5月26日は何に陽(ひ)が当たったか?
752年5月26日(天平勝宝4年4月9日)は、奈良東大寺の金堂(大仏殿)の本尊として保存されている盧舎那仏(るしゃなぶつ。いわゆる奈良の大仏)の開眼供養(かいげんくよう)が行われた日です。
聖武天皇(しょうむ。在位:724-749)の治世下、皇族長屋王(ながやおう。天武天皇の孫)の自殺(729)、737年の貴族藤原不比等(ふじあらのふひと。659-720)の4子(いわゆる藤原四兄弟)の相次いだ天然痘による病死といった事件や災いをはじめとして、その後も実権掌握にからむ混乱や、飢饉、大地震などの天災は続きました。このため、聖武天皇は次々と首都を移転するなどして混乱を収めようとしましたが、結局収まることなく、745年(天平15年)に平城京に戻りました。
この間、聖武天皇はこうした政局不安定と社会不安に終止符を打つべく、仏教を篤く信仰するようになり、鎮護国家の思想に基づいて、741年(天平13年)に「国分寺建立の詔」を発して、諸国に国分寺および国分尼寺の建立事業をおこしました。その2年後の743年(天平15年)、聖武天皇は「大仏造立の詔」を出し、遷都先の紫香楽宮(しがらきのみや。現・滋賀県甲賀市)の寺院にて計画されましたが、この頃も混乱や厄災が相次いだことから、745年の平城宮帰都とともに造立が始まりました。
749年8月(天平勝宝元年7月)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、自身は上皇として聖武太上天皇となりました。譲位を受けた娘は孝謙天皇(こうけん。在位:749-758。称徳天皇として重祚した期間は764-770)として、大仏の完成を待つことになります。
749年12月(天平勝宝元年10月)、ついに盧舎那仏本体の鋳造が終わりました(『東大寺要録』より)。そして、陽の当たった752年5月26日(天平勝宝4年4月9日)、魂入れの儀式にあたる開眼供養会(かいげんくようえ)が行われることになりました。
儀式は盛大に行われました。聖武太上天皇、光明皇太后(聖武の妃)、孝謙天皇をはじめとする要人が列席し、1万人に及ぶ僧が参加しました。開眼供養の導師として、インドの渡来僧、菩提僊那(ぼだいせんな。704-760。ボーディセーナ)僧正がつとめました。盛儀の進行では、東大寺は華厳宗(けごんしゅう)大本山であることから、華厳経(けごんきょう)が読まれました。読経は華厳宗派の元興寺(がんごうじ)の僧侶が担当しました。開眼の山場である、大仏に眼を入れる儀式は、菩提僊那によって行われました。宴では伎楽や楽舞が上演されました。
供養会終了後、残りの鍍金(金メッキの加工)も加えられ、光背が完成したのは771年(宝亀2年)頃とされています(Wikipediaより)。
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