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4世紀の中国。この頃は多民族が押し寄せ、匈奴(きょうど。南匈奴)、羯(けつ)・鮮卑(せんぴ)の北方系民族と氐(てい)・羌(きょう)のチベット系民族ら(これを五胡という)が短期間(304~439)の間に13国の興亡を繰り返し、漢民族はたった3国しか入り込めない、まさに群雄割拠の時代が到来した。五胡の中でいち早く建国にこぎ着けた南匈奴の劉淵(りゅうえん。?-310)は、漢王朝(かん。B.C.202-A.D.220)の再興として前趙(ぜんちょう。304-329)を建国し、その子劉聡(りゅうそう。位310-318)は西晋(せいしん。265-316)の首都洛陽を占領(311)、316年、遂に西晋を滅ぼした(永嘉の乱。えいか)。世祖武帝(せいそぶてい。位265-290。司馬炎。しばえん。236-290)から続いた統一王朝は4代で消滅、ただ1人生き残った司馬睿(しばえい。276-322)は江南に逃れた。こうして、華北の統一時代は早くも終焉を迎え、統一王朝の出ない中国大陸は五胡十六国時代に突入したのである(304-439。前趙建国年から華北統一までの135年間)。
江南に逃れた司馬睿は晋王朝の再興をはかり、かつて司馬一族が滅ぼした呉王朝(ご。220-280)の首都建業(けんぎょう。現・南京)を拠点に、317年東晋(とうしん。317-420。首都建業→"建康"に改名。けんこう)を建国した。382年に起こった淝水(ひすい。安徽省(あんき)に流れる淮河(わいが)支流)の戦いでは、五胡十六国のなかで最も強力だった氐族の国・前秦(ぜんしん。351-394)の第3代王・苻堅(ふけん。位357-385)が、華北の大部分統一した軍功をひっさげ、87万の大軍とともに東晋に攻め入るも作戦失敗となり(自軍が退く振りを見せて相手を淝水に誘い込む作戦だったが、自軍は撤退と思いこんでしまった)、わずか8万の軍しかもたなかった東晋軍は淝水を渡りきったところで一斉攻撃をしかけ、前秦は大敗を喫した。これにより、前秦は弱小と化し、華北はまたもや分裂の時代に入った。こうして淝水の戦いで中国統一の機会は失われ、華北と華南、つまり南北分立の形勢が定まっていく。
華北では前秦衰退後、鮮卑の一部族である拓跋部(たくばつ)の中心氏族・拓跋氏が部族統一と華北王朝建国を狙い、勢力を上げてきていた。元来、拓跋氏は315年から独自の王朝・代(だい。315-376)をおこしていたが、376年前秦の苻堅に国を滅ぼされ、前秦の配下につく憂き目にあった。淝水の戦い後、最後の代王だった拓跋什翼犍(たくばつじゅういきこん。たくばつじゅうよくけん。位338-376)の孫である拓跋珪(たくばつけい。371-409)が前秦の衰退に乗じて代王を称し自立(386)、代国滅亡から10年の時を経て再興の好機を掴んだ。
代王拓跋珪が興した、代国に変わる国家は"魏(ぎ)"と呼ばれた。過去にも戦国時代(B.C.403-B.C.221)の魏(B.C.5C-B.C.225)や、曹丕(そうひ。187-226。文帝。ぶんてい。位220-226)が建国した魏(220-265)があり、"魏"を称した国は3度目の登場であった(実はこの他にも、五胡十六国時代に"魏"を用いた小国家が2つほど存在する)。拓跋珪が興した魏は歴史上、「北魏(ほくぎ。386-534)」の呼称で知られている。国家樹立時の都は盛楽(せいらく。現・内モンゴル自治区フフホト市のホリンゴル県に位置)だった。
