10月10日は何に陽(ひ)が当たったか?

 732年10月10日はゲルマン国家のフランク王国(481-887)とアラブ帝国のウマイヤ朝(661-750)がフランス西部で激突した戦争が行われた日です。世に言う、”トゥール・ポワティエ間の戦い“です。
 フランク王国は当時メロヴィング王朝(481-751)の時代でした。始祖クローヴィス1世(王位481-511)の死後、独自のゲルマン法(サリカ)により、相続は4人の子に分割されたので、一族の内紛、各地の諸侯の台頭などもあり、王国は分裂と統一を繰り返し、6世紀後半から王権は弱体化していき、東部のアウストラシアと西部のネウストリアが分かれる状態になりました。この情勢より、もともと宮廷の家政に携わっていた行政の最高職であるマヨル・ドムス(宮宰。”家政の長官”の意味)が分かれた国それぞれに実権を掌握していました。そんな中、アウストラシアの宮宰が勢力を伸ばしていきました。
 アウストラシアではピピン家が宮宰職をつとめ、ピピン1世(大ピピン。宮宰任615?/623?-7C前半)から宮宰の世襲がはじまります。大ピピンの孫ピピン2世(中ピピン。任680-714)は、687年のテルトリの戦いでネウストリアの宮宰エブロイン(任658-673、675-680)を倒し、フランク王国の統一的宮宰となりました。中ピピンの死後、その庶子カール・マルテル(686-741)が715年にアウストラシア宮宰となり、718年に他の宮宰を制してフランク全王国の宮宰となりました(任718-741)。
 折しも、この頃はイベリア半島のイスラム帝国・ウマイヤ朝をはじめとするイスラム軍がゲルマン国家を脅かしていた時期であり、711年にはフランス南部からイベリア半島に築かれたゲルマン国家、西ゴート王国(415-711)がグアダレーテの戦いでウマイヤ朝に滅ぼされています。
 陽の当たった732年10月10日、ピレネー山脈を越えたウマイヤ朝軍がフランク王国領内に侵入して、カール・マルテル宮宰が率いる軍隊と戦うことになりました。トゥール・ポワティエ間の戦いの勃発です。イスラム教徒とキリスト教徒が対峙する戦争となりましたが、イスラム軍はフランク軍の強力な重装歩兵隊の盾に阻まれ、結局はイスラム軍内の不協和音の発生により指揮官アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー(?-732)が殺され敗退したことにより、フランク軍の勝利となり、西欧のキリスト教世界は守られたのです。
 この戦いによるカール・マルテルの功績は大きく、重装歩兵を中核とする騎士団を編成して軍制の中心とし、教会領を没収してそれを臣下に与え、主従関係を築く制度をうちたてましたが、これは今後の西欧の封建社会の確立にもつながることであります。こうしてピピン家の権威は絶大なものとなり、同家はその後”カールの子孫”を意味する”カロリング“と呼ばれました。カロリング家の誕生です。741年のカール・マルテル死後、小ピピン(714-768)は兄カールマン(706?/713?-754)と宮宰にたってフランク王国を支配しました。兄は747年に引退し、小ピピンはローマ教皇に王としての正統性を黙認させて、メロヴィング朝の最後の王キルデリク3世(位743-751)を廃し、短躯王ピピン3世(位751-768)として王位につきました。これがカロリング朝(751-987)です。

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