8月21日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1898年8月21日は、のちに大事件へ引き起こすことになった演説が行われた日です。
 地租増徴案を自由党、進歩党らに賛同を得られず退陣となった第3次伊藤博文内閣(1898.1.12-1898.6.30)にかわって、1898年6月30日に誕生した第1次大隈重信内閣(1898.6.30-1898.11.8)は、自由党、進歩党の合同で成立した憲政党をベースに組閣された初の政党内閣です。内閣総理大臣と外務大臣を兼任した旧進歩党系大隈重信(おおくま しげのぶ。1838-1922)と、内務大臣の任命を受けた旧自由党系板垣退助(いたがき たいすけ。1837-1919)が中心となり、”隈板内閣(わいはんないかく)”と呼ばれました。
 しかし結党されたばかりの憲政党内部では、党運営をめぐって、旧進歩党系と旧自由党系との対立がおさまらない状況でした。こうした中で、陽の当たった1898年8月21日、帝国教育会が主催する全国小学校の教職員講習会にて、文部大臣であった尾崎行雄(おざき ゆきお。1858-1954)は、次の演説を行いました。
 ”世人は米国を拝金の本家本元のように思っていますが、世人が思うほど拝金主義の国ではなく、その証拠に米国では金があるために大統領になったものは一人もいません。歴代の大統領はどちらかといえば貧乏人の方が多いです。日本では共和政治の国となることはありませんが、仮に共和政治があり、大統領を選挙する組織がある夢を見たとすれば、おそらく三井、三菱の当主は大統領の候補者となるでしょう。”
 この演説は当時の財閥の存在が、政治を腐敗させ、金権政治に変わり果てている風潮を批判したものでありました。当時の日本は天皇主権の大日本帝国憲法下で政治が行われていましたので、日本に共和政治を仮定したことが、天皇制を一時でも否定したとして、宮内省、枢密院、貴族院などからこの演説を不敬であると批判されました。旧自由党系星亨(ほし とおる。1850-1901)や前内閣で農商務大臣だった伊東巳代治(いとう みよじ。1857-1934)、前内閣総理大臣の伊藤博文(いとう ひろふみ。1841-1909)、陸軍大臣の桂太郎(かつら たろう。1848-1913)らがこの”共和演説”を攻撃して”尾崎おろし”を画策しました。旧進歩党系の尾崎行雄が旧自由党系の星亨らに排除される事態は、憲政党分裂、ひいて内閣瓦解を誘発する危機をはらみました。
 尾崎行雄は明治天皇(位1852-1912)に謝罪しますが、時既に遅く、不信任として文部大臣を辞任する結果となります。後任の文部大臣には、憲政党から旧進歩党系犬養毅(いぬかい つよし。1855-1932)が任命されましたが、今度は内相で旧自由党系の板垣退助が犬養任命について反対の意を表明し、旧自由党系の大臣が相次いで辞任を表明、与党である憲政党の分裂は決定的となりました。そして10月31日第一次大隈内閣は退陣となりました。
 この結果、憲政党は旧自由党系だけが残りますが、1900年9月に解党、党員は伊藤博文の組織した立憲政友会に合流しました。一方の旧進歩党系は憲政本党を結党し、1910年に解党して非政友会のメンバーらと立憲国民党に合流していきました。

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