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中国・清朝(しん。1616-1912)の黄金時代を現出した、康煕帝(こうきてい。順治帝の第3子。聖祖。せいそ。位1661-1722)・雍正帝(ようせいてい。康煕帝第4子。世宗。せいそう。位1722-35)・乾隆帝(けんりゅうてい。雍正帝第4子。高宗。こうそう。位1735-95)の3皇帝の時代(康煕・乾隆時代)、特に康煕帝と雍正帝の時代では、文化面・社会面で大いなる盛況ぶりを示した。要因としては、当時のヨーロッパにおける社会や文化からの影響が大きかった。
ポルトガル王国(首都:リスボン。1143-1910)がヴァスコ=ダ=ガマ(1469?-1524)の功績によりインド航路を切り開いてから(1498)、ポルトガル人のアジア来航は頻繁に行われた。ポルトガルの香辛料を求めたアジア貿易は、1505年セイロン(スリランカ)、1510年インド西岸(マラバル海岸側)のゴア、1511年には東南アジアのマラッカなどを占領、特にゴアはインド総督アルブケルケ(1453-1515)の活躍で同地をポルトガルのアジア活動の拠点とした。
さらにポルトガルは1517年、中国来航を果たした。広東(カントン)の広州(こうしゅう)に来航したポルトガル人は、北京入京後、当時の明朝(みん。1368-1644)の皇帝・正徳帝(せいとくてい。武宗。ぶそう。位1505-21)に謁見、寧波(ニンポー)・廈門(アモイ)に商館を設置、貿易を開始した。明には鎖国思想があり、海禁・朝貢貿易重視という徹底した姿勢であるため、本来なら海外貿易は実施不可能ではあった。しかしこれに不満をもった中国・日本人の商人や海賊が倭寇行為(わこう)を頻繁に起こし、貿易体制が不安定となっていった。このため、1557年、明朝はポルトガルに倭寇討伐の協力を要請し、倭寇を鎮めた。ポルトガルはこの代償としてマカオ居留権を明朝政府から受け、ここでの居住を許可されたのである。こうしてポルトガルと明朝間に交易が始まった。さらにポルトガルは日本にも積極的に進出、1543(1542?)年、日本の種子島(たねがしま)に漂着して鉄砲を伝え、1550年の平戸(ひらと)来航を経て、1571年以降、長崎を拠点に南蛮貿易として栄えていく。
この中国・ポルトガル間の貿易は、商業分野に限らず、文化面・社会面における交流も積極的であった。さらには、アジア各地に来航するポルトガル商船には、キリスト教の宣教師も乗船していた。
ヴァスコ=ダ=ガマの言葉にある「キリスト教の布教と香料」の実践であった。キリスト教のアジア伝道は、ヨーロッパの関心事であり、また狙いであった。
当時のヨーロッパはローマ教皇・パウルス3世(位1534-49)の時代であったが、ヨーロッパの旧教勢力(カトリック)は、新教勢力(プロテスタント)による宗教改革への対抗と、ローマ教皇の権威の復活を目指して、反宗教改革を起こしていた。この一環として結成されたのが、イエズス会(ジェズイット教団。耶蘇会。やそ)である。
スペインの貴族軍人だったイグナティウス=デ=ロヨラ(1491-1556)は、1521年フランスとの戦争で戦傷を負い、それがもとで回心、イェルサレム巡礼を行い、パリで勉学に励んだ。そこで同郷のフランシスコ=ザビエル(シャヴィエル。1506-52)ら6人と知り合い、彼らと共に、清貧・貞潔・教皇への絶対服従を理念に修道会結成案が持ち上がり、1534年、イエズス会は組織された。1537年、ロヨラは司祭となり、1540年にはパウルス3世のイエズス会としての活動の認可を受け、翌年ロヨラは総会長に就任した。
