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15世紀、イタリアの都市フィレンツェは、イタリア=ルネサンス(14-16C)の全盛期を迎えていた。メディチ家を中心とする大富豪が、文化人のパトロンとして華やかな文芸復興が展開されていった。これまでイタリアでは、ダンテ(1265-1321。『神曲』)、ペトラルカ(1304-74。『叙情詩集』)、ボッカチオ(1313-75。『デカメロン』)といった作家陣、ジョット(1266?-1337。絵画)、ドナテルロ(1386?-1466。彫刻)、ブルネレスキ(1377-1446。建築)といった美術家陣が初期のイタリア=ルネサンスを彩っていったが、1452年、後にイタリア=ルネサンスの代表として、数々の作品を残し、歴史的な影響を後世に与えた1人の男が、フィレンツェ近郊ヴィンチ村に誕生した。レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452-1519)である。
レオナルドの父は公証人で、家庭は非常に裕福だったと言われる。14歳の頃、レオナルドは、フィレンツェで美術家ヴェロッキオ(1435-1488)が営む工房に入り、ヴェロッキオを親方に、自身は画家見習い(徒弟)として修業を積むことになる(1466-72)。この時代、レオナルドはのちに『ヴィーナスの誕生(1488)』の作品を残す画家ボッティチェリ(1444/45~1510)と友人関係となる。また同門にペルジーノ(1446-1523)がいたが、彼はのちに聖母子像画家として有名になるラファエロ(1483-1520)を育て上げる。
レオナルドは、修行期間の修了後、本格的に創作に取りかかった。ヴェロッキオ工房で『キリストの洗礼』を助手として共同制作を行ったが(1472-75)、この時ヴェロッキオは、レオナルドの描画を見て、その出来映えに驚愕し、これ以後ヴェロッキオは絵筆を断ち、絵画はレオナルドに任せ、専門である彫刻に専念したと伝えられている。
その後レオナルドは1480年に独立を決意して、スフォルツァ家が統治するミラノに移り、摂政ルドヴィーコ=スフォルツァ(1452-1508。のちのミラノ公ルドヴィーコ=イル=モーロ。位1494-1499)の招きで同家に仕え(1482-99)、自身の工房を開業した。そこで『岩窟の聖母(1483-86)』『白貂を抱く貴婦人(1483-90)』『最後の晩餐(1495-98)』といった名画を発表した。特にミラノのサンタ=マリア=デル=グラツィエ聖堂の食堂壁画として描かれた巨大な『最後の晩餐』には、イエスが受難前に12人の弟子たちと夕食をとる中で、イエスはパンと葡萄酒をとり、"これは私の体であり、私の血である"と言った聖餐の儀式が描かれている(聖餐とはキリスト教の秘蹟の1つ。秘蹟とはサクラメントともいい、イエスによって定められた恩恵を受ける手段と方法であり、聖餐以外に洗礼・堅信・塗油・結婚など6つの秘蹟がある)。この画では一点透視図法が用いられており、中央のイエスの奥に全ての点が集中する遠近法で、12人の弟子が3人ずつ分かれ、ほぼ均等に配置されている。
レオナルドは絵画だけではなく、『スフォルツァ騎士像』といった青銅の大騎馬像の制作も行ったが、彼の才能は美術分野だけには留まらなかった。ミラノ移住後、彼は美術を極めるために、終生において様々な学問や技術を研究・習得することになる。それは、絵画を極めるためには、描く対象のすべてを知ると言うことであり、対象の形や動作など、美術制作活動の中でおこった数々の疑問をすべて解決することで、真の美術が達成されるということである。人や動物を描く際に、レオナルドは解剖学を身に付けようとし、動物解剖実験に成功後、人体における解剖学を追究する。また紀元前1世紀におけるローマ帝国の建築家ウィトルウィウス(生没年不明)が著した『建築論』の中に"人の体は円と正方形に内接する"という主張があり、レオナルドはこれに基づいて『ウィトルウィウス的人体図』を描いた(1490頃)。重ねられた円と正方形の中に、足を閉じて直立し、直角に両腕を伸ばしている人と、両腕を30度ほど上げ、両足を伸ばしたまま左右30度ほど広げ、大の字形になっている人が重ねて描かれている。描かれた人が両腕を伸ばすと、円周と四辺に正しく接し、人体を大の字形にすると、腹部が円の中心となるというものである。
またレオナルドは機械分野で、物理学を駆使し、ヘリコプター・飛行機・自動車・船・織機などの開発を行った。また当時はイタリア支配をめぐって、フランスやドイツが干渉する時代であったため(「Vol.40イタリア戦争」参照)、レオナルドは、ボーガン・マシンガン・投石機・大砲・装甲車・爆弾など様々な戦術兵器を研究・開発した。その他、水の運動や、湿度計・風力計の原理を研究、土木学では運河の設計なども行った。彼の習得した学問は他に数学・天文学・生物学・地質学・土木建築学・地理学・音楽・哲学などにも及び、まさに"万能の天才"として世に知らしめたのである。
