8月5日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1772年8月5日は、ポーランド分割が始まった日です。
 1572年にヤゲウォ朝(1386-1572)が断絶したポーランドでは、選挙王制が行われるようになりました。貴族(シュラフタ)、とくに大貴族(マグナート)が選挙で国王を選ぶため、貴族の独裁化が強まっていきます。貴族は富裕化していき、農奴制強化による農民の圧迫、さらに商業における外国の介入などで、ポーランドは国家的には統一感がなくなり、やがてコサック(ウクライナやロシア南島部辺境への流亡農民や没落貴族などによって形成された国境防備の戦士集団。普段は牧畜や狩猟、交易などを行う自治共同体)が反乱を起こしたり(1648)、ロシア軍やウクライナ軍の侵攻もおこり、ポーランドは弱体化していきました。弱体したポーランドにまずつけ込んだのがスウェーデン国王カール10世(王位1654-60)で、リヴォニア(バルト海東岸一帯)の領地確保のための遠征を行いました(ポーランド・スウェーデン戦争。1655-60)。新教国スウェーデンは同じ新教国プロイセンやトランシルヴァニア(現ルーマニア中・北西部)の軍とともに、ポーランド全土を大量の新教国軍で囲い込みました。この有り様は”大洪水“と称され、これまでポーランドの服属を受けていたプロイセンは、1657年、支配から解き放たれました。この戦争によってポーランドは没落を早め、1700年にはロシア皇帝ピョートル1世(帝位1682-1725)と、スウェーデン国王カール12世(王位1697-1718)とのバルト覇権の争奪戦(大北方戦争。1700-21)に、ポーランドがデンマークとともにロシア側について戦う羽目となり、ポーランドはロシア軍の駐屯地と化し、ロシアの支配下状態に陥りました。また1733年、王位継承によるポーランド継承戦争が起こり(1733-35)、フランス王ルイ15世(王位1715-74)をはじめ、ロシア、オーストリアを巻き込み、国力は完全に疲弊しました。この時期になると、貴族身分は諸外国からの買収の対象となっており、国家的機能を持たない地方分権化状態であったため、常に諸外国が干渉するようになっていました。このようにポーランドはプロイセンやロシア、オーストリアなど、啓蒙絶対君主のいる強国によって、いつ国土を奪われてもいい状態となりました。
 ロシア皇帝エカチェリーナ2世(位1762-96)は、ポーランドのロシア化をめざすため、ポーランド国王として元愛人スタニスワフ2世(王位1764-95)を就任させることに成功しました。そして、陽の当たった1772年8月5日、プロイセンの王フリードリヒ2世(大王。王位1740-86)は、オーストリアのマリア・テレジア(ハプスブルク家。1717-80)とともに、ロシアに分割を提案し、これに応じます。結果ポーランドはロシア、オーストリア、プロイセンによって分割が敢行され、ポーランドは国土の約4分の1を分割されてしまいました。これが第一次ポーランド分割です。
 1793年にはフランス革命(1789~1799)の波及でポーランド国内にも憲法制定を目指す改革派が生まれたことに乗じて、プロイセンとロシアによる分割がはじまり、愛国者コシューシコ(コシチューシコ。1746-1817)の義勇蜂起かなわず第二次ポーランド分割は行われました。そして1795年の第三次分割で、オーストリアも再び加わり、3国でポーランドを攻めて、とうとう全土分割を完了し、最後のポーランド王スタニスワフ2世は退位することになりました。3度にわたった強国の分割によって、ポーランドは一時消滅することになりました。
引用文献:『世界史の目 第35話

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