ローマ教皇の権威を復活させるために結成されたイエズス会は、海外布教、それも新天地への伝道を最も重要な活動として展開していった。ザビエルは、ポルトガル王国アヴィス朝(アヴィシュ朝。1385-1580)君主・ジョアン3世(1521-1557)の要請でインド布教を命じられてゴアへ向かい(1542)、セイロン・マレー諸島・マラッカ・モルッカ諸島(マルク諸島。"香料諸島"の異名があるインドネシア東部の諸島)での布教をおこなったが、1546年マラッカで日本人弥二郎(やじろう。アンジロー。?-1551?)と知り合った。ザビエルは弥二郎をゴアの聖パウロ学院に送り、弥二郎は1548年に受洗、日本人最初のキリシタンとなり、名を"パウロ=デ=サンタ=フェ"と称した。ザビエルは弥二郎と出会ったことで日本伝道を志し、翌1549年鹿児島へ上陸、日本のキリスト教伝来がもたらされた。
日本には中国文化の影響が見られると感じたザビエルは、日本のキリスト教国化には、まず中国布教が必要だと判断して一度ゴアに戻って計画を練り直し(1551)、翌1552年に広州沖の上川島(じょうせんとう)に到着したが、長旅からくる過労と、鎖国策をとる明朝政府から入国を拒否されたショックからか、高熱を患い、46歳で病没した。ザビエルの中国伝道の夢はかなわなかった。
ザビエルの志を継いだのがイタリア人宣教師のマテオ=リッチ(1552-1610。利瑪竇。りまとう)である。1578年、ゴアに派遣されたリッチは、しばらくインド布教を行っていたが、1582年、マカオへ赴き、同地で中国語と中国における社会と文化を学んだ。彼は『天主実義(てんしゅじつぎ)』を著してカトリック教義を漢文に翻訳(1595)、自身を"利瑪竇"と名乗り、中国の儒学者の衣服を着用、広東地方を転々とした。さらに皇帝・万暦帝(ばんれきてい。神宗。しんそう。位1572-1620)の布教許可を得るため、1601年北京に入った。
儒教では、君主という概念を"天帝"・"上帝"と表すが、リッチらはこれらを、キリスト教の神"デウス"と重ね、"デウス"を"天帝"・"上帝"と解釈した。さらに、儒教の祖・孔子(こうし。B.C.551-B.C.479)の崇拝や祖先崇拝(霊前で香をたいて祈る等)といった伝統的儀礼(儒教の典礼)は、宗教的儀式ではなく世俗的な行事として黙認し、一方で、洗礼の際に行う塗油の儀式などは中国では不適だと感じたことで、あえてキリスト教独自の儀式に対しての強制は行わなかった(リッチ方式)。
また中国には西洋学術(地理・数学・天文学)や西洋技術も紹介し、同国では好意的に受け入れられた。北京入京後、万暦帝に謁見したリッチは、自鳴鐘(じめいしょう)と呼ばれる西欧式時計や西洋楽器などを献上し、好意的に受け入れられた。
リッチは1602年、6枚1組の世界地図『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』を刊行、はじめて世界の大きさを知った中国の知識人階級に大きな影響を与えた。特に中国の政治家・学者であった徐光啓(じょこうけい。1562-1633。著作『農政全書』)は感銘を受け、翌年キリスト教の洗礼を受けた。
徐光啓は翌1604年科挙試験に合格、進士として翰林院(かんりんいん。詔書起草機関。皇帝顧問機関)に出仕、リッチの教えを受けて、古代ギリシア数学者のエウクレイデス(ユークリッド。生没年不明)の幾何学書『幾何学原論』の前半部を、リッチの口訳と徐光啓の漢文記述という共同作業で完成させた(1607)。これが『幾何原本(きかげんぽん)』である。
