9月27日は何に陽(ひ)が当たったか?

1529年9月27日はオスマン帝国(1299-1922)により第一次ウィーン包囲が始まった日です。
第10代オスマン皇帝に即位したのは、”大帝”、”壮麗”の帝”、そして”立法帝”など、偉大なる名を世に轟かせ帝国の黄金期を現出したスレイマン1世(帝位1520-66)です。即位時彼は26歳であり、その美貌で秀麗な姿は過去の皇帝とは引けを取らないほどでありました。
オスマン帝国では、”クズル=エルマ”の獲得をめざし、達成されるまで聖戦を行うとされました。この”クズル=エルマ”とは”赤いリンゴ”を意味し、それはヨーロッパをさすものと言われ、スレイマン1世もその”赤いリンゴ”の征服を目指したのでした。
スレイマン1世は1521年、25万の兵力でハンガリー王国(1000?-1918,1920-46)からベオグラードを獲得し、ヨーロッパ遠征の滑り出しに成功しました。”ヨーロッパへの入り口”であるベオグラードを手中に収めたスレイマン1世率いる軍は、1526年、北進してハンガリーへ侵攻を開始しました。当時18歳で親征したハンガリー王ラヨシュ2世(位1516-26)は、援軍を待たずして開戦に踏み切りましたが、オスマン軍の誘導戦術と強力な大砲に倒れていき、ハンガリー軍は潰滅しました。この1526年に行われた戦争はモハーチの戦いといいます。
モハーチの戦いに敗れたハンガリー王国は、オスマン帝国によって、領土の大部分を占領されました。しかしオスマン帝国にとって、この戦における最大の誤算はラヨシュ2世を戦死させたことでありました。ラヨシュ2世が亡くなったことで、次期ハンガリー王の後継者が選定されることになり、ラヨシュの妃マリア(1505-1558)の血筋から選ばれることになったのです。
マリアはオーストリア大公国(1457-1804)を拠点とするハプスブルク家のブルゴーニュ公フィリップ4世(フィリップ美公。公位1482-1506)とイベリア半島のカスティリャ王国(1035-1715。スペインの前身)の女王ファナ(1479-1555)の娘で、兄たちには神聖ローマ帝国(962-1806)皇帝カール5世(帝位1519-1566。スペイン王カルロス1世。王位1516-56)と、その弟でオーストリア大公、のち次の神聖ローマ皇帝となるフェルディナント(大公位1521-64。帝位1556-64)がいました。フェルディナントはラヨシュ2世の姉と結婚していたため、次期ハンガリー王として推戴された場合、政略結婚で領土を拡大していったハプスブルク家が、国家規模に発展するいわゆるハプスブルク君主国(ハプスブルク帝国。1526-1806)の形成を意味したのです。
結果、フェルディナントはハンガリー王フェルディナーンド1世(位1526-64)として即位しました(同時にベーメン王にも即位。位1526-64)。ハプスブルク家はハンガリーとベーメンを領有した大家としてヨーロッパ世界に君臨することになります。つまり、ラヨシュ2世の死は、ハプスブルク家を台頭させる要因にもなったのです。
とは言っても、ハンガリー王国を支配したのは、モハーチの戦いに戦勝したオスマン帝国です。スレイマン1世はハンガリーにオスマン軍を駐屯させました。ハンガリーの貴族達は、神聖ローマ皇帝の権力で議会を招集し、ハンガリー王位を継承したハプスブルク家の介入に異議を唱えました。オスマン皇帝スレイマン1世は、”クズル=エルマ(赤いリンゴ)”の獲得に躓きを許さない立場で、敵国であるローマ帝国打倒に執念を燃やし、反ハプスブルクを掲げるハンガリーの貴族達を支持し、ハプスブルク家のフェルディナントと真っ向から対立し、ついに神聖ローマ帝国に侵攻することになりました。これが、陽の当たった1529年9月27日に始まる、世に言うウィーン包囲です(第一次ウィーン包囲。1529.9-29.10)。