1498年、フランスではヴァロワ=オルレアン家のルイ12世(1462-1515)がフランス王として即位すると(位1498-1515)、フランスのイタリア遠征が再開された。翌1499年の侵攻により、ミラノ公ルドヴィーコ=イル=モーロはミラノを追われ逃走、ミラノ陥落によりスフォルツァ家は没落した。このためレオナルドは1500年、ミラノを後にしてフィレンツェに戻った(1500-06)。
レオナルドの功績は、フィレンツェにおいても高く評価された。彼はローマ教皇アレクサンデル6世(位1492-1503)の庶子であるチェザレ=ボルジア(1475-1507)の下で軍事関係の職に就いたが、ボルジア失脚に伴い短期間で退いた。この時代にレオナルドはマキャヴェリ(主著『君主論』。権謀術数理論であるマキャヴェリズムを主張。1469-1527)らとロマーニャ地方(現エミリア=ロマーニャ州のアドリア海方面)に赴いている。
1503年、レオナルドは、『モナ=リザ』の制作に取りかかった。謎めいた微笑みで知られるこの作品には、スフマート手法(ぼかし技法。塗り重ねて輪郭を曖昧にさせ、自然な立体感を出す陰影表現)や空気遠近法が取り入れられている。
1505(06?)年に完成したこの『モナ=リザ』は、フィレンツェの女性をモデルとしているが、"モナ=リザ"という名は後世の愛称として定着しているだけで、描かれた貴婦人の正体は謎である。フィレンツェの富豪ジョコンダ家の夫人とも、ミラノ公妃とも、レオナルドの母親像とも、または男性像、さらにはレオナルド自身の自画像とも言われているが、『ジョコンダ像(ラ=ジョコンダ)』の別称があるように、一般にはジョコンダ夫人像説として扱われている。ジョコンダ夫人は"エリザベッタ"といい、リザと呼ばれていたらしい。モナは"婦人"をあらわす敬称である。
ルネサンス期の肖像画は、その肖像の容姿や髪形、またその背景によって、その人物が誰であるか、どのような生き方をした人物かをおおよそ特定することができるが、『モナ=リザ』に至っては、500年を経た現在においても、いまだ特定できないでいる、まさに謎めいた肖像画なのである。通常肖像画には描かれない遠近法を用いた退廃的な背景、やや薄いベールを被った髪形と黒い衣服(喪服?)、どれも時代や場所、人物を特定できるものはないとされている。また、眉毛が描かれていないことから来る未完成説、右手が左手より大きく描かれていることから来る妊婦像説(腹部が出ているため右手が前に出ている説。実際は絵全体のバランスを考え、遠近法を用いたためであるとされる)などがあり、こうした多くの謎が、大いなる関心と新たな魅力を引き出していると言えよう。
レオナルドが『モナ=リザ』を描いていた時、フィレンツェでは彫刻家であり、画家でもあるミケランジェロ=ブオナロッティ(1475-1564。絵画『天地創造』『最後の審判』・彫刻『ダヴィデ』『モーゼ』『ピエタ』)も活躍していた。レオナルドにとって、25歳年下のミケランジェロはライバルであった。実はレオナルドは、この時期、フィレンツェ市庁舎パラッツォ=ヴェッキォの会議室で、『アンギアリの会戦』の壁画制作を依頼されていたが、翌年相対する壁には、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』の壁画制作を依頼された。絵画の競い合いとなり、市民も大いに関心を寄せたが、結局双方共に未完となった。レオナルドは技法ミスで断念し、ミケランジェロの方は、ローマ教皇ユリウス2世(位1503-13)の墓廟設計依頼があったため、壁画制作は下絵のみに留まり、結局挫折したとされている。
その後レオナルドは再度ミラノに訪れ、フィレンツェとミラノの往来を繰り返した(1506-08)。その間に弟子フランチェスコ=メルツィ(1493-1570)と知り合うが、レオナルドは、彼を弟子として、良き後継者として、また養子として慕った。この時代、レオナルドはルイ12世に庇護され、作品『聖アンナと聖母子』が生まれている。
