5月30日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1925年5月30日は、中国で五・三〇事件が起こった日です。
 中国において近代革命を牽引してきた孫文(そんぶん。1866-1925)が、”革命尚未成功(革命、いまだなお成功せず)”の言葉を遺し、1925年3月12日に没しました。当時の中国は、辛亥革命(1911)後の中華民国・北京政府(北洋軍閥政府)の国政が行き詰まる中、各地の地方軍閥政権が割拠していた混乱の時代でした。孫文は生前、1919年に中華革命党を改組して中国国民党を結成し、広州で中国国民党一全大会を開催し、その後中国共産党(1921年結成。上海。コミンテルンの指導で結成された共産主義政党)と意気投合して、「連ソ・容共・扶助工農」をスローガンに第1次国共合作を実現させており、当時の政府と軍閥政権に対抗する国民協調主義路線を目指しておりました。
 混乱の時代、上海や北京など大都市は軍閥闘争の長期化に伴い、供給が需要を下回るインフレ状態であり、市民の生活は困窮、国民党や共産党の支持者は各地でデモ運動を行っていました。特に工場労働者は供給を促す必要から、劣悪な環境による高圧労働の強制がはかられ、しかも上海は欧米日列強の租界(列強が長期間、借地契約する地域。外国人居留地となる)であり、その各租界で開催された議会で労働条件制限が可決され、上海市民(労働者、大学生など)を中心に租界や政府に対する不満が募っておりました。
 1925年5月下旬に上海の日本人経営の紡績工場で、中国人労働者が待遇の改善による機械打ち壊しが発生しました。工場責任者側は当事者とされた共産党支持者の工員を射殺し、またこの事件で多くの重軽傷者を出しました。上海ではこの事件を発端に労働者や大学生らが決起集会を開いて、列強の帝国主義政策や北京の中国政府への批判を行う政治的示威(デモ運動やビラ配り)を起こしました。
 5月30日の朝、示威活動を行っていた上海の学生十数名が租界警察に連行され、彼らの釈放を求めて大規模なデモを起こしました。その数は数千人とみられています。これに対し北京政府と租界側の欧米日列強は、強硬な弾圧を行い、多くの負傷者、逮捕者、死者が出る大惨事となりました。これを五・三〇事件と呼びます。
 この事件を契機として市民による反帝国主義、反政府、民族主義の運動が高まり、国民党は1925年7月、広州にて広東国民政府を樹立し、翌年には国民党編制の国民革命軍によって、軍閥による北京政府と軍閥への打倒を目指す、いわゆる”北伐“がおこされていくのでありました。

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