10月7日は何に陽(ひ)が当たったか?

1571年10月7日は、オスマン帝国(1299-1922)と西ヨーロッパ勢からなる神聖同盟との戦争、レパントの海戦が行われた日です。
オスマン帝国海軍は1538年のプレヴェザ海戦でスペイン=ハプスブルク家のスペイン王国(1516-1700)・ヴェネツィア共和国(697-1797)・ローマ教皇領(752-1870)の連合艦隊を相手に勝利を手にし、地中海の制海権を得て、大きく飛躍しました。
西欧側はローマ教皇ピウス5世(教皇位1566-72)の提唱で神聖同盟を結成、カトリック勢力の連合艦隊を再建しました。参加したのは、教皇領、スペイン王フェリペ2世(王位1556-98)率いるスペイン王国、ヴェネツィア共和国をはじめとして、ジェノヴァ共和国(1096-1797)、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の他、北イタリアのカトリック系諸国家(トスカーナ、サヴォイアなど)も加わり、プレヴェザ海戦以降の対オスマン報復戦の様相を呈しました。ヨーロッパ連合艦隊はフェリペ2世の異母弟にあたる当時24歳のドン・フアン(1547-78)が指揮をとり、ガレー船200余隻を中心とする約300隻の艦隊、約1,800門の大砲、そして兵員はプレヴェザの60,000よりは激減したが、およそ22,000規模の戦力で対オスマンに挑みました。
一方のオスマン帝国海軍は、大宰相ソコルル・メフメト・パシャ(大宰相任1565-79)に指揮を命じられたアリ・パシャ大提督(任1569-71。大提督は”カプダン=パシャ”と呼ばれるオスマン艦隊の最高司令官)を中心に、プレヴェザ海戦以上の315余隻の艦隊と大砲2,000門、そして兵員26,000人に増強して臨みました。アリ・パシャは艦隊右翼側を海賊のマホメット・シロッコ(?-1571)、艦隊左翼側をアルジェのベイレルベイ(州県郡の行政区分における州の軍政官。州は県より上)をつとめたウルチュ・アリ(クルチ・アリ・パシャ。オッキアーリ。1519-87)に命じました。
陽の当たった1571年10月7日正午、火蓋は切って落とされました。レパントの海戦の開戦です。イオニア海のギリシアへの湾入部にあたるギリシア本土とペロポネソス半島をはさむコリント湾が海戦の舞台で、レパントは同湾北岸に位置します(“レパント”の名はイタリア語やスペイン語読み。ギリシア語では”ナフパクトス”)。この地域はオスマン帝国の支配域であり、陸上支援も有利な状況でした。
熾烈な戦いとなったこの海戦はヨーロッパ連合艦隊の左翼を率いたヴェネツィアのアゴスティーノ・バルバリーゴ指揮官(1518-71)が、強勢であるシロッコの艦隊に攻撃され、右目を射貫かれて数日後に死亡し、劣勢に立たされますが、強固で用意周到な協力体制を敷いていた連合艦隊は援軍の防衛によりこの危機を切り抜け、猛反撃を開始、シロッコの船を攻撃して沈没させました。シロッコは沈没する船から飛び降りるもヴェネツィア軍に捕らわれ、その後死亡しました。中央では、連合艦隊を率いるドン・フアンと、オスマン艦隊を率いるアリ・パシャが激戦を展開、結果アリ・パシャは戦死し、最高司令官を失ったオスマン側がいっきに劣勢に転じました。およそ200隻近いガレー船が拿捕、もしくは撃沈されて、オスマン側だけでも5,000の戦死者を出し、多くの兵士が捕虜となってしまいました。連合艦隊側も戦死者は7,000以上と多かったですが、バルバリーゴ以外の高位指揮官を落命させることはなく、ガレー船を十数隻失ったのみにとどまりました。結局、この海戦はオスマン帝国艦隊の敗北となりました。
戦勝したヨーロッパの連合艦隊に比べても、海軍組織の構造や技術などには何の遜色はありませんでした。しかしヨーロッパ側の用意周到な戦術に比べ、オスマン艦隊側では正面から戦うことを主張したアリ・パシャと、砲撃を受けた艦船の傷みが進行したため守りに徹するべきだと主張したウルチュ・アリとの衝突で戦士一同の団結が鈍り、結果的に敗戦を招いてしまいました。ウルチュ・アリは水軍出身で豊富な経験と知識を持っていましたが、総指揮を務めたアリ・パシャは過去の数ある戦争に勝ち続けたものの、海戦は経験が乏しかったのです。ウルチュ・アリは死傷兵の続出で戦意が喪失しかけている自軍を守ることを優先しましたが、ウルチュ・アリの主張を退けて正面攻撃を強硬すれば必ず勝てると過信した、アリ=パシャ総指揮の判断が勝敗を分ける結果となってしまったのです。オスマン艦隊の戦略失敗でアリ・パシャやシロッコらを失って大敗北を喫したのに対し、神聖同盟でもって協力体制を敷き、たとえ指揮官を失っても動揺せず守りに入ってヨーロッパ連合艦隊側が勝ちを収めたのです。
しかしオスマン帝国海軍はあくまでアリ・パシャの戦術面で失敗を被っただけで、強力な軍隊に変わりはなく、ソコルルはウルチュ・アリを大提督に任命して(任1571-87)、船体の修復および艦隊の再建をほぼ半年余で完了させ、1572年の6月には250隻に及ぶオスマン艦隊を再度地中海に送り出し、翌1573年にはヴェネツィアとの和睦を成立させて、さらに1574年にはチュニジアのハフス朝(1229-1574)を滅ぼしてチュニジアを支配下に置くなど(オスマン領チュニジア。1574-1705)、オスマン帝国の国際的地位は揺らぐことなく、地中海域の制海権も依然として保ったのでした。
なおこの海戦は『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)も従軍した海戦としても有名です。
引用文献『世界史の目 第268話』より

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