魏王となった拓跋珪(王位386-398)は、河北(黄河北岸)を攻めてモンゴル系民族の柔然(じゅうぜん)や十六国の一国・後燕(こうえん。384-407)を興していた鮮卑慕容部(ぼよう)をはじめとする北方系民族を次々と破り、これにより華北一帯は北魏の勢力圏となった。さらに398年、平城(へいじょう。山西省大同市。だいどう)に遷都するとともに(398-494)、拓跋珪はついに中国の帝位、つまり皇帝の位をいただくこととなり、中華帝国・北魏の初代皇帝、道武帝(どうぶてい。帝位398-409。太祖。たいそ)となった。北魏建国以降、華北は君主権の強い王朝が入れ替わり、隋・唐時代(ずい。581-618。とう。618-907)へと至って拓跋氏出身の一族が国家形成の主役を為した(これを"拓跋国家"と呼ぶ)。
道武帝は北魏の国家政策について、まず中国の中央集権体制を重視する上で、部族合議制の解体により専制君主制を推進した。さらに鮮卑拓跋部の民族性を考え、拓跋部の習俗を改めて漢民族社会の吸収を行った(漢化政策)。本格的な拓跋国家の第一歩を踏んだ道武帝はその後も仏教を厚く奨励するなどの諸政策を実行した。
道武帝の后妃には、五胡十六国時代からの宿敵である鮮卑慕容部の国・後燕の第2代皇帝・慕容宝(ぼようほう。恵愍帝。けいびんてい。後燕帝位396-398)の末娘の他、匈奴の独孤部(どくこ)の部族長・劉眷(りゅうけん。?-385)の娘などがいた。子宝に恵まれた道武帝だったが、晩年は酒におぼれたため精神を患い、乱行が目立っていった。このとき次子・拓跋紹(たくばつしょう。394-409)は、帝によって幽閉された母(帝の貴妃だった)を助けるためにクーデタをおこし、道武帝を暗殺したとされている(道武帝暗殺。409)。その後母を解放した拓跋紹は、宮廷を占領して政権簒奪を企てたが、兄の拓跋嗣(たくばつし。391-423)が挙兵して拓跋紹とその母を殺害し、北魏第2代皇帝として即位した(明元帝。めいげんてい。位409-423。太宗。たいそう)。
明元帝の治世でも、漢人を官吏任用して漢化政策を維持し、また産業では農業を奨励した。明元帝の時代、江南地方では異変が起こっていた。江南の統一王朝であった東晋が滅び(東晋滅亡。420)、禅譲を受けた東晋武将・劉裕(りゅうゆう。356-422。武帝。ぶてい。位420-422)によって宋(そう。南朝宋。420-479。首都建康)が建国され、隋が中国大陸を統一するまで江南地方は4王朝が興亡を繰り返す、いわゆる南朝が始まった(420-589)。北魏・明元帝はこの南朝宋や柔然を敵に戦うが423年に没し(明元帝崩御。423)、長子の拓跋燾(たくばつとう。408-452)が即位した(太武帝。たいぶてい。位423-452。世祖。せいそ)。
太武帝はまず、北辺における長年の宿敵、柔然の討伐に精を出し、425年にこれを討った。大きな勢力の撃退に成功した太武帝は、華北の統一に目標を置き、匈奴の夏王朝(か。407-431。赫連勃勃(かくれんぼつぼつ。381-425)の創始)をはじめ、漢人国家・北燕(ほくえん。409-436)、匈奴の北涼(ほくりょう。397-439)といった五胡十六国の有力国家を次々と滅ぼして、439年、ついに五胡十六国時代を終わらせて華北統一を果たした(北魏の華北統一。439)。北魏統一から隋建国まで、華北に興亡した王朝を北朝(439-581)と呼び、南朝と合わせて南北朝と呼ばれる(南北朝時代。439-589)。
太武帝の内政では、華北統一に功績をあげて宰相に任ぜられた漢人の崔浩(さいこう。381-450)による漢化政策の促進と、かつての五斗米道(ごとべいどう)を改革した道教の新天師道(しんてんしどう)と呼ばれる教団組織を立ち上げた道士・寇謙之(こうけんし。363-448)による道教布教が目立った。道教は、中心概念であるTAO(タオ。道のこと)が万物の不滅の真理を表し、不老長寿を目指す要素がある。そして神仙思想や老荘思想、そして陰陽道や呪術といった民間信仰の諸要素に仏教の影響が加わり、後漢(ごかん。25-220)末期に太平道(たいへいどう)や五斗米道を源流として成立していった。