リッチは1610年、北京で没し、ゴアに葬られた。リッチの活躍で、明末清初の時代には多くの宣教師がヨーロッパ各国がら訪れるようになる。1622年に陝西省西安(せんせいしょう。シーアン)に到ったドイツ人イエズス会宣教師・アダム=シャール(シャル=フォン=ベル。中国名"湯若望"。とうじゃくぼう。1591-1666/68?)は1627年、北京で布教活動を行い、明朝最後の皇帝・崇禎帝(すうていてい。毅宗。きそう。位1627-44)に謁見した。そこで礼部(六部の1つ。教育担当)にいた徐光啓と接触、彼との共同作業で、西洋暦学書を翻訳(徐光啓は1633年に没)、集成した135巻の『崇禎暦書(すうていれきしょ)』を帝に上呈(1642)、また天体観測技術や大砲技術も紹介した。1644年の明朝滅亡後、シャールは『崇禎暦書』を改訂、『時憲暦(じけんれき)』として再刊行した(1645)。清朝・順治帝(じゅんちてい。世祖。せいそ。位1643-61)の治世下、シャールは欽天監(きんてんかん。天文台のこと)の監正(長官)に任じられた(1646)。その補佐をしたのがベルギー出身のイエズス会宣教師・フェルビースト(1623-88。中国名"南懐仁"。なんかいじん)である。
シャール没後、フェルビーストは、生涯を欽天監に捧げ、清朝最大の皇帝といわれる康煕帝(こうきてい。聖祖。せいそ。位1661-1722)に天文学や数学を進講、1674年、リッチの『坤輿万国全図』をさらに発展させた『坤輿全図』を発表した。また大砲鋳造を促し、三藩の乱(さんぱん。1673-81)の際には大小の大砲120門を鋳造、この功績で工部侍郎(こうぶじろう。工部の次官。工部は六部の1つ。土木・建設担当)の称号を与えられた。
フランス人のイエズス会宣教師も中国に派遣された。ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ14世(太陽王。位1643-1715)の命で派遣されたブーヴェ(1656-1730。"白進"。はくしん)は、1685年北京に到着、康煕帝に仕え、幾何学・暦学・天文学・医学などを進講した。また康煕帝はブーヴェに命じてフランスへ帰国させ、ルイ14世へ49冊の漢籍を贈呈するなど、フランスの大君主との交流も実現させた。ブーヴェは帰国の際、『康煕帝伝』を著してフランスで刊行、これにより、同国でシナ学やシノワズリ(中国趣味)が大流行し(17-18C)、啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778)、経済学者ケネー(1694-1774。主著『経済表』。中国古来の農業思想が一部採り入れられた重農主義を主張)らに影響を与えた。またドイツにも伝わり、哲学者ライプニッツ(1646-1716)は宣教師の翻訳を通じ、朱子学を解釈、その一部は彼の大成したモナド論(単子論)と関係があるとされている。また科挙制度を模範とした高等文官の試験制度がフランスで制定され、さらにブルボン朝の宮廷には中国の陶磁器や織物などが飾られていった。
康煕帝は正確な中国地図をブーヴェに命じた(1708)。ブーヴェは同じフランスのイエズス会宣教師であるレジス(1663-1738。中国名"雷孝思"。らいこうし)らとともに大規模な測量調査を行い、1717年になってようやく中国初の実測地図、『皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』を完成させた。
東西文化の交流が盛んとなった清王朝は、さらに西洋画法や西洋建築の知識を欲した。そこで登場するのが、イタリア人画家カスティリオーネ(1688-1766。中国名"郎世寧"。ろうせいねい)である。ミラノ出身のカスティリオーネは、イエズス会入信後、1715年、北京に入った。康煕帝・雍正帝・乾隆帝と、清朝の黄金時代を現出した3皇帝に仕え、写実法・遠近法・明暗法といった油絵の技法を伝え、中国絵画に革命をもたらした。一方でカスティリオーネ自身は中国古来の画法をとりいれ、絹地に水絵具を使用した。また彼は建築設計家としても名高く、離宮・円明園(えんめいえん。北京郊外)内の宮殿や庭園など設計にも携わった。西洋バロックと中国建築様式を折衷したこの離宮は、乾隆帝の時代に大規模に補修され、地上の偉観とされた。カスティリオーネは、離宮でくつろぐ乾隆帝の姿を描画に残している。またカスティリオーネが紹介した西洋画法は、陶磁器にも影響が及び、名産地である景徳鎮(けいとくちん)などで作られた"洋風連瓶(れんぺい。2個の瓶が結合した形)"の表面にその画法が紹介された。
