5月11日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1891年5月11日は、日露関係を揺るがす大事件、大津事件が起こった日です。
 この年はロシア帝国皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が来日していました。ニコライ一行は九州から東へ移動することになり、神戸、京都を経由して滋賀の琵琶湖に向かいました。当時の日本は明治維新の諸改革のあと、内閣制度、帝国議会、明治憲法の実現で着実に国力の強化をはかっているものの、外交に関しては条約改正の実現はできておりませんでした。
 1889年、第一次山県有朋内閣が組閣され、青木周蔵(あおきしゅうぞう)が外務大臣として初入閣を果たし、ロシアやイギリスに対する外交戦略を任されました。1891年5月には山県内閣に代わり第一次松方正義内閣が発足し、青木周蔵は引き続き外務大臣として留任しました。青木周蔵は条約改正の一環である領事裁判権(治外法権)の撤廃に尽力します。
 当時のロシアはバルカン半島への進出をイギリスに妨げられ、ヨーロッパ政策を断念してアジア政策に方向転換し、中国とは1860年の北京条約で、日本海に面したシベリア東南部の沿海州をロシアが獲得し、ウラジオストクを建設しました。
 ロシアにとって大きな転機は1891年の露仏同盟で、フランス資本の導入により、シベリア鉄道の建設がおこされました。これは極東への開発を表明したことに等しく、隣国にあたる日本は対策を急ぐ形になったのです。ニコライ皇太子はこのシベリア鉄道の起工式典がウラジオストクで行われるため、ロシア艦隊を率いて向かう途中の、日本来訪でありました。
 青木周蔵外相はロシアと対立を深めるイギリスへの領事裁判権撤廃を強く求める外交戦略に努めておりました。彼の尽力でイギリスとの条約改正が実現する直前まできた1891年5月11日、事件は勃発しました。
 現在の大津市にあたる大津町内をニコライ皇太子は人力車に乗って観光しておりました。当時の滋賀県警察部が警備をつとめていたが、この時沿道を警備していた同警察部巡査、津田三蔵(つだ さんぞう)が突然サーベルを抜き、ニコライ皇太子に斬りかかりました。ニコライ皇太子は右側頭部を負傷しましたが、命に別状はありませんでした。津田巡査はその場で取り押さえられました。
 これは日露の大きな外交問題となり、京都で治療を受けるニコライ皇太子を見舞うため、明治天皇の京都行幸が緊急に決まり、京都へ訪れてホテルに宿泊していたニコライ皇太子を見舞いました。ニコライ皇太子はその後の関東方面への観光を打ち切ることになり、ロシア艦隊を率いて神戸からウラジオストクへ向かうことになりました。明治天皇は謝罪の意を述べ、神戸に停泊中のロシアの軍艦を訪れて皇太子を見舞いました。
 津田巡査は裁判にかけられましたが、大逆罪として死刑を誰もが予期していました。しかし海外の皇室に対する犯罪の裁判基準は想定外であったため、傷害および殺人未遂に相当するとして、当時の最高裁判所に当たる大審院の院長、児島惟謙(こじま いけん)は、津田三蔵被告に対し、無期懲役の判決を下しました。これはいわゆる”司法権の独立“を表した判決とされています。
 この大津事件により、イギリスと日英通商条約調印が実現する目前で青木周蔵は外務大臣を辞任することになりました。しかし、1894年に駐英公使となった青木周蔵は、陸奥宗光(むつ むねみつ)外務大臣による条約改正に再び関わり、日英通商条約を調印、また他の欧米諸国に対しても同様の条約に調印することができ、領事裁判権撤廃の条約改正が実現できたのです。

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