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欧米列強の植民地支配は19世紀末から始められていたが、中でも1880年代に始まる列強のアフリカ分割は、列強の激しい争奪戦が展開された。ヨーロッパは、アフリカ大陸を"暗黒大陸"と称したように、探検や未開地開発が行われるまでは、奴隷貿易だけに関心を向けており、その地に独自のアフリカ人文明が築かれていることかどうかも知られていなかった。その後イギリス人宣教師リヴィングストン(1813-73)やアメリカ新聞記者スタンリー(1841-1904)の探検によって明らかとなって以降、アフリカ大陸は、分割の対象となり、次々と列強の餌食となっていった。
イギリスはエジプト保護国化(1882)達成後、ナイル上流のスーダンにおいて、前年よりムハンマド=アフマド(1844?-85。"神により正しく導かれた者"や"終末に正義を復活させる救世主"を意味するマフディーを称した人物)によっておこされているマフディーの乱(1881-98)の鎮圧に取りかかった。しかしスーダンにおけるこのようなイスラム勢力の反英聖戦(ジハード)は、イギリスのゴードン将軍(1833-85。太平天国の乱やアロー戦争で活躍)をスーダン中部のハルツームで戦死させ、イギリスは彼らの強力な抵抗によりなかなか先に進出できないでいた。聖戦はマフディーであるアフマドの病死で少しずつ衰えをみせ、その後はゴードン救出に出ていたキッチナー将軍(1850-1916)によって徹底鎮圧を図った。キッチナーはエジプト軍司令官に任命後(1892)、1896年スーダン進出を断行、1898年、マフディーの乱を終結させてハルツームを占領した。
アフリカ大陸北方を攻める一方で、イギリスは大陸南方にも進出した。南アフリカのケープ地方は、もともとオランダ領であったが(オランダ東インド会社による)、ウィーン議定書によってイギリスの植民地となっていた(1815)。
ケープ地方は、ブーア人が多く定住していた。オランダ系の白人移民の子孫と称するブーア(ブール、ボーア)人は、ユグノーも多く、アフリカーナーとも呼ばれる。アフリカーナーは、もともと"アフリカ生まれ"を意味するオランダ語であるが、20世紀になると、アフリカーンス語(ゲルマン系言語。現在南アフリカ共和国の公用語。他にもナミビア・ボツワナ・レソト・スワジランド・ジンバブエ・ザンビアなどでも使用されている)を話す白人を意味するようになっていった。ブーアはアフリカーンス語で"農民"を意味する。
ケープがイギリスに支配されると、ブーア人はこれを避けて北へ逃げ、オレンジ自由国(1854-1902)とトランスヴァール共和国(1855-1902)をおこした。もともと南アフリカはダイヤモンドの鉱山が多く、特にキンバリー市(現・南アフリカ共和国、北ケープ州の州都)は、1860年代後半にダイヤモンド鉱石が発見されてからは人気鉱山都市であった。ケープ植民地の先住民が偶然見つけた83カラットもあるダイヤモンドは、その後"南アフリカの星"と呼ばれ、その後キンバリー鉱山の採掘経営が始まった。その経営者のひとりが、のちのケープ植民相になるセシル=ローズ(1853-1902)であった。
イギリス牧師の子だったローズは、南アフリカ移住後(1870)、ダイヤモンドや金を独占するため、前述の採掘経営に参加した。1887年、トランスヴァールで発見された金鉱の採掘経営に参加、1889年、リンポポ川以北の土地を領土化するために、本国政府からイギリス南アフリカ会社の特許を得てこれを設立、電信や新聞、また鉄道の諸企業に出資して南アフリカの経済界に君臨した。ローズは1885年、トランスヴァール北西のベチュアナランド(現ボツワナ共和国)を保護領化、1887年から現在ジンバブエ南西部に位置するマタベレランドへの侵略を開始した。1889年には、イギリス南アフリカ会社によるリンポポ川以北へ征服と植民を強行(1890-94)、翌1890年、ローズは遂にケープ植民相に就任(任1890-96)、占領したリンポポ川以北は、"ローズの国"として"ローデシア"と名付けられた(1895)。同1895年頃からトランスヴァール共和国転覆を計画し、極端な侵略政策を始めたが(1895-96)、内外に批判が多かったため、政策は難航した。1896年、ローズは植民相を辞任した。