こうしてイエズス会宣教師は、主目的である中国布教だけでなく、東西両面に渡って社会的・文化的に大きな活躍をしていったが、宗教的倫理観に関して、ある問題が浮上していった。
中国南方に住むキリスト教徒が、家族内の信仰上のことで裁判沙汰になったり、キリスト教会の焼打ちや教徒迫害といった問題や事件が発生し始めたのである。もともと、西ヨーロッパの、ローマ教皇の統制下におかれたカトリック教義やキリスト教儀礼は、中国の儒教的倫理や伝統的慣習と交えることができず、中国の典礼を黙認して、リッチ方式を採り入れざるを得なかった。中国のならわしを重視するために、西洋では最も普通に教えられているキリスト教の教義をあえて内容変更して中国に伝えたことは、完全なる布教とは言えなかったのである。これを主張したのは、イエズス会宣教師より遅れて清朝に赴いたフランチェスコ修道会(1209年にイタリアのアッシジで創始された托鉢修道会)やドミニコ修道会(1215年にスペインで創始された托鉢修道会)の宣教師たちであった。イエズス会布教の成功が嫉妬心として燃え上がった彼らは、イエズス会の布教方法はキリスト教の教義に違反し、さらには神への冒涜であるとして、ローマ教皇に訴えた(典礼問題)。
ネルチンスク条約(1689)締結の際もフランス人のイエズス会宣教師が顧問として協力してくれていたこともあり、康煕帝は政治的感覚で、イエズス会宣教師を擁護する姿勢を示した。しかし、時のローマ教皇クレメンス11世(位1700-21)は1704年、「教皇憲章」を発布、遂にイエズス会宣教師の布教活動を異端とし、禁止した。
康煕帝はこの決定に激怒し、イエズス会宣教師以外の宣教師による伝道と入国を禁じ、国内の典礼否認宗派の宣教師を国外へ追放した。そして、雍正帝の時代にあたる1724年、中国におけるキリスト教布教の全面禁止が王命によって出された。日本のような徹底ぶりはなく緩い王命であったが、事実、布教は挫折していった。しかしカスティリオーネは、彼の描画技術に対しては雍正帝から非難を受けることはなく、むしろ讃えられ、彼の存在は守られた。イエズス会は乾隆帝即位後、帝室にいるカスティリオーネを唯一の切り札として布教解禁を願ったが、王命である以上、これは認められなかった。イエズス会は西ヨーロッパにおいても、教皇の権力によって次第に非難の的となっていった。時のローマ教皇クレメンス14世(位1769-74)は教皇権威の回復からイエズス会を見捨てる決断を下し、1773年、遂にイエズス会は解散した。
乾隆帝没後、清王朝は徐々に内憂外患の形態を為し、1840年にはイギリスとアヘン戦争で戦うも大敗を被り、不平等な南京条約を結ばされた(1842)。イギリスは南京条約締結後の中国に対する商業利益のさらなる向上と、南京条約をさらに優位に立たせるため、新条約締結を目指して、アロー号事件(1856.10.8。英船籍を名乗る中国船アロー号が広州港外に停泊中、清朝官憲が、アロー号船長であるイギリス人を海賊容疑で臨検、中国人船員12名が逮捕され、イギリス国旗が引きずり降ろされた事件)を口実にアロー戦争(1856-60。第二次アヘン戦争)を引き起こすが、同時に共同出兵に動いたのは、かつて康煕帝時代に文化交流を築いたフランスであった。すでにブルボン朝時代はフランス革命(1789-99)で勢いをなくし、今はナポレオン3世(位1852-70)の第二帝政(1852-70)の時代である。1856年2月、広西省でフランス人宣教師シャプドレーヌ(1814?-56)が官憲に殺害されたのが口実となり、出兵となったのである。1858年に清朝は天津条約(てんしんじょうやく)を締結、外交公使の北京駐在、長江開放、外国人の内地旅行の自由化、開港場増加、アヘン貿易公認、それに賠償金に加え、キリスト教の公認と保護を認めさせられた。
