2月2日は何に陽(ひ)が当たったか?
962年2月1日は、神聖ローマ帝国(962-1806)の皇帝が誕生した日です。陽の当たった当時は復興した”ローマ帝国”の国号が使われました。
843年のヴェルダン条約、870年のメルセン条約により、フランク王国(481-843)は西フランク王国(フランス地方。843ー987)・東フランク王国(ドイツ地方。843ー911)・イタリア王国(843ー875)と分割されました。そのうちの1つ、東フランク王国は、ルートヴィヒ4世(幼童王。ルートヴィヒ2世の曾孫。位899ー911)の死をもって断絶し(911)、東フランク王国のカロリング王家は途絶えました。すると国内で、ザクセン(北)・バイエルン(東)・シュヴァーベン(南)・フランケン(中部)など、部族を基盤とする諸侯(大諸侯。部族大公)たちが勢力を増大させていきました。その中で、諸侯の選挙王制により、東フランクの中核であったフランケン公領(マイン川流域)の大公コンラート1世(?-918)が東フランク王(ドイツ王)に選ばれ、東フランク王国におけるフランケン朝を創始し王位に就きましたが(位911-918。ザリエル朝の異称とは別)、部族大公勢力は留まることを知らず、ザクセン公ハインリヒ(876-936)やバイエルン公と争う羽目になる。また、全盛期時代から悩まされたハンガリー地方のマジャール人の侵寇にも苦しみました。このフランケン朝は、”東フランク王国”としての政体は踏襲していたもののその機能を果たせず、国家統一どころか、実際は東フランク王国は名目的で、王国の旧諸侯が新国家建設を目指して争っていたにすぎませんでした。
コンラート1世は臨終の際、次王に、敵ながら適任と認めたザクセン公ハインリヒを推薦し、ザクセンの王朝を創始して国家統一を頼むと遺言し、他の諸侯もこれに賛同しました。919年、ハインリヒはザクセン朝(919-1024)を創始し、ハインリヒ1世(捕鳥王。都市建設王。位919-936)として即位しました。ハインリヒ1世は、デーン人などのノルマン民族や、スラヴ人、マジャール人の侵入を防ぐべく、辺境領(マルク)を設置、辺境の地方長官職をつかさどる辺境伯(マルク・グラーフ)をおいて城塞を築き、辺境をかためました。西フランク王国と交渉してロートリンゲン(中部フランク。ロレーヌ)をドイツ地方に編入、またドイツ内部のキリスト教会を保護下において、積極的に教皇との接触をはかり、国家の統一をすすめました。
751年にフランク王国カロリング朝(751-987)が誕生した時、創始者ピピン3世(位751-768)が即位にあたって、教皇により塗油の儀式を受けました。その後カール大帝(フランク王位768-814。西ローマ皇位800-814)をはじめ、フランク国王は即位時、塗油の儀式を受けることが慣習化され、塗油によって代々フランク王の遺志を継ぐ者であることを知らしめ、これにより国王の権威が確立されました。しかしハインリヒ1世は、マインツ大司教の塗油の礼を拒否し、フランク王国の継承者としての国王ではなく、新しい国家の王として登場したのです。その国家が”ドイツ“で、ドイツ王ハインリヒ1世の即位をもって、一般にドイツ国家の成立となります。またフランク王国は分割相続でしたが、ハインリヒ1世はこの面でも一線を画し、王権強化を誇って単独相続を決め、ザクセン王家によるザクセン朝存続維持に努めました。しかし、部族大公勢力はいっこうにおさまりませんでした。
936年、ハインリヒ1世が没し、子のオットー(912-973)がザクセン朝ドイツ王オットー1世として、アーヘンで即位しました(位936-973)。ザクセン王家から2代ドイツ王に選ばれたため、部族大公勢力は不満でした。このため、オットー1世はまず第一に、その部族大公勢力を抑える政策を行い、フランケンやバイエルンなどの大公領にオットー1世の血族を配して、ドイツ統一を図りました。しかし一族が部族大公らと結んで謀反を起こすと、次の統一策として、ドイツの司教に王領地を寄進し、伯職と同等の権利を与えて、教会や修道院領を王領として扱う帝国教会政策を行いました。これにより、教会制度は国家の組織に組み込まれ、オットー1世は聖職叙任権を獲得し、王権拡大に努めました。
外交策では、イタリア政策が挙げられます。ドイツの帝国教会政策で、教皇権との結び付きが緊密化したことにより、イタリアへの極度の接触が可能になったのです。当時イタリアは、マジャール人をはじめ、シチリア島などに潜伏するイスラム勢力の侵入が著しい状況でした。また、カロリング家断絶後、王権も弱く、イタリア諸侯の王位争いも激化していました。
王位継承問題で揺れていたイタリアで、オットー1世は951年、イヴレア辺境伯など他のイタリア諸侯からの王位継承の大候補が数多くある中、もう1人候補であるブルグント家からイタリア王女アーデルハイト(931?-999)と結婚して(951)、イタリア王を自称しました。オットー1世はイタリアには居座らず、イヴレア辺境伯にイタリア統治を委ねました。これによりイタリア諸侯らを抑える目的で第1次イタリア遠征を行いました(951-952)。