メディチ家ロレンツォ(ロレンツォ=デ=メディチ。1449-92)の次男であるレオ10世(1475-1521)は、ユリウス2世没後ローマ教皇に即位した(位1513-21)。即位後、レオ10世はレオナルドをローマへ招き(1513)、レオ10世の弟ジュリアーノ=デ=メディチ(1478-1516。ロレンツォの弟も同名であるが別人)の保護を受けて、最後の傑作『洗礼者ヨハネ』を描いた。この頃、ミケランジェロやラファエロもローマに滞在しており、特にラファエロはブラマンテ(1444-1514。建築家)没後にサン=ピエトロ大聖堂の修築主任として活躍していた。レオ10世は1516年、イタリア戦争に敗れたフランス王フランソワ1世(ルイ12世没後即位。位1515-47)とコンコルダート(宗教協約。国家と教会が締結する協約)を結び、対立していた教皇庁とフランスの関係が緩和したが、こうしたことから、レオナルドはジュリアーノ=デ=メディチの死去に伴い、フランソワ1世の招きで、遂にメルツィとフランス入りした。彼らはフランソワ1世によりアンボワーズ(パリ南西)近くのクルー城館を与えられ、そこで余生を過ごした。『モナ=リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』がパリのルーヴル美術館に保存されているのは、フランソワ1世がレオナルドのパトロンであったためで、特にこの3作品は入念に保管され、フランス移住後もレオナルド自身が手放さなかったためである。
1519年5月2日、レオナルド=ダ=ヴィンチは、同城館にて、67歳で死去、アンボワーズのサン=フロランタン教会に埋葬された。現在レオナルドの墓は暴かれて遺骨は行方不明となっている。レオナルドの遺言によって、彼の描法・作品・手記・その他資産は、愛弟子フランチェスコ=メルツィに相続された。その後のフランスでは、イタリアに遅れて、ルネサンスが全盛期を迎える。
遂にこの日がやってきました。「Vol.1 マゼランの世界周航」で始まって2年と1ヶ月、まさか100回も続けられたなんて、夢にも思いませんでしたが、これもひとえに「高校歴史のお勉強」を支えてくださった皆様方のお陰だと思っております。真に心から感謝致します。初回から5回ぐらいまでは、印刷してもせいぜい10行足らずの短い文章で行いましたが、第6回以降は、ダラダラと長文ばかり並べてしまって、さぞ読みにくい時もあったかと思います。大変な拙文で申し訳なかったですm(_
_)m。
なぜ100回目にダ=ヴィンチのお話をご紹介したのかと言いますと、これもだいたい90回目あたりで、構想を温めていたのですが、実は記念すべき第1回であります「Vol.1 マゼランの世界周航」と何らかの形でリンクさせようとした所から始まりました。「Vol.50 コロンブス」では、第1回と同じ"大航海時代"つながりだったわけですが、第100回とのリンクは、なんだかお分かりですか?
実は、マゼランの世界周航に出発した年が1519年9月20日であります。この4ヶ月と少し前、今回ご紹介しましたレオナルド=ダ=ヴィンチが亡くなっているのですね。第100回目の主人公の死後の出来事は、第1回目に戻るという、少々大袈裟で無理矢理なこじつけでした。
さて100回目の学習ポイントですが、ルネサンス時代に登場した人物や作品群は、こちらを参照してください。3大巨匠と呼ばれたダ=ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの3人は、世界史学習でなくとも、一般常識として覚えてもらいたいですね。その中で、"万能の天才"と呼ばれたダ=ヴィンチですが、受験世界史で登場する内容では、『最後の晩餐』と『モナ=リザ』の作品ぐらいです。余裕があれば、イタリア戦争に敗れたフランソワ1世が彼を庇護したことも覚えておけば、ダ=ヴィンチ関係は大丈夫でしょう。
『最後の-』つながりでは他に、ミケランジェロの『最後の審判』が有名です。バチカン宮殿にあるシスティーナ礼拝堂の正祭壇背面壁画に『最後の審判』、天井画には『天地創造』が描かれていることで有名です。ミケランジェロは彫刻として『ダヴィデ』『モーセ』の大理石像も知っておきましょう。ラファエロは、ダ=ヴィンチが没して、その翌1520年4月6日に、37歳の若さで没しています。聖母子像関係の絵は彼の作品だと思えばいいでしょう。
『モナ=リザ』には、"謎の微笑"を代表として多くの逸話・諸説を生んだ作品として有名ですが、レオナルド=ダ=ヴィンチ自身の七不思議の1つとして、彼の記す鏡文字があります。受験には登場しませんが、なぜか、彼の手記は字が反転されています。利き手は左だったそうですが、これと何か関係があるのでしょうかね?まったくのナゾです。また生涯独身であった理由、遺骨が暴かれて行方不明になっていることなど、彼自身にもナゾが多いです。また日本における"万能の天才"は、エレキテル、寒暖計、火浣布(かかんぷ。燃えない布)の発明や、製糖法・鉱石鑑定・朝鮮人参と甘藷の栽培などで有名な平賀源内(ひらが・げんない。1729-79)とされていますが、源内はダ=ヴィンチよりも約250年後の時代の人物であるにせよ、偉人という名にふさわしいですね。
さて、2年間連載して参りました「高校歴史のお勉強」、しばらく更新をお休みします。どうぞご了承下さい。毎週ご覧頂いていた皆様とはしばしのお別れになりますが、次回101回目の登場は春先の予定(2007年4月中旬)にしております。だいぶ間があきますが、必ず再開しますので、あきらめずに期待していて下さい。それでは、良いお年を!!