この天津条約に対して、清朝内部の反対が強まり、翌1859年、批准交換のため入京しようとした英仏全権の艦隊が大沽(タークー)で砲撃され、英仏軍は再び遠征軍を送り、北京にも迫った。この時、フランス軍は、あのカスティリオーネが設計に加わった円明園に進駐、宮殿内の豪華な資産をことごとく略奪、ついで進駐したイギリス軍は、清軍によって捕虜となり、虐殺された自軍の兵の遺体を目にして激怒、報復により宮殿を放火、円明園は廃墟と化した(円明園破壊。1860.10)。天津、北京を占領した英仏連合軍は、天津条約の追加条約として北京条約を締結(1860.10)、賠償金の増額、天津開港、九龍半島一部を割譲が新たに約され、天津条約の内容もいっそう念を押された。つまりキリスト教の布教の自由が決定的となった。
中国儒教の典礼を受容したイエズス会の布教全盛期とはまるで違っていた。西ヨーロッパ国の強引な条約に基づいて、キリスト教宣教師は次々と中国を訪れ、中国の慣習伝統を無視してキリスト教の典礼を中国人に広めようとした。しかし昔日の面影のない清朝では、1856年のシャプドレーヌ事件以来、キリスト教の排斥がやまず、仇教運動(きゅうきょう。反キリスト教運動)となって、宣教師や信者に対する殺傷事件や、教会の焼打ちなどが相次いだ。布教の自由化に至る以前でも四川や貴州などで非合法に布教が行われ、信徒の数も維持していたが、天津条約によって内地への伝道が認められると、戦勝国としての勢いを背中に、公然と多数の宣教師が伝道を始めた。すると、地方の仇教派である郷紳(きょうしん)は、宣教師の弾圧を始めるようになったのである。酉陽(ゆうよう。四川省)、貴陽(きよう。貴州省)、南昌(なんしょう。江西省)、衡州(こうしゅう。湖南省)などで多くの宣教師が迫害の標的にされた(1861-65)。こうした仇教運動に代表される、中国でキリスト教関連の事件を教案(きょうあん)という。
中国におけるこのような教案は激しさを増し、1870年の天津教案(フランス教会・望海楼教堂が経営する孤児院での幼児誘拐・虐待疑惑で、フランス領事や教会関係者、中国人信者らが、天津住民によって多数虐殺された事件)をはじめ、1874年から76年にかけておこった四川の教会弾圧事件、1886年の重慶の教会襲撃、1891年の長江流域教案などが相次いだ。なかでも、1897年、山東省で起こったドイツ宣教師殺害事件(秘密結社大刀会"だいとうかい"による)は、ドイツがこの事件を口実として中国分割に加わって進出するきっかけとなり、結果1897年膠州湾(こうしゅうわん)は占領、1898年、同湾を99ヵ年の期限で租借、青島市(チンタオ)は東洋艦隊の基地となってしまった。清仏戦争(1884-85)や日清戦争(1894-95)の敗北もあって中国大陸は、瞬く間に帝国主義列強の餌食となり、同1898年、ロシアは旅順・大連を、イギリスは九龍半島と威海衛(いかいえい)、フランスは広州湾を、それぞれ租借していった。また各地における鉄道敷設権や鉱山採掘権も奪われていった。
帝国主義列強のこうした大陸分割は、中国民衆の圧迫へとつながっていった。政府への不信感が仇教運動へ凝固したとも言える。1898年のドイツの山東進出を機に、大刀会のみならず、やがて同地で多くの秘密結社や武術組織を発生させていった。仇教運動はやがて猛烈な排外感情を生みだし、"扶清滅洋(ふしんめつよう)"・"除教安民(じょきょうあんみん)"といったスローガンを生み、外国人排斥運動へと発展していく。この代表が、白蓮教の分派ともされ、山東教案として挙げられていた義和団であった。義和団も仇教運動の一組織であり、キリスト教を敵とみなし、教会焼打ちや宣教師・教徒大量殺害を各地で起こしていた。北京入城後も教会攻撃やドイツ公使、日本書記官を殺害した(1900.6。北清事変)。結局8月に8ヶ国(日露英米独仏墺伊)が共同出兵し、北京議定書(1901.9.7。辛丑和約。しんちゅう。列強の北京駐留などが決定)の調印で和議となり、義和団も鎮圧された。
