11月2日は何に陽(ひ)が当たったか?

 1917年11月2日は石井・ランシング協定締結の日です。
 日清戦争(1894)、日露戦争(1904)の戦勝で、ロシア・中国以上に極東の大国として欧米列強に認識されることになった日本。日露戦争後の講和であるポーツマス条約(1905)では賠償金を得られなかったものの、朝鮮における日本の優越権が承認され(1910年に韓国併合が完成)、南樺太領有、旅順と大連の租借権、ロシア東清鉄道の長春以南(ちょうしゅん。現吉林省)における南満州支線(のちの満鉄。南満州鉄道)の権益譲渡(翌1906年、南満州鉄道株式会社を設立)が決まりました。これがいわゆる日本のアジアにおける特殊権益です(この特殊権益はポーツマス条約において正当に認められ、得られた利権の意味を持ちました)。
 さらに日本には1902年にイギリスと結んだ日英同盟がありました(1902.1.30締結)。日英同盟はイギリスがこれまで固持していた”光栄ある孤立(Splendid Isolation)”を捨ててまでしても、アジア権益を脅かすロシアを牽制するために、同じく満州・朝鮮をめぐってロシアと対立する日本と対露路線で協調した同盟です。結成当初は締結国が対戦国と戦争する場合、交戦相手国が一国の場合、同盟国は中立を守り、二国以上の場合は参戦して締結国を助けるという軍事的防衛同盟の性格がありました(その結果が日露戦争です)。1905年8月12日にこの同盟は更新されましたが、イギリスにおけるインド権益、日本における朝鮮権益を相互承認し、そして戦う相手国が一国の場合でも、同盟国は参戦して締結国を助ける攻守同盟になりました。ところが、1911年7月における3回目の更新ではアメリカの介入があり、交戦相手国からアメリカが対象外とされて、日英間の同盟の意味合いが薄れてしまいます。
 第3次日英同盟に基づき、日本は連合国側として第一次世界大戦に参戦(1914.7.13。ドイツに宣戦)、ドイツの極東における根拠地(膠州湾を含む山東半島。青島市がある)を攻略・占領しました。その後、中国に対して対華21ヶ条要求を突きつけ(1915)、山東半島の諸利権をはじめ、南満州・東蒙古における特殊権益を求めるなど、帝国主義の性格を徐々に見せ始めていきました。
 アメリカはかつての国務長官ジョン・ヘイ(1838-1905。任1898-1905)が宣言した中国の”門戸開放“・”機会均等“・”領土保全“の三原則(1889,90。ヘイの門戸開放宣言)でヨーロッパ列強の中国分割に介入し、乗り遅れた中国進出を果たしていました。日本は中国における特殊権益を保持しようとしたとき、最も大きな障害となる国はアメリカでした。案の定そのアメリカは、日本の対華二十一か条要求には承認しませんでした。ポーツマス条約のあと、アメリカは南満州鉄道を日本と共同経営をもちかけ、門戸開放を維持しようとしましたが、まもなく破綻し(桂・ハリマン協定の破棄。日本側が破棄。1905)、これによって日米間はいっきに冷え切ってしまいました。
 しかも、その頃日本が前述の日英同盟やポーツマス条約以外にも、日仏協約(1907)や日露協約(1907)などを通じて欧州列強を相手に次々と手を結んだことに対して、逆にアメリカは国際的に孤立するようになり、帝国主義への道を着実に歩む日本との関係悪化は避けられないものとなっていました。1906年にカリフォルニア州で起こった日本人学童の通学拒否事件に始まる日本人移民排斥はこういった状況によるものです。日本人移民排斥の結末は1924年、排日移民法(1924年移民法)という、日本人の移民は完全に停止を余儀なくされていくのでした。 
 アメリカの門戸開放政策と日本の特殊権益擁護は折り合いの付かず、その後も両国の関係は冷え切った状態が続きましたが、1917年に大きな転機が起こった。当時アメリカのウッドロー・ウィルソン大統領(1856-1924。任1913.3.4-21.3.4。民主党)の国務長官を務めたウィリアム・ジェニングス・ブライアン(任1913-15)は、第一次世界大戦中の混乱に乗じて中国大陸進出と権益の獲得と維持をはかる日本に対して牽制し、「ブライアン・ノート」を駐米大使に手渡しましたが、その内容というのは、日本の対華21ヶ条要求には賛同しないが、中国における門戸開放および機会均等、そして中国領土の保全というアメリカの主張に同意するのなら、原則として日本の中国における特殊権益を承認するという妥協手段に満ちたものでした。
 こうした妥協を決定するために、1917年11月2日、対米特派大使を務めた石井菊次郎(いしい きくじろう。1866-1945。元外務大臣。任1915-16)と、ブライアン辞職後に就任したロバート・ランシング国務長官(1864-1928。任1915-20)がワシントンで会談を行い、合意が成立しました。これが石井・ランシング協定です。この協定により、日米間で中国における門戸開放・機会均等・領土保全が約束され、アメリカは日本の中国特殊権益を承認しました。しかしこの承認は門戸開放を主張するアメリカにとって満足するわけがなく、また満州の特殊権益についてアメリカの解釈は経済的な権益として見ていただけに過ぎないのに対し、日本の解釈は経済的権益だけでなく政治的権益も含めていたため、この協定の是非が問われることになっていくのでした。
 結果的にはアメリカがしいたワシントン体制での、1922年2月に締結した九ヵ国条約によって、アメリカ本来の主張する門戸開放・機会均等・領土保全の原則を参加国に呼びかけ、中国は主権を持った独立国家であり、中国における全ての権益不可侵を主張したのです。これにより、日米間で結んでいた石井・ランシング協定は失効となり(九ヵ国条約発効日の1923.4.14)、日本は、第一次世界大戦でドイツから奪った山東省の権益を返還することになりました(山東懸案解決条約。山東還付条約。1922.2.4)。

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