本文へスキップ

世界史の目

偉大なるロマンを求めて!

学習塾塾長がお届けする、あらゆる世界で産まれた雄大なロマンをご紹介するサイトです。

ギャラリー

第160話


国際連盟とヴェルサイユ体制の確立

~ヴェルサイユとワシントン・その2~

「ヴェルサイユとワシントン・その1 国際協調外交の幕開け」はこちら

 アメリカのウッドロー=ウィルソン大統領(1856-1924。任1913.3.4-21.3.4。民主党)が掲げた十四ヶ条の平和原則はすべて思い通りにはならなかったが、14ヶ条のうち、国際平和機構の設立の面においては、国際連盟を1920年1月に設立するという計画で進められ、ウィルソン大統領の功績としてその名を残すところまで来ていた。

 ヴェルサイユ条約において決められた国際連盟規約によって、国際連盟は組織された(1920.1。略称・連盟)。史上初めての国際平和機構として設立されたこの機関は、スイスのジュネーヴに置かれ、全加盟国によって開催される総会を最高決定機関(全会一致形式)とし、常任理事国及び非常任理事国からなる理事会、そして連盟事務局の3機関を中軸として設置した。他、各国の労働関係を調整する機関であるILO国際労働機関。International Labor Organization)、オランダのハーグには常設国際司法裁判所などが設けられた。

 原加盟国は42ヵ国で、ドイツとソ連は排除された。そして、理事会を構成する常任理事国は、意外にもイギリス、フランス、イタリア、日本の4国のみであった。連盟提唱国のアメリカは常任理事国の中にその名がなかった。
 アメリカ連盟不参加に至った原因には、アメリカ国内における保守的風潮の高まりにあった。民主党大統領ウィルソンのもとで、恒久的な国際平和機関を設立することを目標としたのだが、アメリカは元来モンロー主義に始まる孤立主義(Isolationism)、つまり欧州と米国間との相互不干渉を貫いてきた国内第一主義の国家であった。当時保守勢力の強い共和党が力を強め、ロシア革命政権や国際連盟の存続に反対する風潮となっていった。上院議員は共和党勢力が強く、かねてから国際協調外交に異議を唱えており、しかも大戦景気が冷めてストライキやテロなどの社会不安の時期と重なったため、ウィルソン政権の支持率が急激に低下し、国内ではますます孤立主義・連盟不参加の意向が強まった。結果連邦上院はヴェルサイユ条約批准を否決、連盟不参加に至ったわけである。またこの1920年は大統領選挙の年で、共和党はウォーレン=ガマリエル=ハーディング連邦上院議員(1865-1923。議員任1914-20)を大統領候補者として推し、"常態への復帰平和への復帰)"というスローガンをもとに、民主党に対して徹底的な批判を行った(結果共和党ハーディングが勝利し、大統領就任。任1921-23)。これ以降、1933年までは共和党政権が3代続いた。

 アメリカの連盟不参加は資本主義列強における国際協調主義の意義をトーン・ダウンさせた。連盟軍なる軍隊も存在しない国際連盟では、規約違反国への処置も経済制裁までにとどまり、軍事的制裁ができなかった。しかも総会は全会一致をとったために統一が困難となっていた。
 しかしこれが、イギリスやフランスにとっては好都合となった。アメリカが参加しないと言う点で、英仏が連盟運営の主導的立場に立てたのである。しかしこれは戦勝国であるイギリスとフランスによる利己主義が生まれたのも事実であった。結果、インドやエジプトは完全独立は認められず(条件付き独立)、民族自決の精神は失われたのもその顕れである。また国際連盟から統治を委任される形で始まった委任統治については、イギリスとフランスが委任統治の受任国となり、またヴェルサイユ条約において国際管理下に置かれた地域は、すべて国際連盟の管理地域となった。また旧オスマン領だった中東地域の管理については、パレスチナイラクトランスヨルダンはイギリスの、レバノンシリアはフランスの、それぞれ委任統治領となった。委任統治は、結果的には国際協調とは名ばかりの英仏帝国主義による領土再分割で、この段階で既にウィルソン大統領が掲げた民族自決の精神はなかった。またパリ講和会議で、中国が二十一か条要求1915)に対して廃棄請求を拒否されたことでおこった五・四運動1919.5.4)の鎮圧に苦しみ、結果中国はヴェルサイユ条約の調印を拒否するなど、国際協調外交は決して円滑には進まなかった。

