8月7日は何に陽(ひ)が当たったか?
1876年8月7日は、”マタ・ハリ“という芸名として知られるマルガレータ・ゲールトライダ・ゼレ(1876-1917)の誕生した日です。
オランダ北部のレーワルデン(フリースラント州)で、陽の当たった8月7日にマルガレータは産まれました。4人兄弟の長女として、比較的裕福な家で育ち、その天性の美貌で周囲から好意を寄せられていたマルガレータでしたが、彼女が13歳の時に父親の破産して以降は一転して不幸に見舞われ、両親の離婚、母の死、一家離散を経験しました。代父(キリスト教の洗礼の立会人をつとめる人)に引き取られてレーワルデン南西のスネークに移住、その後彼女は幼稚園教師になるためにライデン(南ホラント州)にて学業に励みますが、学長との痴戯が発覚し、マルガレータは代父に見限られてライデンを追われ、叔父の住むハーグに逃げ込みました。1895年、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の陸軍大尉Rudolf John MacLeod(1856-1928)とアムステルダムで結婚し、1897年にジャワ島のマランに移住して2人の子どもに恵まれ、安定した生活が戻ったかに見えました。
しかしその後、夫の酒癖や暴力、子どもの病死、そしてマルガレータの不義などで家庭が破綻していき、1902年にマルガレータは夫と別れ、1903年にフランスへ旅立ちました。そして夫とは1906年に離婚が成立しました。こうしたこともあって家庭を離れていたマルガレータは、フランスへ向かうまでにインドネシアの伝統を学ぶ中、ジャワの伝統舞踊の知識を積んだと言われています。
フランス・パリでのマルガレータとしての人生は、ムーラン・ルージュなどのダンスホールで、ダンサーとして出発しました。芸名”マタ・ハリ“は、マレー語で”太陽の眼“を意味し、露出度の高い衣装を身にまといながら、ショーダンスを見に来た大勢の客を酔わせました。いわゆるストリップ・ショーでした。
当時のフランスは、イギリスやロシアと三国協商(1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商の協調。1917年まで継続)の一員として協調関係を築いており、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟(1882-1915)とは敵対した国際関係でありました。とはいえ、マルガレータは表の顔はダンサー、マタ・ハリとして、裏では高級娼婦(クルチザンヌ)として多くの男性達と夜を共にしました。ダンサーとしてのマルガレータは1912年頃までで、その後はクルチザンヌ中心の生活へと変わっていきました。天性の美女が世に知れ渡り、相手となった男性は、次第に数々の政府の要人や高位軍人らにまでおよんでいきました。中には国家的に影響力を持つ人物が相手になることもありました。世間では、マタ・ハリは誘惑や籠絡を武器にいろいろな国家の要人や軍人と戯れつつ、多くの機密情報が流れる温床にもなっていると噂をするようになりました(諸説あり)。
第一次世界大戦(1914-18)が始まり、大戦に挑んだヨーロッパ諸国は、他国との国際関係を明確に示すことになりました。フランスはドイツを相手に数々の戦線で戦いました。こうした中で、1917年2月、マルガレータはスパイとしてフランス当局に逮捕されてしまいました。罪状はダンサーのマタ・ハリがドイツのスパイであるというもので、当時ドイツ潜水艦Uボートが無制限潜水艦作戦によってフランス船を撃沈させたのも彼女の諜報活動が下地になっているというものでした(諸説あり)。独仏間の戦線では戦況が一時的にフランス劣勢にたたされていた時期も災いし、裁判の結果、マルガレータはドイツが差し向けたスパイとして諜報活動(ヒューミント)を行い、フランスの国家機密を漏洩した罪として有罪判決となり、死刑が宣告されました。
1917年10月、マルガレータはサンラザール刑務所にて銃殺刑に処され、41歳の人生に幕が下ろされました。処刑時、彼女は毅然とした態度で目隠しを拒否したとされ、銃殺寸前で衣類をはだけ、一糸まとわぬ姿で銃で撃たれた、あるいは銃殺寸前に執行者に投げキスをしたなど、クルチザンヌとしての職務を全うするような伝説や噂話が残されました。
その後、マルガレータは、ダンサー、”マタ・ハリ”として映画や舞台にフィクションとして題材にされ、歴史的なハニー・トラップや女性スパイの代表的人物として位置づけられるようになりました。
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