1月21日は何に陽(ひ)が当たったか?
1519年1月21日は、スペインの探検家、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(1475-1519)の没年月日です。
貧しい貴族の家に生まれたバルボアは、1500年にハイチのイスパニョラ島に開拓者として移住したものの失敗し、借金を背負う身となりました。1510年、夜逃げ同然でパナマ付近に渡り、12年ダリエンという植民都市を建設して同市の総督に任命されました。先住民の酋長より南方の金脈に関する情報を得たバルボアは、1513年9月に180人の探検隊を組織して探索を開始しました。隊員のひとりとして、のちにペルーのインカ帝国(1438-1533)を占領するフランシスコ・ピサロ(1470?-1541)がいました。
バルボア一行は探索を続け、9月末、南北両アメリカ大陸を結ぶパナマ地峡を横断に成功、南に下ると、広い大洋を目にしました。1513年9月25日にて、バルボアは、降り立った大きな海洋を、「南の海(Mar del Sur)」と命名しました。のちにポルトガルの探検家、フェルディナント・マゼラン(1480-1521)が1519年から21年にかけて世界周航のプロセスとして”南の海”を航海したとき、あまりにも穏やかな海洋であったことから”平和”や”太平”を意味する”Pacífico”と名付け、これが”太平洋“と呼ばれるようになりました。
ヨーロッパ人として初めて太平洋に降り立ったバルボアでしたが、略奪や虐殺など現地での残忍な行為を日常的に起こしていたため、植民都市民やスペイン本国政府より支持を失い、ダリエン総督を解任されてしまい、スペイン軍人ペドロアリアス・ダビラ(1440?-1531)に総督の座を明け渡してしまいました。
ダビラ総督との対立を深めたバルボアは、南の金脈を探すことに専念しましたが、ダビラはバルボアを許すことはなく、ピサロに命じてバルボアを捕らえ、裁判でバルボアは反逆罪に問われて死刑が宣告されました。そして1519年1月21日、バルボアは波瀾万丈に満ちた生涯を終えました。
マドリードにはバルボアの像が置かれています(こちら。Wikipedia Commonsより)。
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