 イギリスとフランスによる欧州中心の国際協調外交は、国際連盟を武器にさらに進展していった。英仏は第一次世界大戦(1914-18)において、アメリカから莫大な資金援助があり、戦債として対米支払いが残っていた。ドイツの賠償金である1320億金マルクは、大敗を喫し、経済的打撃を受けているドイツから早急に手に入る金額ではない。ドイツも債務履行が遅れ、ドイツ政府(フリードリヒ=エーベルト。1871-1925。ヴァイマル共和国初代大統領。任1922-1925。ドイツ社会民主党)も国民生活を圧迫しても債務履行を余儀なくさせる政策に切り替えねばならず、賠償支払いに反対する国民が紛糾、また1920年にはドイツ共産党(ドイツ社会民主党左派が創設したスパルタクス団が前身。1919年結党後、社会主義革命をおこそうとして失敗)も台頭し、政権交代を国民に呼びかけた。
 1923年1月、ドイツ情勢を不安視したフランス・ポワンカレ政権(レイモン=ポワンカレ。1860-1934。首相任1922-24,26-29。大統領任1913-20)は、賠償支払い遅延を理由に、英仏同様、賠償当事国ベルギー(大戦中、中立国ベルギーに対してドイツは侵犯した経緯から)を引き連れて挙兵、フランスやベルギーの国境であるラインラントを含む、ドイツの重工業地帯であるルール地方を軍事占領した(1923-25ルール出兵。ルール問題)。

 フランスのこうした行為は、ドイツ最大の工業地帯であるルール地方に駐兵させ、ドイツに対して同地帯から経済的自由を奪う経済的制裁であった。フランスは賠償金を現物払いで要求した。ドイツ政府はこの出兵・占領を不当として、ルール地域にある工場の全面的生産停止(サボタージュ)を断行、大規模なストライキで抵抗した(この頃ドイツは、国際的な孤立から逃れるため、同じく連合国側のライバルで孤立している樹立間近のソ連ラパロ条約を結び、国交回復を図っている。1922.4)。この結果、ドイツ石炭を輸出できず、逆に輸入国に転じたため、外貨準備が遂に底をつき、財政は破綻して空前の悪性インフレ(ハイパー・インフレーション)に苦しみ、賠償問題はさらにもつれた。

 フランスのルール占領は結果的にはドイツの賠償支払いを遅らせる形となったことで、国際世論の非難を受け、イギリスからもルール占領の反対を表明した。1923年9月にドイツの抵抗は収まり、フランス・ポワンカレ内閣も退陣となった(1924)。そして1924年8月ロンドン会議で採択された賠償支払計画・ドーズ案の締結でルール撤兵が決定した(1925.7)。

 対独強硬策で失敗した国際連盟は、このドーズ案で対独協調の方向へ転換した。ドイツ経済を回復させることが、すべての賠償問題の解決につながると考えたのであった。ドーズ案はドイツ賠償に関する国際専門家委員会の議長を務めたチャールズ=ドーズ(1865-1951)が作り出した新しい賠償提案で、その内容とは額面は変わらないが、ドイツ経済を圧迫させることなく、また支払いを円滑にすすめるため、1年目を年間10億金マルクに引き下げ、毎年段階的にゆるやかに引き上げて、5年目に標準支払額を25億金マルクにし、外貨ではなく自国通貨に支払わせるというものであった。またドーズ案の発起国アメリカもドーズ公債を起債するなど、アメリカ民間資本を導入してドイツ経済を助けた。1929年にはヤング案(同委員会議長を務めたオーウェン=ヤングの賠償案。1874-1962)も採択され、賠償額を354億金マルクとし、59年かけて分割方式で払うことが認められた(その後、ローザンヌ会議で支払い延期と30億金マルクの減額が決定し、アメリカの戦債も解消されたことで、賠償問題は終了する。しかし1929年の世界恐慌の余波が来ていたドイツは、事態を打破できず、国家はナチス=ドイツに政局を委ねていく)。