トランスヴァール共和国大統領クリューガー(任1883-1900)は、1877年から要求されてきていたイギリスによる併合を常に反対の姿勢を貫き、ローズの転覆計画も撃破した人物で、翌1896年、イギリスと対立するドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(位1888-1918)は、ローズ撃退の祝電をクリューガー大統領に送った。もともとドイツのアフリカ進出はイギリスより遅れをとっていたが、このドイツがトランスヴァール共和国に祝電を送ったことがおおやけに知れ渡り(クリューガー電報事件)、イギリスはドイツに憤激、ドイツの南ア進出は列強中から非難を浴びせられ、南ア進出は断たれた。その後ドイツはアフリカ進出のたびに列強を騒然とさせる事態となる(代表的なのはモロッコ事件)。
ローズ失脚後、ジョセフ=チェンバレン(1836-1914)が植民相(任1895-1903)に就任すると、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国への干渉はいっそう露骨になり、クリューガー大統領はオレンジ自由国と同盟を結んで対抗するもおさまらず、1899年、遂にイギリスに宣戦布告することとなった。南アフリカ戦争(南ア戦争、ブーア戦争、ブール戦争、ボーア戦争、アングロ=ボーア戦争といった別称がある。1899-1902)の勃発である。ブーア人の激しいゲリラ戦は、イギリス軍を悩ませ、短期決戦で終わるはずが3年の歳月を費やした。南ア戦争はその後本国から援軍がつぎこまれて、結果イギリスの勝利となったが、3万の戦死者を出すことになる。トランスヴァールとオレンジを領土としたイギリスは、ローデシアを含めて南部アフリカ一帯を勢力範囲とし、スーダン進出政策と結びつけ、アフリカ縦断政策を進めていった。さらにイギリス領であるインドのカルカッタ(Calcutta)と結んで、エジプトのカイロ(Cairo)、そして南アのケープタウン(Capetown)を結ぶ三角地帯を、イギリス帝国主義の3C政策とした。また、ゴールドコースト(黄金海岸)沿いにあり、現在のガーナ共和国の領域で栄えていたアシャンティ人の国、アシャンティ王国(17C末-1901)も1901年に征服されている。
こうした中、フランスもアフリカ政策を行っていた。古くはシャルル10世(位1824-30)やルイ=フィリップ(位1830-48)の時代、幾度と侵攻・攻略したアルジェリア(1830征服)がある。またベルリン会議(1878)のときにフランス管理となり、1881年に侵攻したチュニジアも結果フランスの保護領(1883-1956)となった。1883年にはアフリカ北東岸のソマリランドに進出、ジブチでフランス領ソマリランドを成立させた。結果ソマリランドは北からフランス、イギリス、イタリアそれぞれによる分割占領となった。さらにフランスはサハラ砂漠のあるアフリカ西部を中心に、ダホメ王国(ベニン。現ベナン。ナイジェリア西部)、カヨール王国(セネガル)、ラビーフ王国(中央アフリカ)といった小王国を次々と征服、そしてギニアも侵攻した。
ギニアでは、聖戦指導者サモリ=トゥーレ(1830?-1900)らによってフランス軍に対して徹底抗戦を行った。彼はもと行商人で、軍人になって以降、国内の内乱を鎮めてイスラム教の普及に尽力し、反仏運動を展開していた人物である。1880年代には、人口100万、3万5000人の兵力を保つ"サモリ帝国"として、ギニアのイスラム帝国として君臨し、フランス軍を脅かしていた。しかしサモリは1898年にフランス軍に捕らえられ流刑後病没している(1900)。その後ギニアは列強により分割占領され、フランスが多くの領域を奪取した。
西アフリカに広大な植民地を築いたフランスは、マダガスカル島にも進出した。同島では、メリナ(王都アンタナナリボは現マダガスカル共和国首都)やホヴァといった王国が栄えていたが、いずれもフランス軍によって解体され、1896年にフランスの保護領となった。そしてジブチ、マダガスカルの東側と西アフリカとを結ぶため、ジブチを出たフランス軍は、マルシャン大尉(1863-1934)のもとでスーダンを横断の形で進出した(アフリカ横断政策)。マルシャン大尉は200名の探検隊をフランス領コンゴからナイル川上流に出発させ、1898年7月、スーダン南東部のファショダに到着、同地でフランス国旗を掲げた。
