9月21日は何に陽(ひ)が当たったか?
1792年9月21日は、革命期のフランスにおいて、第一共和政が誕生した日です(1792.9.21-1804.5.18)。
1792年8月10日、フランス国王ルイ16世(位1774-1792)一家がタンブル塔に幽閉された、いわゆる8月10日事件によって、ブルボン王政の停止が決まり、9月20日に国民公会(1792.9.20-95.10.26)が発足、陽の当たった翌日に第一共和政が宣言されました。
国民公会発足時では、上流ブルジョワに支持された立憲王政を唱えるフイヤン派は活躍の場を失い没落していきます。そして議会は右派に中流ブルジョワによって支持された穏健共和派のジロンド派、左派に下流ブルジョワや貧困層らに支持された急進革命派の山岳派(モンターニュ派)などでそれぞれ構成されましたが、やがてジロンド派党員が、フイヤン、ジロンド、山岳諸派を構成してきたジャコバン・クラブから次々と脱退していき、左右両派の対立はより一層激化しました。フランス最初の共和政である第一共和政は1804年まで続きます。
左右の対立激化を加速させた国王ルイ16世の裁判では、政権を握るジロンド派は執行猶予と国民投票を行おうとしましたが、山岳派は国王の即刻処刑を要求しました。この勢いに呑まれ、政権を握っていたはずのジロンド派は結果的に山岳派の主張を抑えることができず、翌1793年1月21日、国王ルイ16世の処刑が執行されることになりました。国王処刑事件は他国に脅威をもたらし、革命戦争に対する警戒心をより深めました。イギリスのピット首相(任1783~1801,04~06。小ピット)は、オーストリア・プロイセン・スペイン・ロシア・ポルトガル・オランダなどにヨーロッパ諸国に呼びかけて、1793年4月、第1回対仏大同盟を結成しました。国民公会は2月にイギリス・オランダ、3月スペインに宣戦、同年末まで戦乱が続きました。
山岳派に圧倒されていたジロンド派は革命戦争を起こして失敗していただけに、国内外で孤立したため、共和政が実現できたにもかかわらず、ジロンド派政府は行政ができる状態ではなく、少数の山岳派議員や民衆の怒りを買うばかりでした。そして国王処刑を機に山岳派に支持が集まり、1793年3月に反革命派・反体制派を裁く革命裁判所が設置され、4月に公安委員会と言われる、事実上の山岳派が主導する中央委員会が発足されます。この公安委員会が革命の中枢となっていき、強力な行政活動を遂行していきました。これによって追い詰められたジロンド派は急転落の一途をたどり、山岳派はジャコバン・クラブ内におけるジロンド粛清にとりかかり、ジロンド派の政治活動が停滞することになりました。ジロンド派の抜けたジャコバン・クラブは山岳派が支配することになり、最左派だった山岳派はジャコバン派の主流となって、過去の広義の革命団体とはもはや異なる、急進的な共和派となっていき、ジャコバン派=山岳派となって、大胆な”恐怖政治“を繰り広げていくことになります。
国民公会政府から総裁政府(1795.11.2-99.11.10)に移っても安定しなかった第一共和政は、軍人ナポレオン・ボナパルト(1769.8.15-1821.5.5)の登場で統領政府(1799.11.10-1804.5.18)にとって代わられ、1804年5月18日、ついにはナポレオンの主導で帝政(第一帝政。1804.5.18-14.4.11、1815.3.20-15.6.22)へと置き換えられ、第一共和政は終焉を迎えました。
引用文献:『世界史の目』より
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