1月13日は何に陽(ひ)が当たったか?
532年1月13日は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国。395-1453)の首都コンスタンティノープル(現・イスタンブル)で起こった反乱の勃発日です。この乱は、時の皇帝、ユスティニアヌス1世(大帝。帝位527-565)の統治に対する反乱で、”ニカの乱“と呼ばれました。
ユスティニアヌス帝の活動は非常に精力的で、”不眠不休の皇帝“と渾名されるほどでした。開墾・植民を歓迎し、人口増加につなげ、また養蚕業を導入して絹の専売を行いました。貿易も地中海と黒海を中心に積極的に行い、コンスタンティノープルは瞬く間に商業中心地として発展しました。
また帝に仕えた将軍ベリサリウス(505?-565)、忠臣ナルセス(487?-573?)も多くの功績を残し、534年に北アフリカのヴァンダル王国(439-534)、555年(553年?)にイタリア半島の東ゴート王国(493-555)といったゲルマン国家を征服しました。イベリア半島では、同じくゲルマン一派西ゴート族の西ゴート王国(415-711)から同半島東南部を奪取しました。また東方ではササン朝ペルシア(226-551)との和睦(532)で地中海の制海権を確保したことで、東ローマ帝国は地中海を取り囲んだ帝国として、ローマ分裂前に近い版図にまで拡大したのです。
このようにユスティニアヌス帝は即位後は積極的に外征を行いましたが、こうした度重なる遠征は国民に対して重税として跳ね返っていました。即位5年目の532年、ユスティニアヌス朝(518-602)による最初の危機が訪れました。開催されている戦闘用馬車であるチャリオットの競技が思わぬ展開へと向かいました。日頃の重税に不満をつのらせた市民が、競技への過熱から暴徒化、競技場に隣接した宮殿を襲撃したのです。この時、襲撃に参加した市民が、”ニカ“の掛け声を連呼しながらの反乱でありました(”ニカ”とはギリシア語で”勝て!”の意味)。この口々に叫ばれた掛け声から、”ニカの乱“と呼ばれ、首都コンスタンティノープルは大混乱に陥り、ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア大聖堂。360年創建)も焼失、帝室は機能停止寸前の状態にまで追い込まれました。ユスティニアヌス帝は退位と首都脱出を企て、逃亡用の舟に逃げ込もうとしましたが、これを引き留めたのが、帝の20歳年下の皇后、テオドラ(500?-548)でした。
テオドラは帝に対し”帝衣は最高の死装束“の言葉を投げかけ、逃げて生き延びるより、紫の帝衣を着たまま死んでこそ皇帝であるとして帝を励ましたのです。これで勇気を取り戻したユスティニアヌス帝はただちにベリサリウス将軍に命じ、反乱鎮圧に成功できたといわれます。
引用文献『世界史の目 第198話』より
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