そこへ、ケープとスーダン進出をつなぐべくイギリス縦断政策を実行していたキッチナー将軍率いる2万5000の軍隊がファショダに辿り着くと、すでに同地に身を置いているマルシャン大尉率いるフランス軍と出くわし、多大な緊張が走った。これが有名なファショダ事件である。英仏植民地戦争の再来とされたこの事件は、すでに西南アフリカ(ナミビア)・カメルーン(ギニア湾岸)・トーゴ(トーゴランド。ギニア湾岸)・東アフリカ(現在のタンザニア・ルワンダ方面。タンザニアは当時タンガニーカと呼ばれ、その後英領)を領土として抑えていた、皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツの動向に着目し、同志国として外交的な歩み寄りがなされ、フランスは折れてスーダンから撤退した。これまで敵対していた英仏の急速な接近は、フランス領モロッコ、イギリス領エジプトの相互承認が約束された1904年の英仏協商へと導かれ、新たな国際情勢が形成されていった。イギリスはその後、ケープとナタール両州を併せ、自治領南アフリカ連邦を形成していく(1910)。
ベルギーでは、王レオポルド2世(位1865-1909)が設立したコンゴ国際協会を設立し、スタンリーにコンゴ川流域を調査させていたが、ベルリン会議(1884。1878年のロシア南下政策に関するベルリン会議とは別)で、一部はフランスやポルトガルに譲り、残った地はコンゴ自由国(1885-1908)となった。これはあくまでも形式的な独立国家で、事実上レオポルド2世の私有領であり、1908年、同国はベルギー領となった(現コンゴ民主共和国。旧ザイール)。イタリアではエリトレア(紅海沿岸)、イタリア領ソマリランドを占領したが、1895年から軍事侵入を開始したエチオピアには、フランスの援助がつき、エチオピア北部のアドワで敗れ(1896)、その後のエチオピアはメネリク2世(位1889-1913)のもとで独立を護った。イタリアはその後トルコと戦い(1911-12。イタリア・トルコ戦争。伊土戦争)、トルコ領だったトリポリとキレナイカを獲得している。ポルトガルは西アフリカのアンゴラをはじめ、ポルトガル領ギニア・東アフリカ(現モザンビーク)を領有し、この時代のアフリカでの独立国は、前述のエチオピアとリベリアのみであった。
その後、2度に渡る世界大戦を経て、帝国主義時代が終焉を迎え、国際情勢は冷戦構造化された。1955年、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議(AA会議。バンドン会議。1954年4月のコロンボ会議で、開催することを宣言)が開催された。欧米の第一世界、ソ連陣営の第二世界に次ぐ第三勢力として、アジア15ヵ国、中東8ヵ国、そしてアフリカ6ヵ国(エジプト・エチオピア・ガーナ・スーダン・リビア・リベリア)の代表が参集、インドのネルー首相(任1947-64)、中国の周恩来首相(しゅうおんらい。任1949-76)、エジプトのナセル大統領(任1956-70)、インドネシアのスカルノ大統領(任1945-67)ら、そうそうたる顔ぶれであった。このアジア・アフリカ会議では、1954年6月に行われたネルーと周恩来の会談で声明された平和五原則(領土主権尊重、相互不侵略、内政不干渉、平等互恵、平和共存)をさらに発展させ、平和十原則として提唱した。またこうした精神は1961年6月にベオグラード(当時ユーゴスラヴィアの首都)で開催された非同盟諸国首脳会議でも高揚された。この会議では、実に11ヵ国のアフリカ諸国が参集している。
アフリカは、エジプトの独立(エジプト革命。1952.7)によってアフリカ解放の先陣を切った。そしてトリポリとキレナイカといったイタリア領は第二次大戦中に英仏に占領されたが、1951年に他州を併せた連合王国・リビアとして独立を達成した。スエズ戦争(1956-57。第二次中東戦争)において英仏両国が誇ったアフリカ政策からの撤退が決まり、この間にスーダン、モロッコ、チュニジアが独立した(スーダン独立1956.1。モロッコ独立1956.3。チュニジア独立1956.3)。またフランス領であるアルジェリアでは、FLN(民族解放戦線)が政権を掌握、フランスからの完全独立を掲げて解放闘争を展開していたが(アルジェリア戦争。1954-62)、フランスは戦況泥沼化とフランス財政危機、政局不安定(第四共和政崩壊)、駐留軍の反乱、アジア・アフリカ会議でのフランス批判などで苦戦を強いられていた。フランスでは1958年6月に政界に復帰したド=ゴール大統領(第五共和政。大統領任1959-69)が国民投票を行って独立承認を決め、1962年3月、ジュネーヴ湖畔のエヴィアンで、停戦協定と独立承認を締結(エヴィアン協定)、7月、ベン=ベラ初代大統領(任1963-65)によるアルジェリア民主人民共和国が誕生した(アルジェリア独立。1965年アルジェリア=クーデタでベン=ベラ政権は崩壊する)。
