8月6日は何に陽(ひ)が当たったか?

1806年8月6日は、ハプスブルク家(正確にはハプスブルク・ロートリンゲン家)のフランツ(1768-1835)が、神聖ローマ皇帝フランツ2世(帝位1792-1806)として、ローマ皇帝の冠を下ろした日です。神聖ローマ皇帝を退位したことにより、帝位が消滅、962年から始まった(狭義ではカールの戴冠があった800年から)神聖ローマ帝国は、1806年の陽の当たった8月6日をもって、名実ともに滅亡しました。
神聖ローマ帝国を構成し、その配下にあった各ドイツ領邦は、1648年のウェストファリア条約によって主権を認められて、結果300もの領邦国家が誕生し、諸侯の自立とともに神聖ローマ帝国の統一国家的な機能は抑えられました。
当時からこれら諸侯が自立したことにより、有名無実と化した神聖ローマ帝国の存在を、ドイツ諸邦内では精神的な地位として置き換えられました。皇帝を輩出してきたハプスブルク家は、最強のドイツ系貴族を誇り、帝国の統一が失われてもローマ皇帝の冠を頑なに守り、一方ではハプスブルク帝国(1526-1804)として自身の領地であるオーストリア(当時はオーストリア大公国。1457-1804)、そして支配領域であるベーメン(ボヘミア)やハンガリーなどに力を入れながらも、ローマ皇帝の存在を見せつけてドイツ領邦とは比較的安定した関係を続けました。そして1740年に神聖ローマ皇帝カール6世(帝位1711-40)が男子継承者を残さず没し、ハプスブルク家の男系が絶えますが、娘のマリア・テレジア(1717-80)が家督を継ぎ(オーストリア継承戦争の直接の原因、果ては七年戦争の遠因にもなる)、ロレーヌ公出身の夫とともにハプスブルク・ロートリンゲン家としてドイツ諸侯の権威を轟かせ続けたことで神聖ローマ帝国は精神的地位でありながらも帝国として生きながらえていきました。そのマリア・テレジアの夫で、神聖ローマ皇帝として王座についたのが、フランツの祖父に当たる神聖ローマ皇帝フランツ1世(帝位1745-65)です。
フランツ1世のあと、長子ヨーゼフ2世(帝位1765-90)、ヨーゼフの弟レオポルド2世(帝位1790-92)、そしてレオポルドの長子であるフランツ2世と帝位が移り変わりましたが、この間にフランス革命がおこり(1789-1799)、フランツ2世の時に第一次対仏大同盟(1793-97)に加わり、フランス革命軍と対戦しました。フランス革命が終結すると、今度はナポレオン時代(1799-1815)が到来、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)は他のヨーロッパ諸国に脅威をもたらします。
この時フランツ2世は、もはや形骸化した神聖ローマ帝国を守るよりも、母国オーストリア大公国を強化することを決断し、1804年ハプスブルク帝国をオーストリア帝国(1804-67)に改めてオーストリアを大公の国家ではなく、オーストリア皇帝の国家としてフランツ2世の威厳を示しました。フランツ2世はオーストリア初代皇帝フランツ1世として即位したのです(オーストリア皇帝位1804-35)。これにて、実質上の皇帝の誕生で、名目上しか存在しなかった神聖ローマ帝国における帝位の必然性が急速に薄れていきました。
そこへフランス皇帝ナポレオン(ナポレオン1世。帝位1804-14,1815)の手が及び、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)は、ロシア皇帝アレクサンドル1世(帝位1801-25)と手を結び、皇帝ナポレオン1世と会戦しました。3人の皇帝が顔を合わせる、文字通りの三帝会戦でした(アウステルリッツ三帝会戦。1805-12.12)。しかしこの会戦ではナポレオン1世率いるフランスが勝利を収め、フランツ率いるオーストリアは敗戦国となり、プレスブルクの和約で講和しました(1805)。初代オーストリア皇帝としては厳しい船出となりましたが、フランツはハプスブルク家当主、オーストリア皇帝、そして神聖ローマ皇帝として、フランスへの報復を強く誓いました。
陽の当たった1806年8月6日、ナポレオンは神聖ローマ帝国を精神的存在として認めていたドイツ領邦をフランスと同盟させ、神聖ローマ帝国から切り離しました。これをライン同盟といいます。盟主はナポレオン、名目上存在していた神聖ローマ帝国政府の宰相で、もとマインツ大司教カール(大司教位1802-03。宰相任1802-06)を、ライン同盟総裁およびライン同盟首座大司教侯としました。これにより、オーストリア皇帝フランツ1世は、神聖ローマ皇帝フランツ2世としての帝位を放棄し、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅、神聖ローマ皇帝としてのハプスブルク家の地位は完全に終わりを告げました。
神聖ローマ皇帝の冠を辞したフランツは、オーストリア皇帝フランツ1世として、再びハプスブルク家の黄金時代をもたらせるため、そしてフランスへの報復と神聖ローマ皇帝時代の失地を回復するため、全幅の信頼を寄せたメッテルニヒ(外相任1809-48。宰相任1821-48)を強力な右腕として任用し、メッテルニヒはこれに答えて国際会議を開催、主宰者として新たな国際秩序を築くことを志しました。これがウィーン会議(1814-15)です。このウィーン体制によってライン同盟は消滅し、代わって発足されたドイツの国家連合であるドイツ連邦(1815-66)が誕生しました。このドイツ連邦においてオーストリアは盟主となり、オーストリア皇帝フランツ1世は1835年に没するまで、ドイツ連邦国家元首として名実ともに君臨するのでありました。

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