国内、イギリス、ドイツなどの各美術館で保存され、貧しく辛い人生であっても、ひたむきに描き続けた入魂の作品は、いまだ衰えることはありません。
引用文献『世界史の目 第66話』より
以下、リンク画像はWikipediaより参照。
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