 ルール出兵の反省と対独緩和を経たことにより、かねてからウィルソン大統領の理想として掲げてきた平和構想は、遠回りしながらも徐々に現実に近づいていった。そして、ドイツ国境を結ぶ近隣諸国が、ドイツを含む国家間の安全保障を確立させ、ヨーロッパ全土の地域的安定をもたらすことを目標に協議することになった。
 事の発端は、ドイツの元首相で外相グスタフ=シュトレーゼマン(1878-1929。外相任1923-29。首相任1923.8-23.11)の提案によるものである。1兆倍に暴騰した前述のハイパーインフレを収束させ(デノミネーションの実行。不換紙幣レンテンマルクを発行)、経済復興に尽力した敏腕政治家である。首相としては短い任期だったが、次のヴィルヘルム=マルクス内閣(1863-1946。首相任1923-24,26-28)の時に外相に就任して、ルール撤兵に基づき、ヴェルサイユ条約におけるラインラント関連条項について、ラインラントを非武装地帯・相互不可侵地帯とする条約案を提議した(1925.2)。ルール出兵の当事国フランスは、これに同調して7月にルール撤兵を実施、イギリスも同条約案に賛成の異を示したため、条約成立にむけて協議された。
 協議はスイスロカルノで開催された(ロカルノのヴィスコンティ城。ロカルノ会議。1925.10)。参加国はイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギー・チェコスロヴァキア・ポーランドの7ヵ国である。会議の結果、7つの条約が成立し、同年12月1日、ロンドンで正式に調印された(ロカルノ条約1925.12.1)。
 ドイツ外相シュトレーゼマン、フランス外相アリスティード=ブリアン(1862-1932。外相任1915 –17,21-22,25-26,26-32)、イギリス外相オースティン=チェンバレン(1863-1937。外相任1924-29)ら、有能な各国外務大臣の尽力により、ロカルノ条約は誕生した。

 ロカルノ七条約の内容を大きく3点にまとめると以下のようになる。

  1. 国境の現状維持と不可侵・・・フランス・ドイツ間、ドイツ・ベルギー間の各国境の現状維持と相互不可侵(ラインラント非武装化を含む)を、フランス・ドイツ・ベルギーの3国が承認するとし、これらはイギリスとイタリアが保障に加わる。
  2. 仲裁裁判条約(四条約。ドイツが4国と各個別に締結)・・・フランス・ベルギー・チェコスロヴァキア・ポーランドの4国がそれぞれドイツとの間に結んだ。国際紛争の仲裁を、仲裁裁判所・国際司法裁判所あるいは理事会へ委ねる。
  3. 相互援助条約(二条約。フランスが2国とと各個別に締結)・・・ポーランドとチェコスロヴァキアの2国がそれぞれフランスとの間に相互援助条約を締結。ドイツが条約国に対して軍事行動を起こした場合、片方の相手国が条約国を支援する。

 これにより、ドイツは翌1926年9月に国際連盟への正式加盟が実現化し(ドイツの連盟加盟1926.9)、ロカルノ条約は発効した。

 またフランスのブリアン外相は、国際連盟から離れたアメリカが、軍縮に関するアメリカ主導の国際体制を既に歩み始めていることで(次話にて述べる)、国際紛争を解決するための戦争行為そのものを否定することにより、国際平和がもたらされることに行き着き、1928年アメリカ国務長官フランク=ケロッグ(1856-1937。任1925-29)と意見を交わして成立した仏米不戦条約を発展させ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった15ヵ国で締結した。これが不戦条約1928.8.27。パリ協定。パリ不戦条約。"戦争抛棄ニ関スル条約"。ケロッグ=ブリアン協定)である。有効期限が明記されていないため、戦争放棄における国際法として現在も生きている条約である(のち63ヵ国が締結)。

 ヴェルサイユ条約の規定に従い、ヤング案の成立とともにラインラントの非武装を確認して、英仏軍の同地方からの撤兵も実行された(ラインラント撤兵1930)。こうしてヨーロッパの国際秩序は、ヴェルサイユ体制として確立されるに至った。 