寇謙之は、415年、道教の神である太上老君(たいじょうろうくん)の啓示を受けて天師位と教書を授かったと言われた人物で、その後道教の様々な秘法を受けたことにより、道教信仰の系統をもつ崔浩も彼に師事した。こうして宮中に入ることができた寇謙之は太武帝に近づくことに成功、424年、太武帝も道教を認め、寇謙之は424年に新天師道設立となったわけである。太武帝は天師道信者の増大と1日に数回も行わせる祈祷精神に感激し、帝自らも入信することとなり、440年、"道君皇帝"と称されて、442年に道士としての儀式を受けた。これにより、崔浩の進言で寇謙之は帝の尊崇者となり、北魏は道教国となった(北魏の道教国教化)。
崔浩は道教が国家宗教になったことを受け、北魏の440年代は、大規模な仏教弾圧(廃仏)が展開されることとなる。長安の寺院に大量の武器が発見されたことが引き金となったと言われ、446年に太武帝自ら廃仏の詔を発し、焚書・仏像破壊・僧侶生き埋めといった弾圧を敢行した。これが、中国史における三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん)と呼ばれる四大廃仏の最初である(太武帝の"武"が三武の1つ)。
崔浩はその後国史編纂にあたったが、漢人の崔浩が鮮卑拓跋部の野蛮な習俗を石碑に残したことで、拓跋部出身である太武帝の逆鱗に触れ、崔浩とその一族、また崔浩の事業に関わった漢人官僚は粛清された(450。国史の獄)。これによる帝の怒りは漢人の南朝宋へも飛び火した。一時は南朝宋と和睦を結んで平和的解決がもたらされたものの、その後北魏は侵寇に転じ、結果宋は長江北岸まで攻められて大敗を喫した(のちに講和締結)。これにより宋は479年に滅亡するまで常に政情不安が続くことになる。
452年太武帝はある宦官・宗愛(そうあい。?-452)の讒言により、帝の寵愛する長子拓跋晃(たくばつこう。428-451)の、信任の厚い2人の重臣を処刑した。そのショックで拓跋晃は病死してしまい、太武帝はその死をひどく悼んだ。帝からの責任追及に怖れた宗愛は同年、これに先んじて太武帝を暗殺した(太武帝暗殺。452)。宗愛は太武帝の末子・拓跋余(たくばつよ。?-452)を擁立するクーデタをおこしたが(第4代皇帝南安王。なんあんおう。位452)、大権を掴んだ宗愛の専横、南安王の無能で国政が乱れ、また両者の対立で南安王は宗愛に殺害され、さらに拓跋晃の子・拓跋濬(たくばつしゅん。440-465)を擁立する一派により宗愛も捕らえられて殺害された(452)。中国史上初めての、宦官による皇帝暗殺という衝撃的な事件であった。
拓跋濬は同452年に即位した(第5代。文成帝。ぶんせいてい。位452-465)。彼の治世では、初心に戻って道武帝の治世を模倣し、さらに仏教弾圧を取りやめた。仏門復興により、文成帝は僧の曇曜(どんよう。生没年不詳)の上奏を受けて、首都平城の西方に巨大な石窟寺院を造営することとなった。これが雲崗石窟(うんこうせっくつ。造営期460-494。2001年世界遺産登録)で、第16~20窟にある、俗に曇曜五窟と呼ばれる5大仏は、道武帝・明元帝・太武帝・南安王(拓跋晃?)、そして文成帝を模したとされ、その内最大の第20窟に掘られた全長13.8mの露坐大仏は初代皇帝の道武帝を模したとされている。
北魏の全盛期は、雲崗石窟の造営が始まって約10年後、名君と言われた皇帝の登場により訪れる。後編に続く。