東西文化交流の開化をもたらしたイエズス会宣教師の中国布教は、典礼問題が浮上して以降は時代が大きく変わり、中国に来たキリスト教宣教師は立て続けに悲惨な事件に巻き込まれていった。そればかりか、東西文化交流も昔の話となり、西諸国は強力な工業力と財力を兼ね備えた帝国主義列強として、中国大陸を食いつぶしていった。現在の中国では憲法で信仰の自由を保障しているが、政教分離の方針が徹底して貫かれている。人口の多い国だが、宗教信者数は全人口の12%程である。その中のカトリック信者は350万人、プロテスタントは1000万人ほどであると言われている。これは政府統制下におかれた教会で登録されている教徒の人数であるが、実際は、登録を避け、地下活動として信仰している信者も少なくなく("地下教会")、その数は登録数よりも多いと言われる。文化大革命(1966-76。プロレタリア文化大革命。文革)の時代に政府の宗教弾圧が高められていたこともあって、その後もしばしば迫害の標的となっているようである。
中国にもたらされたキリスト教は、今後、どのような動向を辿っていくのであろうか。
連載99作品目は、Vol.95の時にお話ししたとおり、中国のキリスト教布教関連について、ご紹介致しました。古くは唐代、ネストリウス派キリスト教が、中国名・景教(けいきょう)として635年にペルシア人に伝えられました。781年には長安の景教寺院である大秦寺(たいしんじ)の中に大秦景教流行中国碑が建てられました。景教はその後弾圧を食らい衰えましたが、その後明代にこの石碑が土中から発見され、イエズス会宣教師によってヨーロッパに紹介されて有名となりました。
元代では、Vol.95でも述べましたが、カルピニ(1182?-1252)やルブルック(1220?-93?)など、多くの使節が訪中してカトリック布教が始まったとされています。
そして、本編に登場した明清時代のイエズス会宣教師の布教(当時のカトリックは"天主教"と呼ばれます)によって、全国普及となるわけですが、これがやがて王朝を揺るがしたり、大戦争につながったりなどして、歴史を大きく変えてしまうのですね。ことの発端は、典礼問題論争にあるわけですが、これがなければ、ひょっとすれば東西文化交流は康煕帝とルイ14世間の交流以降も促進されていたかも知れません。明清時代にやってきた宣教師たちは、単に布教するだけでなく、西洋の学術・技術を身に付けた人たちでありましたから、多くの知識人階級や、エンジニアなどを革命的に生んだことが特筆されるべき点だと思います。
さて、今回の学習ポイントです。まず、イエズス会宣教師の活躍はよく出題されますので、以下に挙げた宣教師は知っておきましょう。宣教師の名前は本名と、できれば中国名も。国籍と関わった事業は暗記事項です。イグナティウス=ロヨラとフランシスコ=ザビエルは、反宗教改革の分野で登場します。
<明代>
<清代>
雍正帝によってキリスト教の布教が全面禁止になってから、天津条約・北京条約の強引締結にいたるまでは、中国でのキリスト教は地下活動を強いられています。これも大事です。アロー戦争にナポレオン3世率いるフランスが参戦したのは、フランス人宣教師殺害事件がきっかけであること、またドイツの山東省に進出して、膠州湾を租借したのは、ドイツ人宣教師殺害事件がきっかけであることも重要です。ちなみに義和団事件で叫ばれた"扶清滅洋"と、太平天国の乱(1851-64)で叫ばれた"滅満興漢"は区別しておいて下さい。
さて、2004年8月31日にスタートしたこの「高校歴史のお勉強」も、いよいよ次回は100回目です。どうぞご期待下さい。