オットー1世には嫡子リウドルフ(930-957)がいましたが、父王との反目があり、父とアーデルハイトとの間に1子をもうけると、王位継承に危機感を募らせ、親族や諸大公らと反乱をおこしました(953)。翌954年からはマジャール人のドイツ侵寇も激化し、王室は苦悩すると思われましたが、オットー1世はリウドルフの反乱を巧みに利用し、リウドルフの味方に付いている諸侯に対し、マジャール人の襲来をリウドルフがおこしたものだと呼びかけたのです。これによりリウドルフの味方であった諸侯たちは、リウドルフの加担をやめてマジャール人の撃退に向かいました。リウドルフは捕まり、幽閉された。大公軍の結束によって955年、遂にマジャール人は完全撤退し(レヒフェルトの戦い)、これ以降のマジャール人の西方侵入はなくなりました。オットー1世は、スラヴ人、ノルマン系デーン人をも撃退、彼はヨーロッパ全域の”キリスト教国”を異教民族から守った英雄として評価され、彼の地位は不動化されました。特に、この年ローマ教皇に就いたヨハネス12世(位955-964)をはじめ、教会組織からは手篤く称えられました。
ヨハネス12世は教皇即位時は18歳と年少で、権威は低かったため、教皇領の拡張を図ろうとしていました。しかしイタリア諸侯イヴレア辺境伯はこれを抑えようとして、ヨハネス12世に対して激しい攻撃を行いました。ヨハネス12世は961年、オットー1世に救援を依頼します。オットー1世はアーデルハイトとの子オットー(955-983)をドイツ王オットー2世(位961-983)として共同統治させ、そして第2次イタリア遠征を行い(961-964)、その後イヴレア伯を抑えつけました。
イヴレア伯の制圧後、オットー1世はローマに赴き、ヨハネス12世に身柄の安全を保障することにより、帝冠を授かることを約束し、ヨハネス12世もこれに応じました。こうして、陽の当たった962年2月2日、オットー1世は教皇ヨハネス12世より、ローマ皇帝の帝冠を授かり(オットーの戴冠)、”ローマ・東フランク皇帝“となりました(オットー大帝。位962-973)。かつてカール大帝が800年に行ったときと同様(カールの戴冠)、ローマ帝国の復活であり、またカロリング朝フランク王国の復活をも意味する戴冠でした。オットー大帝は”尊厳なる皇帝“として、ローマ教会が及ぶヨーロッパ世界に君臨する地位を得たのです。これにより、事実上イタリアとドイツは、オットー大帝によって統治されました。これが、後になって”神聖ローマ帝国“と呼ばれる、ドイツ帝国誕生の瞬間です。原理上ではカールの戴冠(800)が神聖ローマ帝国の誕生としていますが、事実上ではオットーの戴冠でもって誕生としています。
ヨハネス12世は、オットー大帝に戴冠したものの、オットーの脅威に絶えかね、オットーの政敵と手を結ぶようになりました。このためヨハネス12世は、オットー大帝により皇位を廃されました(963)。その後レオ8世(位963-965)、ベネディクトゥス5世(位964-966)とローマ教皇は短期交替が相次ぎ、教皇権が失墜していきました。ヨハネス12世の行為によって、教会はローマ・東フランク皇帝(神聖ローマ皇帝)の思うままに操られることになり、ヨハネス廃位後に即位したレオ8世から、教皇即位にあたってローマ皇帝に忠誠を誓う宣言を行う規定が盛り込まれ、教会の「鉄世紀」と呼ばれる暗黒時代を招くことなりました。教皇と皇帝との対立はここから始まっていくのでした。
その後オットー大帝は、966年から第3次イタリア遠征を行い(966-972)、以降イタリア政策を推進し、同地に滞在しました。イタリア経営は、ドイツ国内統治以上に努力が強いられ、結果としてドイツ統一が遅れていく状況を為しました。晩年に差し掛かったオットー大帝は、973年、すでに神聖ローマ皇帝の帝位継承者として決定していたオットー2世に譲位し(位973-983)、973年没しました。オットー2世の後、オットー3世(ドイツ王位983-1002。神聖ローマ皇帝位983-1002)・ハインリヒ2世(王位1002-24,帝位1002-24)と続き、オットー朝の異名を兼ね備えたザクセン朝は、1024年、ハインリヒ2世でもってザクセン王家断絶となり、フランケン公コンラート1世の血を引くフランケン公シュパイエル伯ハインリヒ(オットー1世の曾孫の子)の子コンラート(990?-1039)が選ばれ、コンラート2世として即位し(王位1024-39,帝位1027-39)、第2のフランケン朝であるザリエル朝(1024-1125)を創始、ザクセン朝を継承して帝国教会政策とイタリア政策は続けられていくのでした。
引用文献『世界史の目 第76話』より
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