1957年アジア・アフリカ人民連帯会議がカイロで開催、第二次世界大戦後の経済的植民地支配(新植民地主義という。これまでは政治的・軍事的支配であった)の反対を、45ヵ国の民間代表で決議した。またガーナでは、パン=アフリカ主義を掲げるエンクルマ(ンクルマ。1909-72)が会議人民党をおこして独立運動を推進、1957年3月、サハラ以南で最初の独立国となった(ガーナ独立)。黒人アフリカ国として初めて、独立を勝ち取ったのであった。翌1958年と60年にガーナの首都アクラで全アフリカ人民会議が開催され、28地域の代表が参集した(その後ガーナは1960年共和国となるが、1966年2月、ガーナ=クーデタによってエンクルマ政権は崩壊する)。
フランス領西アフリカのギニアでは、民族主義者であるサモリ=トゥーレの曾孫セク=トゥーレ(1922-84)のもとで独立を達成した(ギニア独立。1958.10)。これを機に、アフリカ諸国で民族独立熱が急速に高まっていき、①カメルーン(旧仏)②トーゴ(旧仏)③マダガスカル(旧仏)④コンゴ(旧ベルギー。旧称ザイール。現コンゴ民主共和国)⑤ソマリランド(旧英)⑥ソマリア(旧イタリア。"アフリカの角"に位置。旧英領ソマリランドと結合してソマリア共和国となる。住民はイスラム教徒ソマリ族)⑦ダホメ(旧仏。現ベナン共和国)⑧ニジェール(旧仏)⑨オートヴォルタ(旧仏。現ブルキファナソ)⑩コートジボワール(旧仏)⑪チャド(旧仏)⑫中央アフリカ(旧仏)⑬コンゴ(旧仏。現コンゴ共和国)⑭ガボン(旧仏)⑮ナイジェリア(旧英)⑯マリ連邦(旧仏。直後マリとセネガルに分離独立)⑰モーリタニア(旧仏)と、1960年には実に17ヵ国が独立を達成、"アフリカの年"と呼ばれるようになった。1961年には英領カメルーン、タンガニーカも独立、翌1962年から64年にかけては英領からウガンダ、ザンジバル(タンガニーカの島)、ケニア、マラウイ(後述)、ザンビア(後述)も独立を果たし、タンガニーカはザンジバルとその後統合(タンガーニカ=ザンジバル。その後タンザニア連合共和国となる)、また66年9月にはボツワナ(旧英。ベチュアナランド)が独立した。特にケニアでは、ケニア=アフリカ人連合書記長で、初代大統領となったケニヤッタ(任1963-78)が活躍した。
しかし独立しても、有力な行政指導者が育たぬままであったり、民族・部族間との対立や、国際的な視野への不理解などもあり、政情は至って不安定であった。旧ベルギーのコンゴ動乱(1960-65。カタンガ州の独立(チョンベの宣言。1919-69)や陸軍モブツ=セセ=セコ(1930-97)のクーデタ、ルムンバ初代首相(任1960-61)暗殺、国連軍派遣、国連事務総長ハマーショルド(1905-61)の事故死などが起こる複雑な動乱)やナイジェリア内戦(1967-70。ビアフラ紛争。イボ族がビアフラ共和国として分離独立宣言。その後ビアフラ軍壊滅)など代表的である。こうしたことから、1963年5月、エチオピアの首都アディズアベバ(アジスアベバ)でアフリカ30ヵ国の首脳が参集、アフリカ独立諸国首脳会議が開催、アフリカ統一憲章に調印した。またこの憲章に従って設置された地域協力機構OAU(アフリカ統一機構。本部アディスアベバ)では、南アフリカ、ローデシア以外の全アフリカ諸国が加盟、紛争の解決や独立支援に尽力した。