オスマン帝国軍の兵力は12万で、イェニチェリ軍団、常備騎兵団、地方騎兵団、砲兵団で構成、300門の大砲を引っさげて、ハプスブルク家の拠点であるオーストリア大公国の首都ウィーンに侵攻しました。ウィーンを防衛するオーストリアの兵力は、スペインやドイツ領邦からの支援があったものの、オスマン軍に遠く及びませんでした(約1~2万数千。最大でも約5万数千。大砲もおよそ70門)。
当時神聖ローマ帝国はフランスとイタリア戦争(1494-1559)で交戦中でした。特に1525年のパヴィア(イタリア北西部。現ロンバルディア州)での戦闘では、カール5世が軍を指揮したフランス国王フランソワ1世(王位1515-47)を一時的に捕虜にし、その後フランスがローマ教皇やミラノ、フィレンツェといったイタリア都市と同盟を結んで強化をはかるも、カール5世の軍勢に敗れました。イタリア戦争ではドイツ(神聖ローマ帝国)が優勢でありました。
その一方ドイツ国内では新教ルター派による宗教改革(1517-1555)で揺れ動いていました。モハーチ戦勃発直前、神聖ローマ皇帝カール5世はオスマン帝国軍のヨーロッパ進出に備え、第1回シュパイエル帝国議会(1526.8)を召集し、ルター派を容認して国内安定をはかりますが、ルター派諸侯の台頭を招いてしまいました。このため、オスマン帝国軍のウィーン入城前の4月に第2回シュパイエル帝国議会(1529.4)を開催、カトリック諸侯を擁護してルター派再禁止を決議しました。
こうしたドイツの状況を捉えたフランスのフランソワ1世は、敵対するカール5世を倒すため、カール5世と同じカトリック教徒でありながら、ドイツでは再び異端となったルター派を支援して国内をより混乱させようとし、しかもウィーンを包囲するオスマン帝国に対して、異教国ながら友好な関係を結んだのです。フランスにしてみれば、オスマン帝国との関係が良好であれば、ドイツを挟撃可能な状態であり、カール5世を牽制するには充分の材料でした。
ウィーンを包囲したスレイマン1世はただちに攻撃を始めましたが、オーストリア軍は兵力の差から攻撃面よりも防衛面に重視し、堡塁や土塁で防衛線を固めてオスマン軍の砲撃から死守しました。このため、攻城が予想外に手間取り、しかも悪天候で輸送困難な行路でしたので、すべての大砲が揃わないアクシデントもありました。しかも、包囲をはじめた時期は10月で、冬の到来の早いウィーンでの攻防戦となると、防寒対策に予断を許したオスマン帝国軍はいくら兵力が多くても長くは続かなかったのです。このためスレイマン1世は10月半ば過ぎにウィーンからの全軍撤退をはじめました。
オスマン帝国はウィーン包囲でその勢力をヨーロッパ諸国に見せつけたものの、ウィーンを陥落させることはできませんでした。ハプスブルク家の外敵フランスから支援されても、またドイツ国内で宗教改革に揺れている状態でも、自軍の兵力が桁外れに備わっていても、”赤いリンゴ”を射止めることはできなかったのです。一方、西ヨーロッパ世界側にとっては、ハンガリーの国土大半を奪われ、ウィーンが1ヵ月近く包囲されたことは、ビザンツ帝国(395-1453)の滅亡(1453)以来の大きな衝撃でした。スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍の際だった強さは、西方世界にとっては脅威となったのでした。
引用文献:『世界史の目第266話』より

オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)

新品価格
¥864から
(2018/8/25 18:42時点)

オスマン帝国の栄光 (「知の再発見」双書)

新品価格
¥1,728から
(2018/8/25 18:42時点)

オスマン帝国六〇〇年史 三大陸に君臨したイスラムの守護者 (ビジュアル選書)

新品価格
¥3,505から
(2018/8/25 18:42時点)