3月28日は何に陽(ひ)が当たったか?
364年3月28日は、ローマ帝国(B.C.27-A.D.395)の皇帝、ウァレンス(ヴァレンス。328-378)が皇帝に即位した日です(帝位364-378)。兄ウァレンティニアヌス1世(帝位364-375)と共同統治し、ウァレンスは帝国東部を任されました。ゲルマン民族大移動の時代にあたり、ウァレンスはその被害者ともいうべき最期を遂げました。
ゲルマン一派の西ゴート族は、農耕社会を築いて傭兵隊(アウクシリア)をローマ帝国に差し出すことを条件に、10万人のトラキア(バルカン南東部)定住を求めました。ローマ帝国のウァレンス帝はドナウ河畔の発展を切望していたことと、軍人皇帝時代(235-284)におけるローマ軍の疲弊から未だ回復しなかったことを理由に、西ゴート族の申し出を承諾しました。これにより、フリティゲルン族長(?-380?)率いる西ゴート族のドナウ渡河が始まりました(375)。民族大移動の始まりです。
しかし西ゴートのドナウ渡河は思わぬ展開を呼び込みました。西ゴートの移民がドナウ渡河を果たした移民の規模は約束の10万ではなく、その3倍にのぼる30万規模でした。西ゴートの諸部族がフリティゲルン族長を頼り、多くが渡河を始めたのです。瞬く間にトラキアは西ゴート族で埋め尽くされました。このためトラキア総督は移民全員の生活保障ができず、西ゴート族は貧困を極め、帝国領内で略奪行為を始めました。これが4世紀における本格的なゴート戦争(376-382)の契機で、ローマ兵も倒される勢いでありました。378年、西ゴート族は親征したウァレンス帝相手に大戦争を展開することとなるのです。
ゴート戦争における主要な戦場となりましたハドリアノポリス(アドリアノープル。現トルコのエディルネ)で大激戦が展開され(378)、司令官をはじめ大多数のローマ軍人が殺され、戦傷を負ったウァレンス帝は臣下に抱えられながら小屋に避難しましたが、西ゴート族によって小屋に火を放たれ、帝は小屋ごと灰と化したといわれています。ゴート戦争におけるこのアドリアノープルの戦いによって、ローマ帝国はゴート族を蛮族ととらえますが、西ゴート族はローマ属州トラキアに定住し、蛮族とされたゲルマン諸族が次々と帝国領内に侵入していきました。375年の西ゴートのドナウ渡河によっておこされた、ゲルマン諸族における民族大移動は、ローマ帝国を脅威にさらす結果となったのです。
引用文献『世界史の目 第223話』より
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