南アフリカ連邦では、1961年5月イギリス連邦から離脱、ナミビアを統治下に置き、南アフリカ共和国となったが、第二次大戦後の1948年に法制化されたアパルトヘイト政策(アフリカーンス語で"隔離"の意味。人種隔離政策)によって、イギリス系住民、アフリカーンス語を話すアフリカーナーやオランダ系住民を白人とみなした。逆に白人と奴隷(主に黒人奴隷)との混血であるカラード、インド系やマレー系住民といったアジア人、ズールー語やスワヒリ語、コンゴ語など、主にバンツー系を話す黒人らを非白人とみなし、1949年の雑婚禁止法(白人と非白人との婚姻の禁止)、1950年の背徳法(白人と非白人の異性が恋愛関係になると背徳行為として処罰)と人口登録法の制定もあわせて行われた。非白人は選挙権がなく、身分証明書の携帯が義務づけられ、住居も政府の定めた10の居留地"バンツースタン(バンツーの国。ホームランド)"に隔離され、その居留地は民族ごとに指定された。レジャー施設やホテル、交通機関、公共施設なども白人専用と非白人専用に分けられ、専用外に立ち入ると、特に黒人は逮捕された。その他、宗教面・教育面・労働面・社会保障面において、非白人は差別されていった。
またイギリス領のローデシアは、ザンベジ川を境として北ローデシア、南ローデシアと称されていたが、南ローデシアは当時イギリス領だった二ヤサランドと1953年にローデシア=二ヤサランド連邦を発足、1963年に解体後、64年北ローデシアと二ヤサランドはそれぞれザンビア、マラウイとして独立を果たした。そして南ローデシアは1965年11月、イギリス連邦内の自治領から独立を宣言し、白人のジャン=ダグラス=スミス首相(任1964-79)のローデシア白人政府のもとで徹底したアパルトヘイト政策を断行、国名もローデシア共和国と称した。国際批判の高まる中で、国連の経済制裁を受けながらも、スミスの新憲法案は白人による国民投票で支持を得ることとなる。この白人支配によるスミス政権に対して民族主義運動が爆発し、解放戦線(中心はZAPUとZANU)も結成されて1979年12月、スミス政権は倒れ、翌1980年4月、ローデシア共和国はジンバブエ共和国となり、ムガベ(1924- )が首相に就任(任1980- )、87年には大統領も務めたが、人権抑圧策などで内外の批判も多く、政情は不安定である。東部に隣接するモザンビークは、ローデシアとの武装解放抗争をスミス政権時代から続けていたが、1975年、遂に独立を果たし、人民共和国となった。
モザンビークをはじめとして、70年以降もアフリカは変化を遂げた。ギニア=ビサウ(旧ポルトガル。ギニア西隣)が独立し(1973.9)、1975年11月には西アフリカのアンゴラ(旧ポルトガル)が人民共和国として独立を果たした。しかしアンゴラ国内では、独立後も内戦が絶えなかった(アンゴラ内戦。1975-2002)。また赤道アフリカの内陸国チャドも、北部のアラブ系イスラム教徒(リビアが支援。チャド民族解放戦線。FROLINAT)と南部のスーダン黒人系キリスト教徒との間で内戦が展開された。独立を保っていたエチオピアでは、1952年にエリトリアと連邦を組織、62年にこれを併合、大土地を基盤にして地主と教会といった特権階級を保護する政策を施していたが、1974年9月の軍部クーデタによって皇帝ハイレ=セラシェ(位1930-74)は廃位、翌1975年に正式に帝政は廃止され、社会主義政権が誕生した(エチオピア革命)。しかし隣接する"アフリカの角"ソマリアとの領土紛争(オガデン州解放運動)や、エリトリア解放戦線による分離独立運動(1993.5エリトリア独立)などで財政が疲弊、社会主義路線も崩壊し、1994年にはエチオピア連邦民主共和国と改めた。1998年には、エチオピアとエリトリアの国境紛争(エチオピア=エリトリア紛争)も勃発した(2000年停戦)。
またリビアでは、軍人カダフィー(1942-2011)がおこしたクーデタにより王政が廃止され、共和国となった(1969.9。リビア革命)。カダフィーは大佐に昇進、翌70年には革命評議会議長、軍司令官となり、のち首相、国防相を兼ね、"ジャマーヒリーヤ(大衆による直接民主主義)"を掲げ、強力なイスラム国家の建設を推進した(現在の国家名称は"社会主義人民リビア・アラブ国")。
