2月24日は何に陽(ひ)が当たったか?
1848年2月24日は、七月王政を主導してきたフランス国王、ルイ・フィリップ(位1830-480)が退位した日です。
ナポレオン時代(1799-1815)の終焉とウィーン体制の確立により、1814年、フランスはルイ18世(位1814-24)によるブルボン復古王政となりました(ブルボン朝。1589-1792,1814-30)。ルイ18世没後は弟のシャルル10世(位1824-1830)が、兄と同じく極右王党派を指導して反動政治を行いました。国民による革命を抑止しようとする反動政治は、ルイ18世の治下ではまだ緩めでしたが、シャルル10世即位後は露骨に打ち出され、極右王党派からポリニャック(1780-1847)を首相に任命(任1829-30)、言論抑圧・旧教聖職者保護・国民軍解散などを行いました。なかでも、フランス革命(1789-1799)によって国外逃亡の身分となり、財産を没収された亡命貴族(エミグレ)に多額の補償金を供与して救済しようとした動きは、血税を納めてきたフランス国民を激怒させ、内閣不信任決議案を提出するなど、自由主義勢力が動き始めました。議会を解散させたシャルル10世は、こうした国民の政治批判回避の目的で、1830年7月、アルジェリア出兵を行いました。
同じ頃、総選挙が開かれましたが、当然復古王政に反対する自由主義勢力が多数を占める結果となりました。シャルル10世は7月25日、議会が招集される前に議会解散の命令を出し、国王派以外の選挙権を剥奪する選挙法改悪と、言論・出版の厳しい統制を義務づけました(七月勅令)。上層ブルジョワジーを中心とする市民は、翌々日の7月27日、政府軍に対して戦闘を開始、3日間市街戦を展開しました(「栄光の3日間」)。結果、国王軍は敗北、シャルル10世は8月2日に国外亡命となりました(七月革命。1830.7)。
革命派は共和政派と立憲王政派の2大派閥がありましたが、相互間の融和がはかられることになり、自由主義精神であることと、立憲王政も取り入れることで、ブルボンの分家であり、革命を支持したオルレアン家から、ルイ・フィリップ(1773-1850。自称”国民の王“)が金融資本家らのバックアップでフランス王位に就き(位1830-48)、七月王政を開始しました(1830-48。オルレアン朝)。ブルジョワジーの支配的地位が確立した瞬間でありました。これにより産業資本家が急成長、産業革命がフランスにも到来しました。
七月王政下に始まった産業革命は、労働者階級を形成していきました。労働者は、社会的不平等の根源を私有財産に求める社会主義精神を身に付けるようになっていきます。これにより様々な労働運動・社会主義運動が勃発していきました。これが共和政支持、すなわち王政打倒につながっていったため、ルイ・フィリップはしばしばこうした運動を弾圧するようにもなっていきます。復古王政を倒しブルジョワ支配を確立して、選挙権を拡大させたものの、それでも有権者は全人口の1%に満たない状況(約0.6%)でした。銀行家・大商人・大地主といった大資本家が物を言う時代であり、労働者・中小市民は以前の復古王政とさほど変わらなかったのです。
これにより工場者・労働者ら中小市民による集会(改革宴会)がフランス各地で結成され、選挙法改正運動が始まりました。折しも1847年、恐慌に陥ったこともあり、改革宴会は、1848年2月、パリで全国大会を開催、政府へ過激な改正要求を突きつけました。時の首相フランソワ・ギゾー(任1847-48)は「選挙権が欲しいのなら金持ちになれ」と発し、上層ブルジョワの代表として威厳を高め、これらの要求を拒絶し、逆に改革宴会の解散を命令しました。
1848年2月22日、改革宴会の選挙法改正運動は遂に暴動と化し、パリはデモの嵐となりました。ルイ・フィリップはこの事態を重く見て、23日ギゾーを更迭しましたが、暴動は収まらず、翌24日は武装反乱も始まってパリは火の海となりました。これにより同2月24日、ルイ・フィリップは遂に退位してイギリスに亡命、七月王政は崩壊したと同時に、フランス二月革命の勃発となりました。
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