 「世界史の目」第160話にして、ようやく国際連盟の登場です。1920年は、世界史上初めての、当時としては斬新な、国際平和機構が設立された年でありました。ウィルソン大統領としては彼の理想とは大幅に距離のある、不満の残る形ではありましたが、結果的にはヴェルサイユ体制の確立が為されたわけです。
 ウィルソン大統領は幼少期、識字障害を患っていたといわれていますが、これを見事に克服して政界に入り、大統領に昇りつめ、大統領自ら赴いた国際会議で自身の理想的平和論を主張したわけですが、ヴェルサイユ条約が締結されて3ヶ月後、彼は脳梗塞に倒れ、半身不随となり、思うように国政を担うことはできなかったと思います。しかしウィルソン大統領の理想に叶う形でなかったにせよ、欧米のドイツ対策においても緩和されて秩序が正常に戻っていき、数々の平和条約が締結されてこうして国際協調外交が完成されていったわけです。そのウィルソン大統領は2期務めた大統領の職を辞して3年後の1924年2月に没します。

 さて、今回の学習ポイントを見て参りましょう。まずは国際連盟関連からです。覚える事柄は、(1)本部はジュネーヴにある。(2)総会は全会一致が原則である。(3)アメリカ、ソ連、ドイツは参加していない。(4)1920年発足、の4点が非常に重要です。難関校受験であれば、(5)経済制裁にとどまり、軍事制裁は義務化されず。(6)補助機関にILO(国際労働機関)と国際司法裁判所がある。後者はオランダのハーグに設置。(7)常任理事国は英仏日伊の4国、といったところでしょうか。

 そしてドイツ政策関連は、この単元の最重要キー・ポイントとなるでしょう。まず、賠償問題による外交策ですが、当初連合国は強硬策でドイツ政策を行おうとしていました。英仏がドイツに掲げた莫大な賠償金支払いで、アメリカの戦債分を支払うという目的です。しかしなかなか支払いが行われませんのでフランスはついにルール地方を占領します。このルール出兵が大きな分岐点となります。フランス主導で行ったルール出兵は、ドイツの支払いが余計に遅れただけでなく、ドイツの国家財政をさらに悪化させ、アメリカやイギリスから非難されるなどなんの得にもならず、これを機にドイツに対して回復策に転じ、国際協調が発展していくのです。このルール出兵では、フランスが行った事項は出題されますが、ベルギーが伴って出兵したという項目を問われる場合もあります。またこれをきっかけにしてドイツは財政悪化にともなう破局的インフレが起こり、1兆倍の物価高騰が起こります。そのためシュトレーゼマンはレンテンマルクという新たな紙幣を発行します(いわゆるデノミといわれるものです)。この流れは非常に重要ですので知っておきましょう。なお、その後のドーズ案→ヤング案→ローザンヌ会議で賠償問題は解決されます。この順番は覚えておいて下さい。

 ドイツ協調策になって以降の国際協調外交ですが、安全保障に関する決定が行われます。まずはロカルノ条約。締結された1925年は絶対覚えておくことです。あと覚える項目は、ドイツ外相シュトレーゼマン、イギリス外相オースティン=チェンバレン、フランス外相ブリアンが参加していること、ラインラント非武装化が決まってドイツ西部の国境維持が保障されたこと、そして翌1926年にドイツが国際連盟に加盟が認められたこと、このあたりを知っておきましょう。
 続いて、不戦条約です。日本国憲法第9条(「戦争の放棄」)のモデルとも言われた有名な条約です。アメリカ国務長官ケロッグとフランス外相ブリアンとの協定でスタートした条約ですので、ケロッグ=ブリアン協定という別名も知っておきましょう。不戦条約によって、国際紛争を戦争で解決しないという意識が芽生えました。しかしこうした立派な条約がありながら、戦争の規模を明確に記述していないせいで(つまりどこまでを"戦争"というのか?軍事行動すれば戦争か?)、日本の満州事変(1931。"戦争"と呼ばず、"事変"と称した。"事変"は宣戦布告のない武力行使のことを言った)やイタリアのエチオピア出兵(1935)といった武力行使があとを立たず、結果、第二次世界大戦を避けることはできませんでした。"戦争"の解釈よりも"平和"であることを前提にした条約であったとも言えます。

 さて、ヨーロッパはヴェルサイユ体制が確立してあたらしい国際関係が生まれました。これとほぼ同時進行でアメリカも、彼等主導であらたな国際体制が築かれていきます。詳細は次回にて!