90年代に入ると、ルワンダでも内戦が勃発した(1990.10)。これまでベルギーの信託統治(国連の信託を受けて統治する制度)を受けていたルワンダは、多数派のフツ人と国王を輩出する支配部族のツチ人との間で抗争が展開されたが、フツ人のクーデタによって国王を亡命させ(ルワンダ革命)、1961年王政が廃止、62年に共和国として独立、フツ人政権が発足した。すると少数派のツチ人はフツ人政権の差別を受けて難民化(ルワンダ難民)、ウガンダに逃れた。その後ツチ人難民が主体である反政府勢力のルワンダ愛国戦線(RPF)が越境侵攻し(1990.10)、大統領搭乗機を撃墜(1994.4)、結果ツチ人をはじめフツ人政府に反する勢力分子を徹底的に虐殺する大惨事が起こる(90年から94年に人口の7分の1、約107万人が虐殺された)。その他にもソマリア内戦(1991.1。ソマリランド共和国の分離独立。1995年PKO失敗)、シエラレオネ内戦(1991.3。西アフリカ南西端。1961独立。旧英。革命統一戦線RUFとの抗争)、ブルンジ内戦(1993.10。大陸中部。1962独立。旧ベルギー。フツ人の大統領暗殺による勃発)、コンゴ内戦(1997。旧仏。コンゴ共和国。大統領の地位をめぐる抗争。アンゴラの援助で2002年終戦)など、各国で戦火が絶えない。
南アフリカ共和国内に囲まれていたレソト王国では、90年初頭にクーデタが続発した。レソトの一帯を含む南アフリカ共和国北部とボツワナではサン族(俗に言う"ブッシュマン"は蔑称である)の居住地だったが、バンツー系のソト族に追放された後、モショエショエ1世(位1818-1870)を初代国王とするバスト王国がレソト王国の前身である。バスト王国はその後イギリスの保護領バストランドとなったが(1868)、1966年、イギリス連邦内でレソト王国(6代目国王モショエショエ2世。位1960-1990。国名はソト語を話す人々の意味)として独立した。しかし70年代は南アフリカ共和国との関係が悪化し、南アフリカから経済制裁を受け、1986年に軍司令官のクーデタで政党活動が禁止され、軍司令官が軍事評議会議長に就任して以降、国王モショエショエ2世との関係は悪化し、90年3月、モショエショエ2世は国外追放を受け、皇太子が7代目国王レツィエ3世として即位した(位1990-95)。しかしその後もクーデタが発生し、政党の復帰や、モショエショエ2世とレツィエ3世の復退位の連続、社会的にもエイズ(AIDS)感染者の増大など不安定であるが、世界で最も標高が高い所に位置する"天空の王国"として、その大自然に触れるべく観光旅行客も多い。
そのレソトを囲む南アフリカ共和国だが、アパルトヘイト政策を実行して以降、反政府運動が絶えず起こり、南アフリカの統治下に置かれたナミビアにおいても、黒人解放勢力の南西アフリカ人民機構(SWAPO)も60年代から武装闘争を展開した。また1976年6月16日に起こったソウェト(ヨハネスブルク郊外の黒人居住区)での黒人学生の反アパルトヘイト暴動(ソウェト蜂起。アフリカーンス語の強制学習への抗議が発端。6月16日はソウェト記念日となる)は、その後の警察力による政府の抑圧を強めたが、一方でアパルトヘイト反対運動の起爆剤となり、南ア政府も国際的に孤立、OAUは南ア政府を非難、国際連合は経済制裁を決議した。また1960年に政府によって非合法化されていた、南アフリカで最大の影響力を持つ反アパルトヘイトの民族主義政党・ANC(アフリカ人民族会議。1912年結成)は、当時のボタ大統領(任1978.9-1989.9)に対し、民主的権利の要求を掲げて、徹底した抵抗運動をおこした。ボタ政権は、国際的な非難を回避すべく、1984年に新憲法を発して、これまでの白人に加え、アジア人とカラードを含めて人種別三院制に改めたが、反政府運動は収まらず、ソウェト蜂起10周年となった1986年には大規模な武力衝突が起こり、非常事態宣言が出された。
1989年9月、大統領に選出されたデクラーク(任1989-94)は、人種問題の見直しをはかった。同年12月、デクラークは、国家反逆罪で終身刑に処されていたANC指導者のネルソン=ロリハラハラ=マンデラ(1918-2013.12(追記参照))と会談、翌年2月にはANCが合法化され、マンデラが、1962年の逮捕後、28年ぶりに釈放された。3月のナミビア独立、6月の非常事態宣言解除と、明らかに正常化へと進む中で、翌1991年2月、デクラーク大統領は国会開会演説で、遂に"人種隔離体制の終結"を宣言し、全アパルトヘイト根幹法の廃止を表明した。1991年6月には、最後まで残っていた人口登録法、土地法、集団地域法といったアパルトヘイトの根幹法が撤廃されていき、アパルトヘイトは法律上消滅(アパルトヘイト諸法撤廃)、マンデラはANC議長に就任した。同年12月、"民主的な南アを目指す大会"に政府、ANC、諸政党が参加、南アフリカ共和国の将来を協議した。1993年、マンデラ議長、デクラーク大統領はノーベル平和賞を受賞した。
