9月25日は何に陽(ひ)が当たったか?

1396年9月25日は、現在のブルガリア北部に位置するドナウ南岸のニコポルで、西ヨーロッパ連合軍とオスマン帝国軍が会戦した日です。世に言う、ニコポリスの戦いです。オスマン帝国(1299-1922)の圧勝に終わり、バルカン半島と、中央ヨーロッパに対する大きな脅威となっていきました。
オスマン帝国皇帝、バヤズィト1世(バヤジット1世。帝位1389-1402)は”イュルドュルム(「電光」「稲妻」)”の異名を取るほど、あらゆる軍事戦略への行動が迅速であり、コソヴォ戦(1389.6)以降も征服戦争を矢継ぎ早に行い、バルカンとアナトリアを攻略していきました。とりわけビザンツ帝国(東ローマ帝国。395-1453)においても数度にわたって首都コンスタンティノープル(現イスタンブル)を包囲するなど、勢いはますます加速していきました。
この脅威にさらされたヨーロッパ諸国は、ハンガリー王ジグモンド(王位1387-1487。のちの神聖ローマ皇帝ジギスムント。帝位1410-37)を中心に、国籍を超えたキリスト教世界の軍、いわば中世最後の十字軍を結成し、陽の当たった9月25日、バヤズィト1世率いるイェニチェリ軍団およびシパーヒーをはじめとする騎兵団によるオスマン帝国軍とニコポリスで会戦することになりました。
バヤジット1世はジグモンド王の十字軍について、西欧式戦法である一騎打ちを仕掛けてくると判断し、中心に歩兵であるイェニチェリを従え、前面にアザプと呼ばれる不正規の軽騎兵を配置、その周囲に奴隷出身の常備騎兵、そして左右両翼にアナトリアとバルカンのシパーヒー騎兵を配置させ、集団戦法の態勢に入りました。バヤジット1世の思惑通り、一騎打ちにこだわったフランス軍の騎士たちが、ジグモンド王の制止を振り切って我勝ちに突撃、オスマン帝国軍前線のアザプを追い散らしましたが、バヤズィト1世は中心にいたイェニチェリを後退させ、誘い込まれたフランス軍がさらに前進したところを待機していたシパーヒーの猛反撃にあい、ジグモンド王の十字軍はあえなく潰走しました。オスマン帝国軍は、ヨーロッパの十字軍をも撃退するにまで発展したのです。
すでにアッバース朝(750-1258)は滅亡していましたが、アッバース家のカリフ(預言者の代理とする、ムスリム全体の最高指導者)は、エジプトのマムルーク朝(1250-1517)に守られていました。時のカリフであったムタワッキル1世(カリフ位1389-1406)は、ニコポリスの戦いにおいて、イェニチェリとシパーヒーを頭脳的に率いて、キリスト教世界の十字軍を撃破したバヤズィト1世を讃え、彼に”スルタン“の称号を付与したのです。その後もバヤズィト1世は、征服活動を休む間もなく続けていき、アナトリアおよびバルカンのほぼ全域を支配下におさめていくのでした。
引用文献:『世界史の目 第264話』より

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