久々の中国史です。といっても漢民族ではなく五胡の鮮卑が今回の主役です。北魏をつくった鮮卑の拓跋一族は自身の国家を中華帝国にするために、せっせと漢化政策を行っていきました。今回はそんなに長くならないだろうと思っておりましたが、太武帝が出てきたところで充分な量になりましたので、前後編をとらせていただきました。
さて、魏晋南北朝時代のうち、まず三国時代(220-280)の学習ポイントについては、こちらを参照下さい。五胡十六国時代(304-439)の学習ポイントはこちらも詳細がございます。ここでは北魏の本編での学習ポイントを見てまいります。
北魏の建国年(386)、華北統一年(439)、滅亡年(534)は、さあやろう、ヨサクの北魏、ゴミ処理場といった強引な覚え方で覚えました。ちなみに統一年のみ私が受験時、予備校で教わった覚え方で建国年と滅亡年を後から自分でくっつけました。この3つの年は重要ですね(無理なら統一年だけでも覚えましょう)。ちなみにこの頃はヨーロッパでは民族大移動(375)やローマの東西分裂(395)があり、インドではグプタ朝(320-550?)が栄えていた時代です。
北魏の建国者ですが、まず民族は五胡十六国の鮮卑の部族、拓跋氏です。この部族は北魏を中華帝国にするべく、漢化政策を行っていきます。この鮮卑の拓跋氏は覚えておきましょう。建国者の拓跋珪(道武帝)は用語集からは消えていますが、用語解説内に登場しています。以前は書かせたり選択する問題として出題されましたが、マイナー事項になってしまったようです。難関私大で、特にクセのある中国史を出す大学は出題されるかもしれません。
そして首都平城も覚えましょう。平壌ではありませんよ(これはピョンヤンです)。平城は今の山西省大同市のことです。洛陽や長安よりも北方です。これは後編で述べますが、北魏はこのあと遷都も行います。遷都先も大事ですので、平城と合わせて覚えるようにしましょう。
そして統一した439年、立役者は太武帝です。これは記述・マーク関係なく出題される人名です。絶対覚えておきましょう。このとき道教の寇謙之を重用したことも大事です。道教といえば寇謙之を思い浮かべて下さい。そして寇謙之は太武帝時代の人物です。道教の信奉者は道士といいますが、かつてのキョンシー映画などで有名ですね。
建造物では、本編で窟院が登場しました。雲崗石窟です。非常に有名な寺院ですね。これよりも古い、五胡十六国時代につくられたとされる敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)というのもあります。2つとも非常に有名な世界遺産です。この後の後編においても、もう1つでっかい石窟寺院がございます。詳細は後編で。窟院の様式はインドのガンダーラ芸術からのエッセンスが入っています。
最後に廃仏ですが、道教をすすめた寇謙之によって、太武帝は大規模な仏教弾圧をはじめます。三武一宗の法難という4代廃仏ですが、太武帝はその一発目です。1回目は太武帝(北魏)、2回目は武帝(ぶてい。位560-578。北朝北周。ほくしゅう。556-581)、3回目が武宗(ぶそう。唐。618-907。"会昌(かいしょう)の廃仏"といわれる)、そして4回目は世宗(せいそう。五大・後周。こうしゅう。951-960)の全4回。昔は全部覚えなければ行けませんでしたが、最近は登場しないようです。
さて、宦官に殺されるという壮絶な最期を遂げた、太武帝の時代が終わりました。北魏の全盛期に登場した皇帝とはいったい誰か?続きは後編へ!
(注)UNICODEを対応していないブラウザでは、漢字によっては"?"の表示がされます。"淝"水(ひすい)→"さんずいに肥"。"氐"(てい)→"氏の下に―もしくは丶"。拓跋什翼"犍"(たくばつじゅうよくけん)→"うしへんに建"。拓跋"燾"(たくばつとう)→"壽の下に丶が4つ"