1994年4月、南アフリカで初めて、全人種が参加する国民議会・州議会選挙が行われ、得票率62.6%でANCが勝利、5月にマンデラ大統領が誕生した(任1994-99)。マンデラ政権の誕生で、OAUと非同盟諸国会議への加盟、イギリス連邦と国際連合への復帰を果たし、1996年5月には新憲法が採択された。マンデラは1999年、政界を引退し、これまで副大統領を務めていたターボ=ムベキ(1942- )に大統領の座を譲った(任1999- )。ムベキ政権は、人権擁護に尽力し、2002年7月、アディスアベバを本部に、OAUに代わるアフリカ連合(AU)を発足させ、ムベキが初代議長に就任した。AUは前身のOAUの事業と、"アフリカは1つ"の理念を受け継ぎ、アフリカ大陸内で続発している紛争の解決と恒久の平和を目指し、植民地主義の根絶、経済発展と地位の向上、そしてEU(ヨーロッパ連合)を目指したアフリカ諸国統合政策の推進をはかるが、西サハラ問題でモロッコは1985年にOAUを脱退しており、現在もAUに加盟していない(2006年8月現在)。西サハラとは旧スペイン領サハラで、大陸北西部に位置する。1976年スペイン撤退後、併合の構想があるモロッコが、サハラ=アラブ民主共和国樹立を宣言した独立派組織のポリサリオ戦線と対立しているのが大きな理由である。アフリカ大陸において、モロッコを除いた52ヵ国とこの西サハラが、現在AUに加盟している(ソマリランドは国家として承認されておらず、非加盟)。
元首カダフィーの率いるリビアでは、1988年に起こったパンナム機爆破事件(死者270人)の容疑がリビアに向けられたことで、アメリカとの対立を深め、"テロ支援国家"と批判されていた。また核開発疑惑が浮上したことで、2003年、リビアは遂に核の保有を認め、核の開発中止と放棄を宣言した。その後国際原子力機関(IAEA)の査察も受け入れ、翌2004年には廃棄を完了した。アメリカとの関係は改善の方向へと向かっている(追記参照)。
多大な歴史がありながら、長く"暗黒大陸"と誤解され続け、列強による抑圧と搾取の標的とされ、独自の文化・慣習も壊されたアフリカには、諸国独立・解放やアパルトヘイト撤廃などで、希望の光が差し込まれたが、その一方で地域紛争、民族対立、衛生管理問題(マラリア、AIDS、エボラ出血熱など)、貧困などといった後遺症にも苦しめられている。これらはアフリカだけに留まらない、地球規模の問題であり、国際協力のさらなる発展が急がれている。
アフリカ史の集大成です。近現代のアフリカをアフリカ分割時代から、国によっては現在に至る時代までをご紹介しました。だいたい120年の歴史でしたが、凄まじい激動の繰り返しです。今回は、1960年のコンゴ動乱、1967年のナイジェリア内戦、またソマリア内戦やコンゴ内戦など、もっと詳細を述べたかったのですが、スペースの都合上、軽い説明だけとなりました。スミマセンm(_ _)m
アフリカ大陸はイスラム世界の北アフリカとサハラ以南の黒人アフリカに大別されます。面積3030万平方キロメートルで人口8億5100万(2003年統計)の大陸です。受験世界史では、エジプト文明、アフリカのイスラム世界に加え、今回ご紹介しました帝国主義時代のアフリカ分割、そして、"アフリカの年"と"アパルトヘイト"に代表される現代アフリカ史の4つの時代を覚える必要があります。
では、学習ポイントを見ていきましょう。まず、戦前における列強のアフリカ分割時代から。イギリスの縦断政策は、1882年のエジプトの保護国化から始まります。もっといえば、1875年のスエズ運河株買収、それに憤慨して起こったアラービーの反乱(1881-82)をイギリスが鎮圧し、保護国化と至ります(正式保護国化は1914年)。その後マフディーの乱を長い時間をかけて鎮めながらようやくスーダン進出を実行します。この流れは知っておいて下さい(マフディーの乱の首謀者ムハンマド=アフマドも余裕があれば知っておこう)。一方南方のローデシア方面ではセシル=ローズですね。重要人物なので要チェックです。ローデシアを開拓した後、ケープ植民相に就任し、トランスヴァール政策を計画するも難航して結果は失敗、植民相を辞任します。
