6月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
1494年6月7日、スペインとポルトガル間において、トルデシリャス条約が結ばれた日です。
新たな交易を求めて、ポルトガルは早くからアジア航路をアフリカ西岸からインド洋にかけて開拓を行いました。一方でクリストファー・コロンブス(1451?-1506)がスペインの援助でインドを目指して西へ直進、1492年西インド諸島のバハマにあるサンサルバドル島に上陸し、アメリカ大陸発見につながりました。15世紀から始まった未開の大陸への進出はスペインとポルトガルが大きな牽引力となり、大航海時代という大きな歴史を作りましたが、両国は新航路開拓、そして海外領土獲得を競い合い、その独占を求めてしばしば紛争が起きました。
コロンブスの新大陸発見によって、ローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)は、スペイン・ポルトガルの勢力範囲の分界線を引くことになりました。これを教皇子午線といい、1493年、アフリカ大陸の最西端にあたるカーボベルデ共和国の西へ約500~550km(西経38度線あたりか?)を教皇子午線とし、その線の東をポルトガル、西をスペインとしました。ポルトガルは、南北アメリカ大陸のうち、南アメリカのブラジル北東部あたりをかすめる程度にとどまりました(外部リンク。wikipediaより引用)。
コロンブスは自身の西航計画を、もともとポルトガルに援助を求めていましたが、当時ポルトガルはアフリカ西海岸への関心が強かったため、コロンブスの要請には応じませんでした。結果的にコロンブスがスペインの援助で計画を達成したことになり、ポルトガルはスペインに遅れをとっていました。
このため陽の当たった1494年6月7日、勢力を均衡させるため、子午線の移動をトルデシリャス(現在のマドリードから北西方面)で協議した両国は、子午線をさらに2000kmほど西に移動することを決め、教皇アレクサンデル6世も承認しました。これにて、ポルトガルにおける南アメリカ大陸のブラジル東部地域が拡大、現在のリオデジャネイロよりやや西の、西経46度あたりの線になります。これを決めた条約がトルデシリャス条約です。
16世紀には、東南アジアのモルッカ諸島における領有をめぐり東経142度あたりの分界線(ニューギニア島の真ん中を通過)も作られました(サラゴサ条約。1529年4月22日)。
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