それを引き継いだのがジョセフ=チェンバレンです。この人も覚えましょう。1936年のミュンヘン会談に出席したイギリス首相ネヴィル=チェンバレン(任1937-40)のお父さんです。ここでは南ア戦争が重要です。南ア戦争のあと、ようやくトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の併合となります。
フランスはアルジェリア占領(1830)・チュニジア保護国化(1881)・モロッコ侵略(1895)の3点セットは知っておきましょう。西北アフリカ制圧の後は東アフリカ進出です。フランスの横断政策です。フランス領ソマリランドでジブチ港を建設して、その後マダガスカルも占領します。そしてスーダンを横断進出します。この流れは重要です。そして、イギリス縦断とフランス横断がファショダでぶつかって、有名なファショダ事件となります。1898年という年は絶対知っておきましょう。また1898年は列強各地で大事件が勃発した重要年です。米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)、アメリカのフィリピン・グアム領有とハワイ併合・キューバ独立・ドイツの膠州湾租借とビスマルク死去、ロシアの旅順・大連租借、中国の戊戌の政変などがありますので注意してください。なお、本編でも紹介しましたが、ファショダ事件は、その後の英仏協商につながり、長く敵対関係にあった両国が歩み寄り、新しい国際情勢へと変化します。
英仏以外では、まずドイツがカメルーン、東アフリカ植民地(タンザニア・ルワンダなど)や西南アフリカ植民地(ナミビアなど)を形成します。その後ドイツはモロッコ事件(1905,1911)を起こしていきます。用語集では、マジマジ反乱(1905-07)という奇妙な名前の武装蜂起があり、ドイツ支配下におけるタンザニアで発生した原住民の反乱です。白人を倒せる魔力がある水(=マジ)を飲んで戦ったことからこの名が付いています。入試ではあまり見かけない用語ですが、旧課程でも新課程でも記載されています。
イタリアではエリトリア、イタリア領ソマリランドを占領しましたが、エチオピア帝国の時はアドワの戦いで敗退し、エチオピアはリベリアとともに独立を全うしました。この独立を護ったエチオピアとリベリアはセットで覚えておきましょう。
あと、ベルギーではコンゴをコンゴ自由国(レオポルド2世の私有地として)にし、やがてベルギー領コンゴとして占領します。コンゴ関係はアフリカ史の中でもよく出る方ですので覚えておきましょう。またポルトガル領にはギニア、アンゴラ、モザンビークがあります。コンゴはコンゴ共和国とコンゴ民主共和国がありますが、フランス領コンゴがが前者で、ベルギー領が後者です。またコンゴ民主共和国はザイールという旧称があります。1960年勃発のいわゆるコンゴ動乱はコンゴ民主共和国でおこり、また1997年勃発のコンゴ内戦はコンゴ共和国での事件です。
続いて、戦後の独立ラッシュの時代です。北アフリカではリビア(1951)・スーダン・モロッコ・チュニジア(1956)、黒人アフリカではエンクルマ大統領によるガーナ独立(1957。こんな感じでエンクルマというめちゃくちゃな覚え方で覚えました)を皮切りに、ギニアもセク=トゥーレ大統領によって独立しました(1958)。難関私大などではガーナのエンクルマとギニアのセク=トゥーレの出題がたまにありますので、ワンセットで覚えておきましょう。アルジェリア戦争はフランス第四・第五共和政分野で出ますのでそこで覚えてください。そして1960年、つまり"アフリカの年"ですが、独立ラッシュの頂点だった年です。必ず覚えましょう。独立した国すべて覚えなくても良いので、17ヵ国独立したことは知っておきましょう。
そして、独立後の情勢ですが、コンゴ動乱、ローデシア問題、ナイジェリア内戦、エチオピア革命(ハイレ=セラシェ帝退位)、アンゴラ内戦、ケニア独立(ケニヤッタ大統領)などがありますが、試験に出題されやすいのが南アフリカのアパルトヘイト問題です。世界史のみならず、現代社会などでも登場する分野です。1991年に法撤廃、94年にマンデラ大統領就任は知っておいた方が良さそうです。
ちなみに、日本の紙幣の顔となった野口英世氏(のぐち ひでよ。1876-1928)は黄熱病の研究に赴きますが、自身も感染し、ガーナのアクラで亡くなっています。
<追記2011/10/31>カダフィー氏:2011年8月、リビア内戦により政権崩壊。2011年10月20日没。 <追記2013/12/6>マンデラ氏:2013年12月5日没。